表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

後宮血花伝

作者: 春秋梅菊


 後宮の夜は人知れず、陰謀がうごめく。

「玉葉や、お前に殺して欲しい者がいるのだよ」

 暗い部屋の中、(りゅう)皇后のしなびた唇が低い声を発した。床に片膝をつき、こうべを垂れていた藩玉葉(はんぎょくよう)は、微かに視線を持ち上げて答えた。

「ご命令とあらば、誰なりとも殺してみせましょう。皇后様、どうぞ私へお申しつけくださいませ」

「結構。その相手は――(しゅう)国の第七公主」

「近々、我が(ねい)国の朱伯儒(しゅはくじゅ)皇子と結ばれるという?」

「その通り。甥の朱伯儒は間もなく陛下の後を継ぎます。つまり、あの甥の妻になった者が次の皇后となるのです! 異国の公主を、我が国の皇后にするなど」

 玉葉はひそかに頷いた。

 半年ほど前、寧国の隣に位置する周国から、恒久の和平を願う証として縁談が申し込まれた。そしてやってきたのが周国の第七公主、名を丹雲(たんうん)という。彼女の相手は、寧国の皇子にして時期皇帝である朱伯儒だった。

 現皇帝陛下は、異国の娘が皇后になることを特に問題視していない。しかし劉皇后には、自分の意に従う若い妃が宮中に数多くいる。その中から適当な者を皇子にあてがいたがっている。皇子は側室腹であり、皇后とは直接の血の繋がりがない。彼が皇帝に即位した後も影響力を持つには、何としても劉皇后自身の選んだ相手と結ばせる必要があるのだ。異国の公主が云々という話は、表向きの理由に過ぎない。

「半月後の婚礼までに、あの公主の息の根を止めるのだよ。玉葉、やってくれるね?」

 玉葉は深々と頭を下げた。

「仰せつかまつりました。私にお任せを」


 後宮の屋根の一角から、玉葉は金芳殿(きんほうでん)――主に外国の使者や客人を泊めるために用意された楼閣だ――を眺めた。周国の第七公主は、あの西部屋にいる。

 暗殺用の黒装束に身を包んだ彼女は、うんと伸びをして、夜の空気を鼻で吸い込んだ。そして緩やかに息を吐き出し、にっと笑った。

「簡単なもんだわ、公主様の暗殺なんて。ね、三毛?」

 玉葉はそう言って、着物の懐におさまっている子猫を撫でた。それから、屋根瓦を蹴って跳躍した。瞬く間に屋根から屋根へ飛び移り、西部屋の上に降り立つ。軽身の技は彼女の十八番、瓦の上を駆けても音一つ立たない。

 西部屋の前には二人の護衛が立っている。彼女は三毛を懐から出してやり、金の延べ棒を口にくわえさせた。この延べ棒は値千金の代物、護衛の俸給二十年分にもなる。

「さあ、お願いね」

 そう囁いて、猫を屋根から投げ落とす。三毛は二人の兵士のちょうど真ん中に着地した。突然のことに身構えた兵士達、しかし相手が子猫だと見てすぐ警戒を解いた。それから三毛のくわえている延べ棒に気がついて、はっと欲望に目を輝かせる。

 いきなり、三毛が路地を駆け出した。兵士達は自らの役目も忘れ、慌てて猫を追った。

 ちょろいもんだわ。ほくそ笑んだ玉葉は屋根を飛び降りた。戸に両手をかけ、そっと開く。室内の明かりは消えていたが、夜目のきく彼女には何の不自由も無い。

 部屋奥に公主の寝床がある。御簾が下ろされて中は見えないが、微かな寝息が聞こえる。丹雲公主は寝入っているようだ。腰の短剣を抜いた彼女は、ゆっくり寝床へ近づいていった。公主の口と鼻を塞ぎ、剣で胸を一突きすれば、音を立てずに片がつく。それで終わりだ。

 寝床の御簾へ手が届きかけた時、淑やかな声がした。

「こんな夜分に、何の用ですか?」

 玉葉は心臓が跳ね上がった。まさか、気づかれたの?

 が、寝床までの距離はもう僅か、彼女は思い切って踏み込んだ。素早く御簾をまくり、剣を振り下ろす。

 寝床の影が躍り上がった。刃が柔らかい布団を叩く。影は玉葉を飛び越えて居間に降り立っていた。玉葉も素早く向き直り、剣を構え直す。

「へえ、公主様も用心深いこと。寝床に影武者を潜ませるとはね」

 すると、暗がりにいる影が答えた。

「わたくしは影武者ではありません」

「ふん。影武者じゃなきゃ、何だってのよ」

「周国の第七公主、丹雲です」

「……へ?」

 覚えず、間抜けな声が漏れてしまった。目を凝らし、相手を頭の上から足先まで眺めると、艶のある肌に、三日月形の整った眉、水気を含んだ果実のような唇……確かに容貌は垢抜けていた。絹の寝間着の上からでも、出るところのしっかり出ている魅力的な肢体が、はっきりわかる。

 それでも、玉葉はまだ半信半疑で聞いた。

「あんたが、公主様?」

「他の何者だというのです?」

 玉葉はやや考え、はたと悟った。

 ――なるほど。護身の武芸を身につけているんだわ。

 周国は軍事国家で、王府の皇族も代々軍人の家系で占められていると聞く。丹雲公主が少々武芸の心得を持っていたとしても、別段おかしいことではない。

 玉葉は心中でにっと笑った。この公主が自分の腕をあてにして、助けを呼んだりしないなら好都合だわ。

 出し抜けに踏み込むと、雲を散らす勢いで突きを送った。が、丹雲公主は首をかしげてあっさりかわす。立て続けに七回切りつけたが、公主の体はおろか、衣を掠めることすら出来ない。

 玉葉が苛立った矢先、右腕に激痛が走った。見れば手中から短剣が消え、丹雲公主の左手に移っている。

 玉葉はたじろいだ。相手の動きがまるで見えなかった。

 丹雲公主が淡々と告げた。

「そのように単純な技では、動きを読まれますよ」

「余計なお世話よっ!」

 素手で打ちかかると、丹雲公主も奪った剣で素早く応じた。剣先が蛇のようにちらつく。玉葉の拳脚は繰り出される前に機先を制され、ことごとく封じられてしまう。

 不意に冷たい刃が、ぴたりと首筋に押しつけられた。

「おやめさない。無駄です」

 硬直した玉葉は、ゆるゆると拳を下ろした。

 とても信じられない。これまで八回の暗殺を成し遂げ、皇后からも深い信任を得ていた自分が、まるで手も足も出ないだなんて!

 丹雲公主が静かに尋ねた。

「わたくしを殺しに来たのですね」

 玉葉は答えなかった。じっと息を潜め、逃げる機会をうかがっていた。

「寧国では、お前のような若い娘までを刺客に仕立てるのですか?」丹雲公主は嘆息すると、玉葉の首に押し当てて剣を肌から離した。「お行きなさい」

 これは玉葉にとって意外な展開だった。いやそればかりか、またとない絶好の勝機だ。

 玉葉は床を蹴り、素早く一丈も飛び退いた。同時に、袖中に潜めていた飛び道具――小さい菱形の矢――を七発なげうった。

 ところが、丹雲公主は少しも動じなかった。手を伸べたかと思うと、七発の矢を瞬時に掴み取っている。

 玉葉があんぐり口を開けた。

「う、嘘……」

「万作尽きて飛び道具とは、感心しませんね。腕の立つ相手にこういう代物を使えば、かえって己の命を縮めます」

 丹雲公主は掴んだ矢を手近の卓へ置き、落ち着き払った声で聞いた。

「見逃してあげたのにその隙へ乗じるとは、命が惜しくないのですか」

 圧倒的な腕の差を見せつけられ、玉葉も観念した。もう破れかぶれだ。彼女はその場にどっかり座り込んだ。

「私の負けよ。好きにすればいいわ」

 丹雲公主が傍らの椅子に腰を下ろす。その仕草が何とも上品で、実に公主らしかった。

「お前、いくつです?」

「十八」

「では、私より一つ年下ですね。尚更手にかけるわけにはいかなくなりました」

 玉葉はせせら笑った。

「これはまた寛容なことで。それとも、私を殺したら祟られるとでも思ってるんですか?」

 袖を口元へあて、丹雲公主はくすくす笑った。

「そうかもしれませんね。とにかくお行き。見逃してあげますから。早くしないと、衛士が戻ってきますよ」

 玉葉は食い下がった。

「本気で逃がすんですか? どういうつもりなんです?」

「寧国へ来て以来、わたくしの部屋を襲った刺客はお前で六人目です。わたくしは輿入れを控えている身、宮中での人殺しも、そろそろ嫌気を覚えています。さあ、話はこれまで。早くお行き」

 玉葉は歯ぎしりして立ち上がった。

「後悔しても、知りませんよ」

「わたくしを殺したければ、また来なさい。いつでも相手をしてあげます」


 玉葉は腹の虫が治まらなかった。これまで暗殺をしくじったことは一度もないのに、今日は役目を果たせず返り討ち、相手から情けをかけられ、そのうえ得物の使い方に説教まで食らう始末だ。

 絶対、目にもの見せてやる。玉葉はいったん退いたものの、密かに公主の部屋近くまで引き返してきた。よもや同じ晩に二度目の襲撃があるとは思わないはず。

 彼女は部屋の屋根へ躍り上がった。その途端、背後に気配を感じた。

「誰っ」

 振り向きざまに剣を一閃するや、闇の中で影が動いた。軽やかに宙で身を転じ、屋根の端へ降り立つ。玉葉は瞳を凝らした。

 若い男だ。黒装束に身を包んでいる。

「あんた、何者なの?」

「こんな夜更けに屋根の上にいるとなると、ろくな了見でないのは確かだな。もっとも、それはお互い様のようだが」

 玉葉は目を細めた。

「あんた、寧国の人間じゃないわね」

「ほう?」

「言葉に訛りがあるわ。まさか……(ぎょう)国の人間?」

 暁国は寧国の西に位置する国で、丹雲公主の故郷・周国とは敵対関係にある。

「どうして俺が暁国の人間だとわかった? 知り合いでもいるのか?」

 相手の問いに、玉葉は鼻を鳴らした。

「以前、でぶで汗くさい使者が、関税の交渉をするために寧国へやってきたことがあるのよ。横暴でいけ好かない奴だったから、私がぶっ殺したけど」

 男が身をよじった。笑ったらしい。

「ああ、あいつか。体の重さは暁国でも評判だったが、戻った時は随分身軽になっていたな。どうも首から下を寧国に置き忘れちまったらしいが、あんたの仕業だったのか」

「世間話は終わりよ。あんた、周国の第七公主を殺しに来たのね?」

「暁国には、寧・周の両国の過度な友好を懸念する者がいるんでね」

「じゃあ渡りに船だわ。協力しましょうよ」

「断る。あの公主は凄腕だ。俺達二人が束になっても勝てるとは思えない」

 何と意気地の無い男だ。玉葉はあざ笑った。

「ええ、あんたには無理でしょうよ。私が一人でやるからいいわ」

 しかし、相手は素早く進み出て玉葉の行く手を遮った。

「何よ。邪魔するの?」

「あんた、馬と鹿が合わさったような奴だな」

 玉葉はぽかんとした。

「馬と鹿……? 何よそれ」

「馬鹿」

「わっ……私が馬鹿だって言いたいのっ?」

「あんたが公主とやり合ってた時、俺は部屋の外で見てたのさ。あんたも力量の差ぐらい気がついているだろう。それを知っててまた挑むとなれば、馬鹿だな」

 玉葉は血が頭から噴き出さんばかりだった。丹雲公主といい、この男といい、今日は人から散々こけにされている。彼女は怒り任せに剣を送った。

「おい、待てよ――」

「あんたはれっきとした侵入者だわ! 公主の首が手に入らないなら、せめてあんたを皇后様に引き渡してやる!」

 逃げる男を、玉葉は執拗に追い回した。ところが相手も軽身の技に優れていて、剣があと僅かのところで届かない。そうこうしているうちに、路地の奥から何者かが駆けてきた。公主の衛士達だ。しかも数が増えている。恐らく三毛の延べ棒を見て、警戒心の強い人間が万が一の事態を予測したのだろう。こう騒がしくては、暗殺を諦めるしかない。

 玉葉は仕方なく刃を納め、男を睨んだ。

「あんたとは、いずれ落とし前をつけてやる!」

 吐き捨てるや、身を翻して去っていった。


 翌日、玉葉は暗殺の失敗を報告した。劉皇后は玉座に深くもたれながら、眉間に深いしわを寄せた。

「お前より先に送った刺客もことごとく殺されたのだよ。まさかあの丹雲公主が凄腕の持ち主とはね。影武者ではないのは、確かなのかい?」

「自分で周国の第七公主を名乗っておりました。話しぶりといい、衆に抜きんでた容貌といい、影武者とは思えません」

「少し真偽を確かめる必要もあるね。玉葉、次は侍女の扮装をして丹雲公主のお世話を務めなさい。そして公主が本物なら、隙を見て殺しておしまい」

「仰せのままに」

 玉葉に否やは無い。すぐさま侍女の服に着替えた。懐には匕首、袖には飛び道具をしのばせている。彼女は召し物を携えて丹雲公主の部屋に向かった。衛士に許可を貰って戸を叩くと、中からあのたおやかな声が答えた。

「お入りなさい」

 玉葉がしずしず入っていくと、公主は椅子に腰かけて本を読んでいた。昨晩、玉葉が対峙した人物に他ならない。

「公主様、お召しものでございます」

 丹雲公主は振り向くなり、宛然と微笑んだ。

「おや、お前は昨日の刺客ですね」

 玉葉はぎくりとして、危うく召し物を落としそうになった。

「わ、私は――」

「声と背格好でわかりますよ。それにわたくし、闇夜でも目が見えます。隠し立てはおよしなさい。昨日までお世話をしてくれた侍女は、どうなりました?」

「存じません。今日からは私がお仕えします」

 すっかり正体を見破られた玉葉は、憮然とした調子で答えた。

「刺客が侍女の扮装でやってきたとなると、わたくしも少し気を遣わねばなりませんね」

 公主がにこやかに言う。すっかり出鼻をくじかれた玉葉は、奇襲をかけようという気も失せてしまった。淡々と公主の朝支度を手伝っていると、別の侍女が食事を運んできた。公主は外から衛士を呼び、毒味をさせてから口をつける。玉葉は低く唸った。皇后様は六回も刺客を送っていたというし、毒殺に関しても色々な方法を試したに違いない。だが公主の用心深い対応からして、恐らく全て失敗したのだろう。

 食事の後、丹雲公主は椅子にかけたまま玉葉に尋ねた。

「お前、名を何というのです」

「藩玉葉といいます」

「いつから刺客をやっているのです? お前のように可憐な娘が人殺しをするなど、あってはならないことです」

 玉葉は冷笑した。

「女が刺客ではいけませんか。公主様は周という軍国に生まれながら、随分と軟弱なお考えをなさるのですね」

 腕でかなわないので、わざと怒らせてやるつもりだった。が、公主は笑みを絶やさず答えた。

「周国は確かに武を貴びますが、同じように慈悲の心も大切にしているのです。強い力を持つ者は、それ以上に慈しみの気持ちを持たねばならないのです」

「結構ですね。その慈しみの心とやらで、あなた様に殺された刺客達も必ずや極楽浄土へ旅立ったことでしょう」

 玉葉の皮肉にも、公主は顔色一つ変えない。

「わたくしが武芸を学んだのは、ひとえに身を守る必要があったため。それと、皇子との約束があったからです」

 皇子……婚約者の朱伯儒のことだ。

「政略結婚だと思ってましたわ」

「国同士の事情を考えれば、その通りです。でも、わたくしと皇子の婚約には、もともと深いご縁があったのです」

 色めいた花のように顔を染め、公主は話し続けた。

「幼い頃のわたくしは、とても病弱でした。それこそ、風が吹くだけで倒れてしまいそうなほどに。十年前、寧国の建国百年を祝う大祭が開かれた折り、わたくしは他国の公主達と共に寧国へ招かれました。

 あれは忘れもしない、晩春の日……後宮の庭園で他国の公主達と遊んでいると、若き皇子がやってきたのです。公主達は胸をときめかせ、瀟洒な皇子の姿を何度も盗み見ました。皇子もわたくし達の遊びを眺めていましたが、ふと懐から紅色の手巾を取り出し、それを丸めてわたくし達の輪へ放り投げたのです。寧国では、皇族の手巾を手に入れた娘が結婚の権利を得るという遊びがありますね。他の公主達はこぞって手巾を奪い合いにかかりましたが、病弱なわたくしだけはその場を離れ、黙ってその光景を見ていました。

 すると、皇子が緩やかにわたくしのところへ近づき、お尋ねになったのです。何故手巾を取りに行かないのか、と。わたくしが体の弱いことを明かしますと、皇子はわたくしの素性を詳しく尋ねた後で、こう続けました。

『お体が弱いということでしたら、武芸を学ばれるのが一番です。周国ならよい師匠も沢山おられることでしょう』

 そして懐から桃色の手巾を出し、こっそりわたくしに与えてくださったのです。感激するわたくしの手を取り、皇子は言いました。

『どうぞ、ご養生に努めてください。将来、健康になりましたら、あなたを僕の妃にお迎えします』

 今にして思うと、あれは単なる励まし以上の何でも無かったのかもしれません。幼い皇子が、婚礼について深く考えていたとも思えません。けれど、わたくしには大きな意味を持つお言葉でした。国に戻ったわたくしは、父に頼んで優れた武芸の師匠を呼び、毎日修練に励みました。数年もすると体は壮健になり、病を恐れなくなったのです。わたくしの父や叔父、兄はいずれも軍人で、武芸の素質に優れていました。わたくしも幸いにして才能があり、今では書画や音曲より武芸が得意なくらいです。

 今年になって、父が寧国と縁組みをすることになりました。わたくしは周国皇帝の七番目の娘、本来なら寧国への縁談でわたくしの番はまわってこないはずだったのです。ところが一番上の姉と四、五、六番目の姉はそれぞれ亡くなっており、二番目と三番目の姉は人品が良くないということで、わたくしに白羽の矢が立ったのでした」

 なるほど、今回の縁談にはそんな経歴があったのか。玉葉は納得する一方で、この公主の無邪気な話しぶりにやや心を動かされた。が、すぐに首を振った。

「それは結構なお話ですね。でも、私が暗殺を諦めると思いますか? そちらにも事情がおありなら、こちらにもこちらの事情があるんです」

「お前は、どうしてわたくしを殺したいのですか」

「皇后様のご命令だからです」

 丹雲公主は深く頷いた。

「忠義者なのですね。皇后様は、さぞお前を厚遇しているのでしょう」

 玉葉は何とも答えようが無く、黙り込んだ。忠義云々以前に、皇后の命令は絶対なのだ。逆らうことなど、考えるだけでも恐ろしい。玉葉の前任だった刺客は、皇后の命令にたった一度、それも些細なことで逆らったため、体を四つに裂かれて殺された。また皇后に従う宮女の中にも、彼女の機嫌を損ねて惨い死に方をした者がいる。

 公主はふと、椅子から立ち上がった。

「散歩に行きましょう。ついてきなさい」

 

 丹雲公主に従って、玉葉は庭園をまわり歩いた。

 庭園の東には、池の真ん中へ橋を渡して木造の亭が浮かんでおり、水心閣と呼ばれている。公主はゆったりした足取りでその亭に進んでいった。

 亭内には大理石の卓があり、碁盤が置かれてあった。盤上には白黒の石がまばらに並んでおり、どうも対局の真っ最中に見える。公主は白石をつまむと、しばし逡巡してから一手を指し、亭を出た。

 怪訝な顔をする玉葉に向かって、公主は言った。

「あの亭で、わたくしと皇子は毎日碁を打っているのです。朝夕の二回、石を置きます」

 婚礼の当日まで、公主と皇子は対面出来ない規則だ。それでこんな遊びを考えたのだろう。玉葉は鼻を鳴らした。

 ――まったく、見せつけてくれるわ。

 公主の嬉しそうな姿を見て、玉葉はふと我が身のことを思った。空しい感情が胸中を満たす。貧しい貴族の娘だった玉葉は、九歳の頃宮中に入れられた。女官としてお勤めをするはずが、何の因果か皇后様に目をかけられ、強制的に武芸を学ばされた。七年間、薄暗い部屋で武芸の師匠とひたすら鍛錬する日々。修行は厳しく、いつも生傷が絶えなかった。それがようやく終わったかと思えば、まわってきたのは人殺しの仕事だ。毎日が殺伐としていた。女として誰かを好きになったりしたことなんて、一度も無かった。

 玉葉の足取りが遅れ始めたのに気がついたのか、公主は振り向きざまに尋ねた。

「どうかしましたか?」

「いえ、別に」

 顔を背けると、公主は朗らかに笑った。

「わたくしが石をどこに置くか思案している時が、絶好の殺し時かもしれませんね」

 玉葉は何も言わなかった。


 夜になった。黒装束に着替えた玉葉は、金芳殿の離れ小屋の屋根であぐらをかいていた。公主の部屋は屋根を二つ隔てた場所にあり、ここから一望出来る。

 彼女は腕を組みながら、かれこれ半刻も思案を続けていた。一日中あの公主を見張っていたが、まるでつけ入る隙が見当たらない。それに玉葉が殺気立つと、公主は途端にのろけ話や世間話をして、気勢を削ぎにかかってくる。

 とりわけ皇子について語る時、公主は何と幸せそうな顔をしていたことか。脳裏に浮かんできた光景を、玉葉は振り払った。そして腹立たしげに呟いた。

「あんた、どうしたのよ。まさかあの公主に情がうつったっての。あいつは殺さなきゃいけないんだから……」

「これはこれはお嬢さん、眉間に深い谷間が出来ておりますなあ」

 軽やかな声と共に屋根へ躍り上がってきたのは、昨日の若い男だった。玉葉は彼を睨みつけた。

「あんた、また来たの」

「元気が無いな。昨日の威勢の良さはどうしたんだ?」

「策を練ってるのっ。邪魔しないでよ」

 男は肩をすくめた。月明かりのもと、彼の姿がはっきり見える。精悍な顔つきは刺客というより、戦場の将軍といった方が相応しい。玉葉が宮中でよく見る、青白い顔の役人とはまるで様子が違っている。何げなしに、いい男だと思ってしまった。自分でも驚くやら恥ずかしいやら、すぐさまその考えを脇へ押しやる。

 ふと、男の着物の胸元が大きく避け、血を流した痕があるのに気がついた。

「あんた、怪我したの? まさか公主様の部屋へ忍び込んでいたの?」

「俺はちょっと、公主様と話をしたかっただけなんだがな。男だと見ると、あの公主様も遠慮が無くなるらしい」

 玉葉はせせら笑った。

「あの公主様にとっては、皇子以外にいい男なんかいないんでしょうよ。で、何を話したの?」

「暁国のことをどうお考えなのか聞いた。するとまあ、寧国と組んで侵略だの物騒なことを考えているわけでもないし、あの方の輿入れで暁国が不利になるわけでも無さそうだ。だから俺は……殺すのをやめることにした」

 玉葉は唖然とした。

「やめるって――そんな簡単に?」

「暁国陛下のご下命は、必要であれば公主を殺せってことだったからな」

「ふん。随分と甘いお国柄ね。ま、いいわよ。どうせ私が殺してみせるんだから」

「思うに、あの公主には手を出さん方がいい」

「はあ、どうしてよ?」

「あんた、殺したいのか?」

「皇后様の命令だもの」

「皇后はどうして公主を殺したがってるんだ」

 玉葉は苛立ってきた。

「何であんたにそんなこと話さなきゃいけないのよ!」

「俺はあの公主を殺さないと決めた。決めたからには、他の連中にも殺させるわけにはいかん」

「なにその理屈。ばっかみたい」

「そうでもないさ。公主が生きてる方が、今後の暁国のためになりそうではあるからな」

「じゃ、私の邪魔をするってわけ?」

「その必要があれば」男は肩をすくめ、それから興味深そうに尋ねた。「あんた、これまで何人殺した?」

「八人」

「どんな連中だった?」

「思い出すのも嫌な悪党ばっかりよ」

「じゃあ、あの公主様は?」

「頭がお花畑の脳天気な人間ってとこじゃないの」

「悪人ってわけでもないなら、殺さなくていいだろ」

 玉葉はぐっと言葉に詰まった。そう言われると、そうかもしれない。思えば玉葉がこれまで殺してきた人間は、私服を肥やす悪辣な宦官だの、宮女達を強姦しながら表向きは偽善者ぶっている高官だの、宰相に嘘の密告を繰り返して出世を企む給仕中だの、そういう類の輩ばかりだった。だが全ては皇后様の命令、彼女はむきになって反駁した。

「殺さなかったら、私の身が危ういのよ! 皇后様に何て申し開きすればいいのよ」

「ははん、そういうことか」男は深く頷いた。「辛いだろうな。命令のために、殺したくもない相手を殺さなきゃならんのは」

「殺したくないだなんて、誰が言ったのよ! わかったような口を利かないで」

「別にわかったつもりなんか無いね。思うところを言っただけさ。皇后があの公主を狙う理由も、どうせろくなもんじゃないんだろ」

「王府なんか陰謀だらけよ。私は命じられたことをやるだけだわ。いちいち他人の事情なんか考えるもんですか」

「妙だな。俺はいまいち、あんたがそういう冷酷な類の刺客には見えなかったよ。でなきゃ、屋根の上で悶々と考え事なんかするか? 本当は迷ってるんじゃないのか?」

 玉葉はひたすら腹が立った。なんでこの男は人を怒らせるようなことばかり口にするのか。あの公主のことは……深く考えるのが嫌なのだ。自分自身が、空しくなるから。

「あんた、さっきから挑発してくるのは、私を未熟だって馬鹿にしてるからね?」

「挑発? おいおい、そんなんじゃない。俺はただ、暁国のためにあの公主を殺して欲しくないだけさ。公主様がどんな相手か、もう一度よく考え直して――」

 玉葉は切れた。公主のことは考えたくないって思ってるそばから、この男は! 立ち上がりざまに短剣を抜いて、相手に突きつける。

「あんたの舌、切り取ってやる!」

「乱暴はよせよ。俺に勝ち目があるわけないだろ」

 意外な言葉に、玉葉はきょとんとした。

「何ですって?」

「あんたみたいな可愛い女を、男の俺が傷つけられるわけないだろ。どうしたって俺が不利じゃないか」

 軽薄なからかいに、玉葉の怒りは頂点に達した。

「殺してやる!」

 短剣を突くと、相手は何故か、前に踏み込んできた。仰天した玉葉が剣を引き戻すより早く、相手の下腹へ刃が埋まる。男が呻き、苦悶の表情を浮かべた。

 玉葉も蒼白になった。

「あっ……」

「お前、まさか本気で……刺すとは」

 玉葉は激しく首を振った。

「ち、ちが……あ、あんたが自分から飛び込んできたんじゃない!」

 相手は激しく喘ぎながら、両腕で玉葉を抱き締めた。動揺していた彼女は抵抗出来ず、縛られたように体が動かなかった。

「違う、私、殺すつもりじゃ……んっ!」

 いきなり、唇がぬるい感触で塞がれた。

 肌がざわめき、どっと汗が溢れ出す。心臓が破裂せんばかりに高鳴った。

 一瞬、体の全てが硬直した。が、すぐさま我に返った玉葉は目を見開き、慌てて相手をふりほどいた。

 その時、剣を握っていた手がぐいと横に払われ、相手の肉を大きく削いで……いくかと思いきや、何故か手応えがまるで無かった。剣は着物を裂いただけで、あっさり男の体から抜けた。

 呆気に取られた矢先、玉葉は見た。剣に刺さっている真っ白な物体を。思わず呟きが漏れる。

「ま、饅頭……?」

 彼女はようやく異常に気がついた。じろりと男を見やれば、裂けた着物の腹部分を、素知らぬ顔つきでぱんぱん叩いている。肉が削げるどころか、血の一滴も流れていない。

 玉葉は全身がぷるぷる震え始めた。

「あ、あんた、まさか……」

 男が顔をしかめて言い返す。

「よせよ。そっちが勝手に誤解したんだろ。万が一のために、着物の隠しに饅頭を入れてあってな」

「あんた、わ、私の……私のっ……!」

 恥ずかしさの余り、言葉の続きがどうしても出てこない。

「あんたってのは、やめてくれ。俺の名前は鐘世南(しょうせいなん)ってんだ。覚えておけよ!」

 男が高らかに笑う。まどかな月を背に飛び退いて、あっという間に姿を消した。

 玉葉は追いかけようとした。が、踏み出した足からどっと力が抜け、その場にへたり込んでしまった。体中が火照り、瞳が潤んだ。歯をがちがち震わせながら、呆然と呟いた。

「こ、こんなこと、って……」

 

 丹雲公主を暗殺するはずが、先日にも増して酷い目に遭わされた。玉葉はその晩寝つけず、何度も起きては桶一杯の水で口をゆすいだ。それでも、唇にまとわりついた感触が残り続けている気がする。指先で何度も唇をいじり、その度に接吻を食らった時の恥ずかしさと怒りが思い出され、いっこうに落ち着かない心を持て余した。

 刺客としての日々を生きてきた玉葉は、男女の情についても余り詳しくない。持ち合わせているのは、宮女や役人が話すのを聞いて得た、断片的な知識だけ。だから鐘世南の行動に一層戸惑った。

 ――接吻は、思い合う人間同士で無ければやらないって聞いたわ。あの人はどうしてこんなことをしたんだろう? きっと、何か裏があるんだわ。

 翌朝早く、玉葉は武芸の師匠である唐先生のもとを尋ねた。石のように端厳な顔つきの唐先生は、七年間鍛えた弟子の顔を見ても、殆ど感情を表さなかった。

「玉葉か」

「お久しぶりです」

「何の用だ」

「ご相談があって……」

 公主の暗殺に関しては皇后の密命、直接的な話は出来ない。だがこの数日で玉葉の心はすっかり乱され、任務に集中出来そうになかった。唐先生はもう六十近い年齢だが、鍛え抜かれた体と浅黒い肌はまだまだ若さを感じさせる。玉葉の気弱な様子を見て、唐先生は不愉快そうに口端を曲げた。

「まったく、おどおどしおって。お前には技こそ丁寧に教えたが、心の方はしっかり鍛えてやらなんだな。わしにも初めての女弟子だったゆえ、手加減をしてしもうたわ」

「申し訳ありません。あの、先生。以前に、色を以て誘惑し、相手を制すという技があると教えていただきました。よく女人が使うと。あの……それは男でも出来るのでしょうか」

 さすがの唐先生も、この問いにはやや面食らった。

「どういう意味じゃ?」

「あ、いえ、特に深い理由は……」玉葉は赤くなり、もじもじと続けた。「ただ、以前はその技に関して僅かに教えていただいただけでしたから。気になったんです」

 唐先生がケッと吐き捨てた。

「色を用いた技は、女の専売特許じゃわい。わしが詳しく知るものか。ゆえに教えなかったまでよ。お前まさか、その技を習う必要でもあるというのか?」

「いいえ、そんな! で、でも先生のおっしゃりようだと、つまりその技は役に立たないのですか?」

「役に立たんというか……その、何だ、色を用いられると油断する手合いもいるということじゃ。これ以上わしに何を言わせるかっ!」

「申し訳ありません」

 謝罪しつつも、玉葉はおぼろげにわかってきた。あの唐先生が動揺している。宮女や役人達にしても、色恋の話をすると夢中になってのぼせあがっているほどだ。なるほど、鐘世南は私の気を散らすため、接吻なんて真似をしたのかもしれない。事実、彼のせいで心乱れた玉葉は、公主の暗殺をするどころでは無くなってしまった。

 唐先生が苛立たしげに言った。

「お前はもう皇后様の手足じゃ。あの方の命じるままに動く以外にはない。わしの指図を仰いでどうする?」

「はい……」

「よいか。何か心に迷いがあるようだが、忘れるのだ。いつかの時に教えたやり方があるじゃろう」

 唐先生はそう言って、剣を研ぐ仕草をしてみせた。集中力が切れた時、疲労を感じた時、追いつめられた時には剣を研いで神経を研ぎ澄ませろ。それが唐先生流の、気持ちの落ち着け方だった。

「もう試しました。でも、駄目なのです」

「やって駄目なら、大丈夫になるまで続けるのだ」唐先生は肩を落とした。「やれやれ。もとはと言えば、皇后様が女の刺客などをご所望になったのが始まりじゃ。わしはうまく鍛える自信が無いと申し上げたのに。結局、こんな半端者になってしまったわい」

 玉葉がうなだれる。唐先生は相変わらず無表情だったが、おもむろに玉葉の頭へしわくちゃの手を置いた。

「お前も、可哀相にのう」


 五日が経った。公主の婚礼まで残り十日を切っている。しかし玉葉は暗殺のきっかけを掴めず、悶々としながら丹雲公主の世話を続けていた。平生、刺客としての鍛錬に明け暮れている彼女にとって、公主と過ごす時間は平和過ぎた。うっかりすると、気が緩んでしまう。

 その日、朝支度と部屋の掃除を済ませ、ぼんやり戸口の前に立っていると、不意に公主からお呼びがかかった。

「玉葉、来なさい」

「何でしょう?」

 玉葉が身構えながら進み出る。公主が微笑んだ。

「凧揚げをするのです。お前も来なさい」

 た、凧揚げって……。脱力する玉葉を後目に、丹雲公主は壁にかけてあった赤い美人凧を持ち、意気揚々と部屋を出ていく。

 庭園に着くと、公主は凧を玉葉へ渡して言った。

「わたくしが前を走りますから、お前は後ろで凧を掲げ持ってついてきなさい。いいですね?」

 玉葉は仕方なく従った。が、何度やっても凧はうまく揚がらない。そこへ、人影が近づいてきた。

「これは公主様。凧揚げとは風流なことで」

 相手の顔を見て、玉葉はぎょっとした。暁国の刺客にして今や不倶戴天の仇、鐘世南ではないか。官吏の服に身を包み、立ち振る舞いも折り目正しい。公主は彼を見るなり、口元に笑みを浮かべた。

「おや、お前だったのですね。似合っていますよ」

「お恥ずかしい。遊びの邪魔をして、申し訳ありませんでした」

 かしこまってお詫びをする世南に、公主が困り果てた顔で言った。

「それが、うまく揚がってくれないのです」

「手前の見たところ、そちらの侍女の腕が良くないためかと。手伝いましょう」

 すたすた近寄ってきた世南が、玉葉から凧を奪い取ろうとする。とうの彼女は殺意に体中を震わせながら言った。

「あんた、よくも私の前に顔を出せたわね」

「まあな」

「これからはよくよく気をつけなさいよ。あんたは公主の後で絶対に殺してやる。それも考え得る限りのおぞましい方法で、生き地獄をたっぷり味合わせてからね……」

 相手は大胆にも笑みを浮かべた。

「そんなに俺へ惚れ込んだなら、あの公主なんか後にして、俺を先に殺せよ」

「ふんだ! その手はもう食わないわよ。私を惑わせて、公主様からあんたに標的を変えるよう仕向けたんでしょう」

「ほう、わかってるじゃないか」

「同じ手は通じないと思いなさい」

「どうかな。あんたの気を逸らす方法なら、まだざっと百通りくらい残ってるぞ。例えばアレだ、あんたの部屋に夜這いをかけるとか、恋文を投げてやるとかな」

 玉葉は怒りと羞恥で真っ赤になった。

「そ、それ以上、言ったら……」

「お前達、いつまで話しているのですか」丹雲公主がたしなめるように告げ、それから悪戯っぽく笑った。「役人と侍女が余り親密な素振りを見せては、人に疑われかねませんよ」

 玉葉がぐっと歯を噛みしめた。まさか公主とこの男、ぐるなんじゃないの? 

「まあ、積もる話は後だ。今は凧揚げに興じようじゃないか」

 怒りに震える玉葉を残し、世南が公主のもとに向かう。あいつらが凧揚げをしている隙を狙って、飛び矢を投げてやろうか。玉葉はそんな衝動に駆られた。

 世南は凧を頭上に掲げた。公主が風に向かって走り出すのに応じて、その後を追う。ややあって、風を浴びた凧が僅かに体を膨らませた。すかさず、世南が手を離す。すると、凧は燕が舞い上がるような勢いで空に昇っていった。

「出来ました!」

 公主がはちきれんばかりの喜びを発散させて叫ぶ。彼女は糸を伸ばしていきながら、世南を振り向いた。

「お前のおかげです。よくやってくれました」

「とんでもございません」

 青空の中、真っ赤な美人凧が照り映える。玉葉達が空を見上げていると、不意に東の方から別の凧があがってきた。こちらは龍の凧だ。古今東西、龍の文様を使えるのは皇帝の一族のみ。公主が無邪気に地面を飛び跳ねた。

「まあ! あの方も凧を揚げていらっしゃる!」

 世南がにっこり頷く。

「そのようで」

「凧同士を、うまく絡ませられないものでしょうか?」

「風向き次第でしょう。どれ、手前に貸していただけますか」

 世南が糸巻きを受け取った。風の流れを利用して、公主の美人凧を龍の凧に近づけていく。向こうもゆっくりとにじり寄ってきて、とうとう二つの凧の糸が空中で絡んだ。世南は糸巻きを公主に返して言った。

「よし。糸を全部回してしまいましょう」

 公主が糸から手を離すと、糸巻きがぐるぐる回り、やがて空になった。凧は宙を高く高く舞い上がっていく。皇子の凧も糸を離し、二つの凧は絡んだまま空へ溶けていった。

 世南が拍手喝采した。

「これでよし。これぞ鳳が凰を求め、めでたく一つになる、といったところですな」

 公主は頬を紅色に染めながら、大きく頷いた。何ともあでやかな姿だった。美しい緑の庭園に風が吹きつけ、公主の淡黄の着物がはためく。黒い髪が陽光を受けて、磨かれた玉石のように輝いていた。

 玉葉は公主の姿を直視出来なくなって、俯いた。足下に伸びている自分の影はひ弱で、寂しげに見えた。

「玉葉、玉葉」

「はい?」

 呼びかけられたのに気がつき、慌てて返答すると、公主が糸巻きを差し出しながら尋ねた。

「玉葉、お前も揚げませんか?」

「え……。ど、どうして私が」

「お前が、顔を合わせる度に元気を無くしているようですから、気晴らしに」

「気晴らしって……私が元気を無くしてるのは、公主様のせいじゃないですか! あ、あと、そこのっ――」

 玉葉は世南に指を突きつけた。が、彼は手を後ろに組み、知らん顔で空を眺めている。公主がふっと笑う。

「おや、そうですか? わたくしはそう思いません。お前自身の気持ちに問題があるのではないのですか」

「知ったようなこと、言わないでください! 私はあなたを必ず殺すんですっ。殺す相手と仲良く出来ますか!」

「わかっています。でも、それと気晴らしは別のこと。お前も大物になりたいのなら、度量を広く持ちなさい」

 隣でこのやりとりを聞いていた世南が、天を仰いでげらげらと笑い出した。

「公主様は大したお方だ」

 玉葉は怒りでどうにかなりそうだった。公主から糸巻きを引ったくると、その場を逃げ出そうとする。が、すぐに呼び止められた。

「どこへ行くのです?」

「お茶を入れて参ります」

 玉葉が誤魔化すと、公主は理解のある顔で大きく頷いた。

「行ってきなさい」

 

 夕方、玉葉は劉皇后に呼ばれた。

「それで、首尾はどうなっているのだい」

「皇后様には申し訳ありませんが、まだしとめるには至っておりません」

「公主と仲良くやっているそうだね?」

 玉葉は針で刺されたように、身を震わせた。

「そ、それは――」

「構わないのだよ、それで。玉葉、もっと公主の懐深くにお入り。そしてあの者が油断した機をうかがい、今度こそとどめを刺しなさい」

 はい、と玉葉が答える。皇后の瞳の色が、微かに暗くなった。

「お前、公主を殺すことにためらいは無いだろうね?」

「え……」

「今回の任、お前には荷が重いのではないかと考えていたところだよ。無理だというならば、先に言っておくれ。他の者を使うから」

 ねんごろな口調だが、玉葉は激しく動揺した。皇后は暗に、役立たずはいらないと告げている。もし玉葉が任務を果たせないとわかれば、即座に殺すだろう。

「いいえ! 必ずお役目は果たしてみせます」

「それならば何も言うまいね。頼りにしているよ」

 とぼとぼした足取りで、玉葉は自分の粗末な部屋へ戻った。公主様から貰った糸巻きを取り出し、無造作に卓へ放り投げる。心は未だ乱れていた。

 皇后様は私を試しているんだ、玉葉はそう思った。私が皇后様のため、殺しを厭わない非情な刺客になれるかどうかを。迷いのある刺客なんて、必要とされない。

 彼女は壁にかかっていた剣を手に取って、鞘から引き抜いた。淡い青の光。玉葉は部屋の奥から砥石と水の入った桶を持ってきた。木椅子に腰を下ろすと、剣を石にあてがい、押し引きを繰り返して刃を研ぐ。半刻も続けると、玉葉は汗でびっしょりになった。その頃には、ようやく気持ちも落ち着き始めた。

 袖で汗を拭い、ふと顔を上げる。卓上の糸巻きが目に入った。すると心が糸のように乱れ、玉葉は慌てて砥石に意識を戻した。いや、戻そうとしたのだが、出来なかった。脳裏には、二つの凧が絡み合って空へ昇る光景が浮かび続けていた。庭園に立つ公主の美しい姿、幸せそうな笑顔も。玉葉はぎゅっと歯を咬んだ。剣を取ぐ手が、思うように動かない。肩が震え、いつの間にか涙が流れていた。

 彼女は右手の甲で乱暴に涙を拭った。

 ――どうしたの。あんたはどうしてしまったの。公主様が羨ましいって? 馬鹿じゃないの。あんたは人に仕えてる人間で、自由なんか生まれつき持ってない。あの方のように、自分の気持ちと真っ直ぐ向き合って生きることなんか、出来やしないのよ!

 玉葉は剣を投放り捨てた。寝床に体を投げ出し、激しく声を立てて泣いた。自分が惨めに思えてならなかった。

 本当は、刺客なんかやりたくない。意に沿わぬ人殺しだってしたくない。誰かを好きになりたい。もっと自分の気持ちに正直に生きていきたい……。

 けど、思い通りになることは一つもない。何もない。

 ようやく泣きやんだ時、既に夜が深くなっていた。

 顔を上げた彼女の心は、刃にも似て冷ややかだった。先ほど公主へ抱いていた羨望が、別のどす黒い感情に取って代わっている。今までにないほど、あの女を恨むことが出来た。

 殺してやる。絶対に殺してやる。あの公主はね、惨めな生き方しか出来ないあんたをあざ笑ってたのよ。あの鐘世南だってそうだわ。

 でも、もういい。目にものみせてやる。婚礼まではあと九日ある。皇后様のおっしゃった通りだ。従順な侍女を演じて、相手を油断させる。そこを剣で一突き、たったそれだけ。何だ、簡単なことじゃないの!

 玉葉はその日、抜き身の剣を抱いて休んだ。自分の気持ちを研ぎ澄ますために。


 翌日から、玉葉は公主に従順な態度で接し始めた。が、それはこれまでの行動を考えると明らかに不自然で、玉葉自身ぎこちない振る舞いが続いた。

 そのせいかもしれない。丹雲公主の方が玉葉に気遣いを見せ始め、優しく声をかけた。

「お前、どうかしたのですか?」

 咄嗟に、玉葉も閃いた。相手の好意を利用するのだ。彼女はわざと、暗殺に対して葛藤があるように見せかけた。

「公主様というお方がわからなくて、困ってるんです。私はやっぱり未熟者なのかもしれませんね。公主様の幸せそうな様子を見せられて、殺しをためらうなんて」

 公主は微笑んだ。

「わたくしも、お前を殺さずに済むことを祈っています」

 この公主は、表裏を使い分ける人間には見えない。玉葉の試みは、うまくいったようだった。

 もっとも、鐘世南は玉葉の態度を不審がっていた。

「あんた、どういうつもりなんだ?」

 婚礼が五日前に近づいた日の朝、彼は公主の部屋へ向かう玉葉を路地で呼び止めた。

「何の話?」

「公主様への態度だよ。心変わりでもしたのか」

「あんたに関係ないわ。第一、あんたこそいつまで寧国の王府にいるつもりなの。その官吏の服だって、どう手に入れたわけ?」

「高官の中に、暁国の密偵が紛れ込んでるのさ。俺はそこの世話になってる」

「何ですって?」

「別に驚くことでもない。暁国や周国にも、あんたの国の密偵が紛れこんでるだろうよ。国同士の情勢に変化があった時、お互いにいち早くそれを知ることが出来るしな」

 玉葉は鼻を鳴らした。

「そんなものかしらね」

「公主の婚礼が終わるまで、俺はここにいるつもりだ。それより俺は、あんたが心配だよ」

 気遣わしげな言葉に、玉葉はどきりとした。

「どうして?」

「あのいけ好かない皇后に、公主を暗殺するよう命じられたんだろう。ここ数日で、俺も調べはつけてる。皇后は、自分の選んだ妃を皇子とくっつけたいのさ。そうすれば、血の繋がりを持たない皇子が皇帝になっても、皇后の立場から権力を行使出来る。こいつはなかなかに大事だ。もし公主暗殺をしくじれば、あんただってただじゃ済まない」

 言うなり、世南が身を乗り出してきた。避けようとした玉葉は、壁に背をぶつけた。左に逃げようとすれば、すかさず彼の腕が伸びて行く手を塞ぐ。玉葉はたじろいだ。

「な、何なの……」

「俺のところに来ないか?」

 世南の声が、いつもと違っているのに気がついた。玉葉は一層戸惑った。

「面倒見てやる。そうなりゃ、公主様はめでたく婚礼、お前もおとがめなし、みんなめでたしだ」

「ば、馬鹿言わないでよ。同情なんかまっぴらだわ!」

「同情? 俺はそんなつもじゃ――」

 玉葉は両腕で相手を押し退け、叫んだ。

「知らないっ。あんたに、私のことなんかわかりっこない!」

 玉葉は逃げ出した。心の中では、世南が羨ましかった。同じ刺客なのに、自分の思うままに生きている彼が。それだけの強さを持っていることが。丹雲公主も同じだ。だからこそ憎い。けれどこの恨みが筋違いであることも、玉葉自身半ば理解しているのだ。それがやりきれなかった。

 空の雲行きが怪しくなり始めた。ほどなく、大粒の雨が降り注ぐ。

 丹雲公主のもとへ戻った玉葉は、世南とのやり取りで動揺した心を鎮めつつ仕事をこなした。昼になって、公主が水心閣へ出かける支度を始める。玉葉が思わず口を入れた。

「外は大雨ですよ。今日も石を置きに行くんですか?」

「無論です」

 傘を差し、公主と共に庭園へ向かう。いざ水心閣まで来るや、公主は顔色を変えた。呆然と碁盤を眺めている。

「公主様?」

「皇子が、石を置いていないのです」

「きっとこの雨のせいでしょう」

 公主は何も言わなかった。そこへ、傘を手に近づいてくる影があった。皇子の世話を務めている宦官だ。

「公主」彼は深々と一礼した。「皇子に代わって、石を置きに参りました」

「皇子に何かあったのですか?」

「ご安心を。少々具合を崩されただけです」

 公主はかえって不安そうな面持ちになった。宦官は石を置き、丁重に礼をしてから去っていった。

 部屋に戻った公主は、椅子にかけて何やら考えにふけっていたが、ふと玉葉を呼んだ。

「お前、皇子の様子を見に行ってはくれませんか?」

「かしこまりました」

 丹雲公主は鶯を縫い取った桃色の手巾を取り出した。やや色あせ、端が綻んでいる。彼女はそれで薬を包み、玉葉へ渡した。

「以前、お前にも話しましたね。皇子がわたくしに手巾をくださったことを。これがその手巾です。皇子に届けてください。くるんであるのは、周国の名医が作った丹薬で、とても滋養があります」

「はい。お任せください」

 玉葉は朱白儒皇子の住まいへ向かった。門前には多くの兵士が控え、何かただならぬ出来事があったことを感じさせる。見張りの武官が、玉葉の姿を見咎めて聞いた。

「お前は?」

「丹雲公主にお仕えしている藩玉葉と申します。皇子にお目通り願いたいのですが」

「よかろう。ついてこい」

 武官に続いて部屋に入る。室内では、皇子の侍女達が忙しそうに動き回っている。玉葉は注意深く周囲を観察した。床には白磁の破片が散らばり、壁は剥がされたような痕跡もある。一体、何が起こったのか?

 奥へ進むと、薄い御簾を隔てて、紫檀の椅子に寧国皇帝の息子、朱伯儒皇子がかけていた。御簾のせいで顔ははっきり見えないが、龍の縫い取られた黄色い服装は、紛れもない皇族の証だ。

 しきたりとして、身分の低い人間は皇族の顔を拝むことが許されない。しかし玉葉はまかりなりにも公主の侍女、この扱いにはいささか訝しんだ。それとも、皇子は何か顔を見せられない事情があるのだろうか。

 武官が皇子の前で深く身を折った。

「皇子。丹雲公主の遣いがお見えです」

 玉葉は恭しく一礼した。

「皇子にお目にかかります。公主様は、朝晩の遊技に皇子がいらっしゃらなかったため、大層気にかけておりました」

「それは済まなかった。代わりに遣いの者が石を置いたと思うのだが、余計な心配をかけてしまったな」

「はい。公主様から、こちらを皇子にと」

 彼女は丹雲公主に渡された桃色の朱巾を見せた。直接手渡すことが出来ないので、近くの侍女がそれを受け取り、皇子へと差し出す。

「ご苦労であった。引き続き、公主の世話を頼む」

 玉葉は頷いて、引き下がった。内心では、次の行動に関して頭をめぐらせている。

 ――私に届け物をさせたってことは、公主もそれだけ私を信用してきた証拠ね。でも焦ってはいけない。もう少し様子を見てから殺してやろう。

  

 帰りがけに、玉葉は唐先生のもとを訪ねた。唐先生は手を後ろに組み、室内を行ったり来たりしていたが、彼女の姿を見るなりぎょっとした顔つきになった。

「玉葉、お前か。どうしてここへ来た?」

「皇子の身辺で何やら起こったようなので、先生は何かご存じないかと思ったのです」

「では、お前では無かったのか」

「何のことでしょうか?」

 唐先生の表情に黒い影がさした。

「皇子が刺客に襲われたのじゃ」

 玉葉は皇子の部屋で、白磁の破片や剥がれた壁を見たことを思い出した。そうか、あれは襲撃の痕跡だったのか。

「刺客? どこのです?」

 王府にいる刺客達は、まとまった組織に統率されているわけではない。皇帝、宰相、皇后といった王府の権力者達が自ら秘密裏に手駒をかき集め、動かしているのだ。玉葉は皇后に仕える他の刺客について、殆ど知らない。皇后は、自身の秘密を知る刺客達が結託することを常に恐れている。そのため刺客同士を引き合わせないのだ。

「現皇帝や宰相が皇子を殺すはずがない。となると、刺客は恐らく皇后様の手の者じゃろう。わしは、お前が命令を受けて皇子を狙ったのかと思うてな」

 玉葉はほくそ笑んだ。

「まあ、心配してくださったんですか」

「馬鹿を言え。お前が誰を殺そうとわしの知ったことではない。ただ、変なしくじりをされては、お前を育てたわしにも累が及ぶ。それを案じたまでよ」

「何故、大胆にも皇子を襲うことにしたのでしょう」

「思うに、くだんの丹雲公主の婚礼に関係があるのじゃろう。皇子に危険が及べば、陛下や宰相も公主より皇子の安全が第一じゃ。皇后が皇子を狙ったとするなら、それは恐らく、次ぎに公主を襲うための布石じゃろうな」

 そこまで話すと、意味ありげに玉葉を見やる。彼女はぎくりとした。もしかすると、唐先生は私が公主暗殺の命を受けているとご存じなのかもしれない。今が絶好の機会だとほのめかしているのだ。玉葉は唐先生の言葉を深く胸にしまい、その場を後にした。

 皇后様は丹雲公主を油断させるべく、あえて皇子へ刺客を差し向けたに違いない。あの情熱的な公主のこと、今頃は皇子を心配する余り、我が身の危険を忘れているだろう。玉葉にとっては願ってもない局面だった。

 帰り道の途中で、誰かが前に立ちはだかった。黒装束に身を包んだ鐘世南だ。玉葉は、彼の姿を見るだけで苛立ちが募ってきた。

「あんたって余程暇なのね?」

「俺は道の真ん中にいただけ、あんたが勝手に来たんだ」

「話がないなら、どいてよ!」

 玉葉が彼を押し退けて進もうとすると、相手が腕を掴んで引き留めた。

「今晩は用心しろ。いつもと何かが違う」

「あのね、何か勘違いしてない? 私はいつから公主様の護衛になったのよ?」

「別にあの公主様なら心配要らん。ご自分で身を守る術をお持ちだ。俺が心配なのは、あんたさ」

 玉葉は世南の腕を振り払い、そっぽを向いた。それから、俯きがちに尋ねた。

「あんた、何で私に構うの」

「最初は単に人助けのつもりだったんだが」

「ふん、何が人助けよ――」

「今は少々惚れてる」

 その言葉で、玉葉の頭は真っ白になりかけた。口をぱくぱくさせて聞き返した。

「ほ、惚れ……?」

 世南は舌打ちした。

「こんなこと、二度も言わせるな」

「なんで、いきなりそんなこと……あんたに好かれるようなことなんか、一つも……。あっ。ま、またでたらめを言って、公主から私の気を逸らすつもりなんでしょう! ねえっ」

 だが世南は真剣だった。そういう風に見えた。彼は静かに告げた。

「凧を揚げた日の晩、あんたが部屋で泣いていたのを聞いたよ」

 玉葉の心に、ひびが入る。

 卑怯だ、こんな揺さぶりは。どうしてこの人は、強引に私の中へ踏み込んでくるの? 彼女は身を堅くして、震えを押さえ込んだ。きつく拳を握って言った。

「泣いてたから、何なのよ……」

「放っておけなくなった。それが惚れた理由で悪いのか」

 勝手に、涙が溢れ出た。玉葉は体を背け、乱暴に瞳を拭った。自分の体が、馬鹿正直な反応を見せたのが悔しくてならなかった。しっかりしなさい、玉葉! 思いやりを装っただけの言葉だわ。この男は私を騙してるのよ。公主を殺させないために!

 ゆっくりと、世南が近づいてくる。

「玉葉、俺達のような人間は、常々死と隣り合わせだ。人に抑えつけられたり、我慢したり、そんなつまらない生き方はやめておけよ。その方が、ずっといい」

 もう聞きたくなかった。玉葉は世南を押し退けて駆け出した。

 彼は追ってこなかった。前から兵士の影が見えたので、すぐさま近くの茂みへ逃げ込む。乱れに乱れた心を必死に落ち着けると、玉葉は丹雲公主の部屋に足を向けた。

 戸を開けて中に入った途端、ひやりとする感触が胸元へ迫った。

 長剣を手にした丹雲公主が顔色を変え、すぐさま切っ先を引き戻す。

「お前だったのですね」

「こ、公主様……私を殺そうとしたのですか」

 玉葉は動悸がしばらくおさまらなかった。

「不気味な気配を感じたのです」公主は周囲へ油断無く視線を配り、不意に叫んだ。「玉葉、伏せなさい!」

 言われるままに身を折った瞬間、扉を破って踏み込んだ何かが、彼女の頭上を飛びすぎた。

 玉葉は影を阻もうとしたが、その瞬間猛烈な蹴りを腹へ食らい、無様に倒れた。

 死を覚悟した玉葉だったが、相手は彼女にかまわず、公主へと突進していく。まさか、皇后様の送った刺客? 私がいるのに? 玉葉は混乱した。

 激しい剣戟の音が部屋中に響き渡る。刺客の影は槍を使い、公主と激しく切り結んでいた。実力は拮抗しており、どちらが勝つのか見極めもつかない。

 不意に影が身を翻し、まだ起き上がっていない玉葉へ強襲をかけた。それを、大きく回り込んできた公主が庇う。

 瞬間、公主は長剣を握っていた手を影に打たれた。得物が床へ落ちる。それでも闘志衰えず、すかさず素手の技で相手に打ちかかっていった。

 玉葉は目をしばたいた。公主様、私を助けたわ。それも何のためらいも無く。

 激しさを増す戦いを目にしながら、玉葉はある真実に行き着いた。皇后様が新手の刺客を送り込んだ意図が、わかってきたのだ。公主と仲良くせよ、隙を見て殺せ……。丹雲公主は、刺客であるはずの玉葉を影から守った。既にそれだけの信頼が出来上がっているのだ。ここで玉葉が影に加勢すれば、公主を倒すのも難しいことではない。

 得物を失った公主は、次第に追いつめられた。戦いが長引けば一層不利になるだろう。

 玉葉はごくりと唾を飲んだ。右手は腰にある短剣の柄を握り締めている。

 今こそ、公主を倒す絶好の機会だ。これを逃すわけにはいかない。たとえ公主や皇子から恨まれたとしても。

 鐘世南からも……。玉葉は激しく頭を振って、彼に対する思いを振り払おうとした。こんな時なのに、また涙が出そうになる。私、馬鹿みたい。もう忘れるのよ!

 手に汗を滲ませ、彼女はついに剣を抜いた。

 その時、公主の右肩が影の剣に切り裂かれた。長い血の筋が、宙を走る。

 自分でも何故そうしたのか、玉葉はまったくわからなかった。短剣をなげうって、叫んでいた。

「公主様!」

 短剣は、吸い寄せられるように公主の手に移った。次の瞬間には白光一閃、公主の鋭い突きが放たれ、思わぬ反撃を受けた影は素早く退いた。ちらりと玉葉を一瞥してから、脱兎のごとく逃げ出していった。

 公主は柱へ寄りかかり、ぜいぜいと喘いでいる。立ち上がった玉葉は、すぐに公主の傷を手当した。

「お前のおかげで助かりました。礼を言いますよ」

 本物の感謝がこもった言葉だ。玉葉は咄嗟のことだと反駁しかけたが、俯いて言い直した。

「公主様が、助けてくださったから……」

 馬鹿なことをした。玉葉にあったのは深い後悔だった。これも全部、あの鐘世南のせいだ。けれど、妙な安堵感があるのも確かだった。公主を裏切らなくてよかったという思いが、心のどこかに強く居着いている。

「お前に、謝らなければいけませんね」

「え?」

「ずっと疑っていました、お前のことを。最初お前を生かしたのも、背後にいる黒幕を突き止めるため。それが済めば殺すつもりでした」

 驚きに目を見張る玉葉へ、公主は苦笑して続けた。

「これでも、後宮に長いこと生きてきた身です。陰謀の類には散々巻き込まれてきました。生き残るために、たやすく人を裏切ったり、貶めたり……後宮はどの国でもそういう場所。一生、戦わなければならない運命なのです」

 視線を落とした玉葉は、公主の美しい手に血がしたたるのを見た。この手は、これまでどれほどの人間を殺めてきたのだろう。これから、どれほどの人を殺めていくのだろう? 丹雲公主も皇后も、自分の幸せのために戦うという意味では、大差無いのかもしれない。違うのは、自分の幸せのために、どれだけ他人へ残酷になれるかだ。

 じゃあ、私はどうするべきなの?

 玉葉は自分に問い、おぼろげながら、答えを見つけた。

 それが、鐘世南の思いやりを初めて意識した瞬間かもしれなかった。


 朝が来た。丹雲公主の婚礼まで、あと五日。侍女達が忙しく出入りして、部屋の中に婚礼の荷物を運び込む。

 食事を済ませると、丹雲公主は玉葉を連れて日課の散歩に出かけた。

「お前、昨日の刺客が何者か見当はつきますか?」

「わかりません。でも、正体を知る手だてはあります」

 唐先生ならわかるかもしれない。それに、今の玉葉が置かれている状況は限りなく危険だ。そのことについても相談したかった。

 公主は例によって水心閣へ来た。今日は皇子が石を置いたようだ。しかし、公主の表情は曇っていた。

「玉葉、皇子のところへ行ってくれますか?」

「かしこまりました」

 皇子の部屋まで来ると、玉葉は先日と同じ武官に声をかけた。が、今日は何故か通してくれない。彼女は粘り強く頼んだ。

「公主様から、皇子の具合をうかがいたいとのお願いなのです」

「とにかく今日は駄目なのだ。少なくとも夜まで待て」

「何事だ」

 聞いたような声だった。奥部屋から、緩やかな足取りと共に若い男が姿を現す。龍の模様が刺繍された金の着物。玉葉は仰天した。なんと皇子ではないか。前回は御簾を隔てていたので、実際に姿を見るのはこれが初めてだった。凛々しく知性を感じさせる面立ちは、自ずと人に尊敬の念を抱かせる。たおやかな風情の丹雲公主と実にお似合いだ。

 衛士が不安そうに進み出る。

「皇子、出てこられては……」

「公主の名が呼ばれたのを聞いたぞ。婚礼も間近に迫っているのだ。私が直接聞く」

 武官は渋々引き下がった。皇子が玉葉に目を向ける。彼の顔は、よく見ると少しやつれていた。

「そなたは?」

「丹雲公主の侍女でございます」

 先日お会いしたばかりなのに、お忘れになったのかしら。姿は見えなかったけれど、声ぐらい覚えていてもいいだろうに。玉葉はやや訝った。

「公主に何かあったのか?」

 気遣わしげな様子に、玉葉はかえって真実を伝えるべきではない気がしてきた。

「いいえ。ただ、婚礼も近づいておりますので、皇子の様子を心配しておられます」

「私には……何も心配することはない。公主の身が無事ならば、それでよいのだ。くれぐれも、公主のことを頼む」

「皇子」武官が横からたしなめた。「陛下はこのような面会を許しませぬぞ」

 皇子は苛立たしげに片手を振った。

「わかっている。そなたは、もう行くがよい」

 玉葉は深く一礼し、引き下がった。

 それから、唐先生のもとを訪れた。戸を叩いて呼びかけると、いっこうに返事が無い。訝しんだ彼女は、裏口から部屋に入った。

 妙な臭いが鼻をつく。

 次の瞬間、彼女は見てしまった。

 唐先生が、卓に突っ伏して倒れている。驚きに見開かれた瞳は、あらぬ方向を向いていた。

「せ、先生。私です。玉葉です……」

 答えはない。恐る恐る近づいて、玉葉はあっと悲鳴を上げた。唐先生の背中に、穴が空いていた。ちょうど、心臓のある部分に。

 くすっと、笑い声のようなものが聞こえた。誰何するより早く、天井から人影が落ちてきて、玉葉の目の前に立ちふさがった。相手の男はにたりと笑った。

「これはこれは、早いお越しだ」

「あなたは!」

 昨晩公主と玉葉を襲った、あの刺客に間違いなかった。ゆったりした黒衣に身を包み、青白い肌はあたかも幽霊のよう。その姿を見て、玉葉は冷たい恐怖が骨という骨、肉という肉につたわるのを感じた。

 かつて、後宮の人間が立て続けに変死する事件が起きた。死体はいずれも心臓をえぐり出され、木や天井から吊されて発見された。多くは幽鬼の仕業ではないかと疑ったが、中にはこう考える者もいた。想像を絶する腕を持った刺客の仕業だと。その名は古来の化け物にあやかり、黒画皮(こくがひ)といった。

「まさか、あなたが……?」

「いかにも。心臓をえぐり出す技の使い手は、この黒画皮をおいて他におらぬ」

 玉葉は無意識に後ずさった。黒画皮の双眸が残酷な色を浮かべる。

「貴様、何故公主を殺さなかった? 俺がわざわざお膳立てしてやったのに。まさか皇后様のお考えがわからなかったわけではあるまい? 公主とお近づきになり、隙を見て殺せという命令だったはずだ」

 玉葉もそのことはわかっていたが、今は誤魔化すしかなかった。

「あ、あなたが出てくるのは予想外だったわ。だから――」

「つまり、お前は皇后様のお考えをくみ取ることも出来ぬ馬鹿だったというわけだな、ん?」玉葉が答えられないうちに、相手は続けた。「結構。それも結構だ。皇后様の配下に馬鹿者は要らぬ……」

 袖を翻すと、その手には長剣が握られていた。刃にはまだ乾ききっていない血がこびりついている。玉葉は肌が波立った。

「何故、唐先生を殺したの?」

「お前がこのじじいへ助けを求めるのはわかっていた。じじいもお前を庇ったに違いない。つまりは裏切り者だ。だから殺した」

 黒画皮がさらりと言ってのける。玉葉は怒りに燃えた。

「この……悪党っ!」

 素早く踏み込んで打ちかかった。眩しい光が眼前を走ったかと思うと、右手から鮮血が噴き上がる。玉葉があっとたじろいだ矢先、左肩が焼けるような痛みを発した。

 僅かな間に二太刀を浴び、彼女はかえって冷静さを取り戻した。どうあがいても勝てる相手ではない。

 黒画皮はさらに踏み込むと、袈裟に切りつけてきた。辛うじてかわした玉葉は、右肩へ何かが刺さるのを感じた。見れば箸ほどの大きさもある細長い針、鼻の曲がるような激臭がする。毒矢に違いなかった。

 死ぬわけにはいかない! 玉葉は左袖を一払い、ありったけの飛び矢を放った。黒画皮が素早く剣で応じ、続けざまに白光を散らせば、足下へ矢が落ちていく。

 玉葉はその隙に逃げ出した。走れば毒のめぐりは早くなるが、この際構ってはいられない。

 どこかへ身を隠さなくては。けれど、どこへ? 自分は皇后様に見捨てられたのだ。もはや味方はいない。それに思い至ると、恐怖が頭の中を占領した。右手と左肩の流血も止まらず、段々体から力が抜けていく。

 黒画皮の笑いが、耳へ届いた気がした。それに声も。逃げろ逃げろ! 毒がまわって死ぬぞ!

 玉葉は首を振って、目の前の道を走り続けた。口の中が塩辛くなり、唾液が渾々と溢れてくる。早くも毒がまわってきたのだ。続いて、手足が思うように動かなくなってきた。喉に何かが詰まったようで、呼吸もままならない。

 ふと両足が絡まって、彼女は無様に倒れた。起きあがろうとして、全身の肉が硬直しているのに気がつき、愕然とした。声もうまく出てこない。

 ほろりと涙が溢れる。それから、彼女は自分で自分を笑った。ああ、私って馬鹿だ。公主に助太刀なんてしたから。こんなことになったんだわ。自業自得ね。

 でも――それなら公主を殺せた? そうすべきだと思った? ひたひたと近づく死が、玉葉の心を答えに導いていくようだった。

 そうだ。私、やっぱり殺せなかった。幼いうちに後宮入りして、不自由なことだらけで、気がつくと人殺しの技を学ばされて……それでも、自分が正しいと思う自分でいたかった。間違ったことをしたくなかった。どれほど卑しい扱いをされたって、私は自分のすることに正しさを求め続けてきた。だから刺客として、寧国に巣くう悪人を倒したけれど、公主様は……。

 玉葉は素直に認めた。公主と玉葉は立場こそ違っても、考え方はそっくりだったのだ。二人とも、正しいことに拘る人間だった。けれど、公主には優れた武芸があり、愛すべき皇子がいた。だから玉葉は嫉妬したのだ。でも、もう恨まない。

 あの人が私と同じ志をお持ちなら、幸せになって貰わなくては。私の犠牲が公主様の幸せになるなら、それだって……。

 突然、強い力が玉葉の肩を掴まれた。一瞬、息が止まりかける。黒画皮が追いついてきたのだと思った。

「玉葉、俺だ」

 鐘世南だった。たぶん、彼に会ってこれほど嬉しい気持ちになったのは初めてかもしれない。抱き上げられた玉葉は必死に口を動かしたが、言葉は出てこなかった。

「毒にやられたのか?」

 玉葉は不自由な首を動かして頷いた。

「もう動くな。俺がここから運んでやる」

 渾身の力で頭を左右に振った。これは自分自身のことだから、彼を巻き添えにしたくなかったのだ。

 だが、この男は聞かなかった。

「うまくやってみせるさ」

 頼もしい言葉に、玉葉は心を動かされた。もう気力が持たず、彼女の意識は闇の中に沈んでいった。


 目が覚めると、体が心地よい感触で包まれていた。朽ちた木目が見えて、自分が寝床の中にいるのだとわかった。

 右手が何やら暖かい。玉葉は目をしばたいた。誰かが自分の手を取り、脈を診ている。何度も目を凝らして、ようやくそれが鐘世南だとわかった。彼女は呻くような声を漏らした。

「ここは、どこ?」

「俺の使ってる部屋だ」世南は、玉葉の手を布団に戻しながら答えた。「毒が抜けきってないから、手足がうまく動かないはずだ。他の傷は浅かったから問題ない。明日には元通りだよ」

「私、何日寝ていたの?」

「安心しな。一日しか経ってない」

「あなたは大丈夫だった?」

「平気だ。まあ、あんたの毒を吸い出すのには苦労したがな」

「毒を、吸い……出す……?」

 玉葉は右肩の傷口を見た。毒針が抜かれ、綺麗に手当されている。彼女はかっと頬を染めた。

「ま、まさかあなたっ、私の肌を、く、口で吸――」

 全身の血が沸騰し、言葉が続かない。

「しょうがないだろ。あと少し遅かったら、毒がまわってお陀仏だったんだ」

 玉葉相手に散々軽口を叩いていた彼も、この時ばかりはさすがに顔を赤らめていた。

 二人とも顔を背け、気まずい沈黙を過ごした。玉葉は自分の着物が取り替えられ、剣にやられた右手と左肩の傷もきちんと手当されているのに気がついた。やがて恥ずかしさよりも感謝の気持ちが勝った。大分経ってから。玉葉は自分でもやっと聞き取れるくらいの声で言った。

「……ありがとう」

 世南がほっとしたように頷く。

「私を助けて、大丈夫だったの? 皇后様に逆らった私は反逆者だわ。暁国の人間が関わったら、問題になるんじゃない?」

「惚れた女が、死にかけてたんだぞ。後先なんか知ったことか」

 玉葉は恥ずかしさで一杯になったが、一方で喜んでいる自分に気がついた。毛布をぎゅっと握った。

「あんたは、いいよね。強いから、自分のすることに迷いがなくて、意志を貫けて。私は弱かったから……」

「強くなれるよ」世南が淡い笑みを浮かべて、玉葉を見つめた。「もう迷いが無くなったんだろ。そんな風に見えるよ。だったら、すぐに強くなれる」

 玉葉は顔を綻ばせた。

「いつから、そんなに優しくなったの?」

「俺は最初から優しかったぞ」

「嘘つき」

 その時、玉葉の腹が低く呻いた。世南がにっと笑う。

「ちょうどそんな頃合いだと思った」

 彼は部屋を出ていくと、あつあつの雑炊が入った小鍋を持って戻ってきた。碗に雑炊をよそい、匙を添えて玉葉に渡す。彼女は受け取りながら尋ねた。

「あなた、お料理出来るの?」

「武芸ほどじゃないが、まあまあの腕だ。いざという時のために身につけた。他に得意なのは琴棋書画、呪術、変装ってところか」

「私……武術ばかりで、お料理も知らないの」

「これからやればいいさ」

「遅かったりしないかしら? 武術は何年もかかってようやく身につけたのに」

「武芸よりずっと簡単だ。出来るとも」

 世南はどんなことでも、優しく背中を押して励ましてくれる。それが今はたまらなく嬉しかった。

 雑炊は白米に蓮の葉、人参、柚、大根などが混ざり、魚の出汁で味つけがしてある。とても美味しくて、玉葉は三回もおかわりした。

 ふと、匙を持つ手が止まった。

「公主様、どうしているのかしら?」

「侍女がいなくなったという知らせは、公主様のもとにも届いてる。はっきり生死の調べがついていないから、新しい侍女を送ってはいないようだが」

 玉葉は目を伏せた。唐先生の惨い死に様が目に浮かぶ。

「私、もう覚悟しているわ。逃げられないって」

 そこで、世南と別れた夜からの出来事をぽつぽつと語った。世南が低く唸る。

「公主が結婚したら、身辺警備も厳重になる。皇后は何としても婚礼前に決着をつける腹だな」

 玉葉は深い決心を浮かべて頷いた。

「私、公主様を守ってみせるわ」


「玉葉、無事だったのですね!」

 二日ぶりに戻った玉葉を、丹雲公主は生き別れの家族にでも再会したみたく迎えて、きつく抱きしめた。これには玉葉の方がすっかりどぎまぎしてしまった。

「こ、公主様。やめてください」

「良かった。ずっと心配していたのですよ。婚礼の準備で何人も侍女が出入りしたのに、誰もお前の行方を知らないというのですから」

 互いの無事を喜び合った後、玉葉はそれまでの顛末を公主に語って聞かせた。

「ご安心ください。私は公主様の味方です。もうあなた様につくと決めたのです。鐘世南も助けてくれます」

「しかし、わたくし達の味方は余りにも少ない状況です。皇后様は陛下に次いで絶対的な権力を持つお方。何とか太刀打ちする手段があればいいのですが」

「皇子に助けを求めることは難しいでしょうか?」

「今の寧国において、皇帝継承権を持つ皇族の男児は、皇子ただ一人です。暗殺未遂が起きたとなれば、真相がある程度明らかにならない限り、陛下は皇子の行動を制限することでしょう。あの方がわたくしを助けたくとも、身動きが取れないはずです」

 確かにその通りだ。玉葉が見た皇子の様子は、軟禁に近い状態だった。先日会った時はやつれて見えたし、公主を助けたくても動けない状況なのだろう。

「陛下は聡明なお方です。なのに、皇子暗殺の原因が、今回の婚礼にあると気がつかないのでしょうか?」

「いえ、とうに気がついているかも知れません」

「え?」

「わたくしの父である周皇帝と寧皇帝が婚礼の会談を開いた時、父から聞かされたことがあります。それによれば、寧皇帝は老齢で体調が思わしくないため、数年のうちに皇子へ皇帝の座を譲ると話していたそうです。けれど、朱伯儒皇子は今年でまだ二十歳。君主となるには若過ぎます。そうなると、確実に別の権力者が政務に介入してきます」

「それは皇后様のことですね?」

 丹雲公主が頷いた。皇子の母親は彼が若い頃に病死している。現皇帝が亡くなれば、皇帝に即位した皇子へ最も影響力を持つのは皇后だ。欲深い皇后が政治の実験を握れば、寧国が乱れるのは確実だろう。

「お前の話では、後宮の妃の多くが皇后と繋がりを持っているようですね。だからこそ、異国の公主であるわたくしを迎えたのです。ここからは仮定の話ですが、寧皇帝は皇后様がわたくしを襲うことも予想していたと思うのです」

「どうしてですか?」

「つまりはこういうことです。わたくしが暗殺されたら、寧皇帝はその責任を皇后に押しつけ、権力を剥奪出来ます。そうすれば皇帝に即位した皇子の地位は盤石になります。もちろん、わたくしが皇子と無事に結婚しても、やはり皇后様の権力は弱まります。わたくしの生死は別として、全ては陛下の思惑通りです。むしろわたくしが死んでしまった方が、皇后を完全に無力に出来るでしょう」

 玉葉は丹雲公主の推理に感嘆すると同時に、壮絶な権力闘争の恐ろしさを身にしみて感じた。彼女が呆然としているのを見て、丹雲公主が微笑んだ。

「安心なさい、玉葉。あくまで推測の話です。それにわたくしは、絶対に生き抜いてみせます」

 その時、戸が叩かれた。玉葉が迎えると侍女が立っていたので、部屋の中へ通す。

「皇子より、公主様にお届け物がございます」

 そう言って侍女が公主に差し出したのは、丸められた桃色の手巾だった。先日、公主が皇子に渡したものだ。中に何か包んであるらしい。

 丹雲公主がお礼を述べて、侍女を帰らせる。手巾を見て、彼女は興味深そうな面持ちになった。

「こうして返してくれたということは、皇后を倒す糸口を与えてくれるのかもしれません」

 公主が手巾を紐解く。皇子と公主の間柄だから、他人に見せたくない物が包んであるかもしれないと思い、玉葉は少しさがって背を向けた。と――。

 短い、だが凄絶な悲鳴だった。振り向くと、公主の体が前のめりに地面へ崩れてくところだった。

「公主様!」

「来てはいけません!」

 玉葉がすんでのところで足を止める。鼻先を何かが刺激した。彼女は公主の足下へ落ちている朱巾へ目をやった。開かれた布には、紫色の液体が染み込んでいた。

 手巾に毒が? どういうことだろう? まさか皇子が公主へ毒を盛ったというのだろうか?

「玉葉……」公主が苦悶を浮かべ、声を絞り出す。「た、棚の中から緑色の小瓶を、早く……」

 玉葉は棚に飛びつき、引き出しを開けた。目まぐるしく視線を動かして瓶を見つけ出すと、黄色い顔で倒れている公主を抱え起こした。

「これですね?」

「中の……薬を、二粒――」

 玉葉が急ぎ蓋を外して、瓶を逆さに振る。四角い丹薬が何粒か出てきた。公主に二粒飲ませると、彼女は何度も激しくせき込み、目を潤ませた。ややあって、呼吸が落ち着いてくる。

「朱巾に、劇毒が染み込ませてあったのです。匂いを嗅いだせいで、体が利かなくなりました」

 鼻先に届いてきた異臭で、玉葉もはたと悟った。これは黒画皮の使っていた毒と同じだ!

「公主様、私が最初に会ったのは皇子じゃありません。影武者だったんです。たぶん、黒画皮の変装です」

 玉葉は皇子のもとを二度訪れている。最初は皇子の襲撃があった日、二度目は公主の襲撃の翌日だ。今にして思えば、様子が何もかも違っていた。皇子の暗殺未遂は、公主を罠にかけるための布石だったのだ。皇子暗殺の真似事で、皇后は影武者を仕立てる口実を作った。公主は心配の余り、玉葉を遣わせた。しかもうまい具合に贈り物を渡してしまった。皇子に対する信頼が厚い公主には、もっとも有効な罠だ。

 二度目に会ったのが本物の皇子なのだ。あの時、黒画皮はちょうど唐先生を殺すため出払っていた。だから短い間とはいえ、玉葉と対面出来たのだ。皇子はきっと、公主に真実を伝えたがったに違いない。玉葉は歯噛みした。公主をくれぐれも頼むと言われたのに、約束を守れなかった!

 丹雲公主は大きく息を吐き出した。

「皇后が一枚上手だったのですね」

「公主様、体のお加減は?」

「丹薬のおかげで、命を落とさずに済みました。でも、体の痺れが抜けきっていません」

「では、薬をもう一粒……」

「いいえ。この丹薬はあらゆる毒を即座に駆逐出来ますが、効き目がありすぎるのです。服用には、半日以上の間隔を空けなければなりません。間隔を無視して飲めば、毒を癒しても五臓六腑を酷く損ないます……」

「そんな!」

 皇后は毒の罠が功を奏したか、部下をやって探らせるだろう。公主が動けぬ身とわかれば、即座に使い手の刺客を送り込むに違いない。

 一体、どうすればいい? 世南と連絡を取りたかったが、公主をここへ残して動くわけにはいかない。必死に頭をめぐらせていると、公主が口を開いた。

「玉葉、お前は一人でお逃げ」

「な、何をおっしゃるんです?」

「この戦い、もとはわたくしと皇后の戦いです。お前を巻き込めません」

「今更、他人のようなことを言わないでください」

「わかりませんか? わたくし達は負けたのです。でも負けるなら、犠牲は少ない方がいいでしょう」

「それは公主様の流儀じゃないはずです! どうせ負けを認めるなら、最期の最期まであがききってから認めればいいんです!」

 丹雲公主は瞳を閉じ、微笑した。

「では、つき合ってくれるのですね?」

「最初からその覚悟です」

 そう答えた時だ。突然、表の戸が閉じられた。玉葉があっと叫んだ時は既に遅く、四方の窓も立て続けに塞がれ、風の通り道が無くなった。玉葉慌てて窓辺に駆け寄り、声を限りに叫んだ。

「何をするの! 開けて!」

 答えは無かった。表から、添え木を打ちつける音が不気味に響く。次いで、誰かの声が響き渡った。

「よし、火をかけろ!」

 玉葉と公主は揃って色を失った。二人を部屋に閉じこめ、焼死させるつりなのだ。

 逃げ道を作らなくては! 玉葉は手近な椅子を掴んで、壁に向かって思い切り叩きつけた。が、壁の造りは堅牢で、椅子の方が砕けた。彼女は小振りな卓、陶器、化粧箱とあらゆる物を投げつけ、少しずつ壁を崩した。しかしその間に火の手が広がり、部屋の中は灼熱地獄へ近づいていく。こうも火の勢いが盛んなのは、恐らく部屋の周囲に藁を敷いたか、油の類でもまき散らしたのだろう。

 玉葉は汗だくになり、気力も底をつき始めた。壊した壁の穴を広げようとした矢先、槍が鋭く突き出され、玉葉は慌てて退いた。出口を作ろうにも、外から邪魔されては為すすべがない。突然、轟音を立てて屋根が崩れた。

「公主様!」

 玉葉は動けない公主を抱え上げた。燃え落ちる梁や柱、屋根瓦を払いのけながら安全な場所へ退く。丹雲公主は汗でびっしょり着物を濡らし、きつく目を閉じている。

「公主様、諦めないでください」

 その時、外で何かやり取りが聞こえた。

「ここは丹雲公主の住まいだぞ! 何故火をかけた! 早く消さぬか!」

「し、しかし――」

「寧国皇子の言葉が聞けぬというのか? 貴様達、一体誰に仕えているつもりだ?」

 皇子ですって? 玉葉は目をしばたき、驚喜した。懐の公主を揺さぶり、何度も呼びかける。

「公主様、皇子です! 本物の朱伯儒皇子が助けに来てくださったんですわ」

 外では鎮火が進んでいく。続いて扉が破られた。玉葉が公主を背負って出て行くと、うなだれて控える役人達の中心に、堂々と背を伸ばして立つ皇子の姿が見える。皇子も玉葉らを見つけ、それから役人を怒鳴りつけた。

「貴様ら、何をしているか! 早く担架を持ってくるのだ。それと典医を呼べ。残った者は火をかけるよう命じた張本人を捜し出せ!」

 役人達が四方へ散っていく。玉葉が何度も声をかけると、顔中に汗の粒を散らした丹雲公主は、瞳をうっすら開いて弱々しく微笑んだ。

 やがて、二人の兵士が担架を持って駆けつけてきた。

「公主を私の部屋へ運ぶのだ。急げ!」

 皇子を先頭にして一行は進んだ。彼の住居ならば公主も安心だ。そこには黒画皮もいるだろうが、まさか皇子本人の前で公主を殺すことは出来まい。公主の様態も、段々と落ち着いてきた。

 道を進むうち、玉葉は不思議に思った。皇子がお供も連れず、おまけに徒歩で公主のもとへやってくるだろうか?

 その矢先、眼前から兵士と役人の一団がやってきた。中心にいる、馬に乗った人影は……皇子だ。

 玉葉が混乱したのもつかの間、相手方の兵士が叫んだ。

「寧国の皇子を騙る慮外者! そこを動くな」

 玉葉の隣にいる皇子が、ちっと舌打ちした。

「ばれたか。早かったな」

 それは明らかに皇子の声ではなかった。だが、よく知っている声だ。玉葉はあんぐり口を開けた。

「世南……。あんただったの?」

 皇子がうなじのあたりをいじり、被っていた薄皮を剥ぐ。すると鐘世南のしかめっ面が現れた。

「変装もお得意だと言ったろ。このままうまくやって、皇子の住居まで行くはずだったんだがな」

 玉葉は愕然とした。

「あんたね! 皇子に化けるなんて、大胆にもほどがあるわ。ばれたら不敬罪で死刑よ!」

「ああ。失敗したな」

「まるで馬と鹿が合わさったみたいね」

「確かに馬鹿をやっちまった」

「その通りよ」玉葉は曲げていた口端を、緩やかに持ち上げた。「でも、来てくれて嬉しいわ」

 担架を担いでいた兵士が丹雲公主を投げ出し、慌てて相手側に助けを求めた。地面に転がった公主を、玉葉がすぐさま助け起こす。ふと、玉葉は皇子を見た。公主がこんな目に遭っているのに、顔色一つ変えていない。

「世南、あの皇子は――」

「わかってるさ」世南は腰の隠しから剣を抜き放ち、馬上の皇子へ突きつけた。「そちらも騙り者のようだな?」

 相手は哄笑し、顔の皮を剥いだ。玉葉は戦慄した。

「黒画皮!」

「反逆者どもめ。覚悟するがいい」

 黒画皮の一声で、兵士達が一斉に剣を引き抜く。彼らは恐らく皇后の私兵だろう。

「公主様、こちらでお待ちを」玉葉は公主の体を下ろした。「私と世南で戦います」

 玉葉は腰の剣を鞘走らせ、世南と肩を並べた。黒画皮が右手を振り上げ、高らかに叫ぶ。

「かかれ!」

 兵士達が突進してきた。その数およそ三十余り。玉葉と世南が気合い声と共に迎え撃った。玉葉は剣を舞わせて兵達の進路を阻み、防ぎきれない相手は袖中の飛び矢で倒していく。世南も嵐のように剣を振るい、敵を屍の山へ変えていった。数の差こそ歴然としていたが、二人の勢いと気迫は兵士を圧倒した。

 不意に、玉葉の横を一人の兵がすり抜けていく。彼女は飛矢を放とうとして、手持ちが尽きているのに気がつくと、咄嗟に手中の剣を投げつけた。兵士が悲鳴を上げて倒れる。得物を失った玉葉を別の兵が襲ったものの、素早く駆けつけた世南に背後から切り捨てられた。彼は地面に落ちている敵の剣を拾い、玉葉に渡しながら言った。

「ついてこれるか?」

「当たり前でしょ。さっさと終わらせるわよ」

 二人は同時に敵中へ切り込んだ。相手は殆どの味方を失い、すっかり及び腰になっている。

 その時、馬上から黒画皮が飛び出した。両袖を広げ、猛禽のように空から躍りかかる。玉葉は剣で相手の目を突きにかかったが、黒画皮の長い腕は剣先を掴み、物凄い力で横殴りに払った。玉葉の体も横向きに引っ張られ、無防備な背中をさらけ出す。

 次の瞬間、背骨に槌を打ち込まれたような衝撃が走った。黒画皮の蹴りを食らったのだ。玉葉は地面へ叩きつけられた。痛みで全身が痺れ、起きあがることが出来ない。

 世南がすかさず割って入り、黒画皮に挑む。が、十手も持たないうちに追いつめられてしまった。突如黒画皮の手が翻ったかと思うと、剣を奪われて胸と右腕を切りつけられた。

「おやめ!」

 鋭い声が飛び、黒画皮が振り向く。

 声は丹雲公主のものだった。顔は青白く、やっとのことで立っている有様だが、相手はやや気圧された。公主が懐から緑の小瓶を取り出し、中の薬を口に含む。

 玉葉は驚きに目を見張った。

 ――さっき飲んだ劇薬だわ。でも、あれからまだ一刻も経っていないのに!

 丹雲公主が呻き、背中を丸める。がぶりと黒い血を吐き出された。

 しかし、顔を上げた彼女の瞳は、強い光を取り戻していた。

 油断ならじと見たのか、黒画皮は怒濤の勢いで突きを送った。いきなり必殺の手だ。丹雲公主は腰の短剣を抜くと、相手の懐へ飛び込んだ。

 黒画皮の剣が、肩を深々と射抜いた。

 が、公主はまるで意に介さなかった。無造作な動きで、短剣を相手の心臓に突き刺していた。

 黒画皮が音も無く倒れる。遅れて、公主もぐったり膝を着いた。玉葉と世南はやっとのことで起き上がり、彼女のもとへ馳せ寄った。

「公主様、大丈夫ですか?」

「ええ」公主の体は異様に震えていた。きっと劇薬の副作用だろう。彼女は玉葉の肩越しに、皇子の住居へ続く道を見つめた。「皇子は、来られなかったのですね……」

 鐘世南が公主を抱き上げ、玉葉に言った。

「玉葉、寧皇帝のもとへ行くぞ」

「えっ?」

「寧皇帝の前で、劉皇后の陰謀をぶちまけてやるんだ。丹雲公主を寧皇帝の庇護のもとへ置けば、皇后も手出しは出来ない」

 玉葉も即座に悟った。

「わかったわ」

 玉葉達は王府の大殿を目指した。三人とも深手を負っている。もし皇后の使い手達と会えば、勝てる見込みは殆ど無い。鐘世南に背負われた丹雲公主の怪我は重く、何度も黒い血を吐いた。

 幸い、三人は一人の敵とも会うこと無く大殿へたどり着いた。丹雲公主の姿を見て、入り口を守る兵士達も道を譲る。

 寧皇帝は広々とした部屋の中で、一人書物を読んでいた。玉葉がそこへ踏み込もうとするや、数十人ばかりの護衛が立ちはだかる。

「どいて! 丹雲公主様が襲われたのよ」

 玉葉の気迫に圧されて、護衛が左右へ退く。進み出た彼女は、寧皇帝の前にひざまづいた。相手は書物に視線を落としたまま尋ねた。

「何事だ」

「劉皇后が丹雲公主を暗殺しようとしたのです」

 玉葉は、背後に控えている鐘世南達を示した。広間の荘厳な空気の中、丹雲公主の荒い息づかいが聞こえる。

 寧皇帝は淡々と言った。

「暗殺のことは、朕の耳にも届いておる」

「丹雲公主はお怪我を負っております。急ぎ手当てを……」

「その必要は無い」

 玉葉は呆然とした。

「ど、どういう意味でございますか?」

「丹雲公主の死は死ぬ定めだ。朕がそう決めた」

 玉葉は丹雲公主の言葉を思い出した。

 ――わたくしが暗殺されたら、寧皇帝はその責任を皇后に押しつけ、権力を剥奪出来ます。そうすれば皇帝に即位した皇子の地位は盤石になります。

 ――むしろわたくしが死んでしまった方が、皇后を完全に無力に出来るでしょう。

 全てが理解出来た。金芳殿が焼かれるほどの事態になっても、何故朱伯儒皇子が公主を助けに来なかったのか。

「そんな……そんな……陛下、それはあんまりです。皇子は何とおっしゃっているのですか」

「あの者はまだ皇帝ではない。朕に意見する資格も無い」寧皇帝は玉葉をじろりと睨んだ。「そなたは劉皇后配下の刺客だな。そなたのことは黒画皮から聞いておる」

「黒画皮は……皇后様の刺客ではないのですか?」

「ふふ、あの者が真に仕えているのは朕ただ一人。皇后には何としても暗殺を成功させて貰わねばならぬ。それで手を貸してやったのだ」

 何ということだろう。皇后は最初から寧皇帝の掌で踊らされていただけだったというのか。

「でも、丹雲公主はこうして生きております。それを殺さなければならないなんて――」

「玉葉、控えなさい」

 丹雲公主が小さい、だがはっきりした声で遮る。

 寧皇帝は公主へ告げた。

「丹雲公主、そなたには済まぬことをした」

「いいえ、陛下。この国へ参って以来、覚悟していたことでした」

「天晴れな気概じゃ。皇后のことさえ無ければ、朕もそなたを次期皇后にしてやりたかった」寧皇帝は本を畳むと、やや身を乗り出した。「そなたが生きている間に、証書を書いておきたい。皇后が暗殺の張本人であるとな」

「仰せの通りにいたします」

 玉葉は僅かな希望にすがって言った。

「陛下。皇后様の陰謀とわかった以上、公主様が生きていても問題無いではありませんか。お願いですから、公主様をお救いください」

「ならぬ。暗殺が未遂に終われば、皇后を失脚させるほどの追求は出来ぬ。公主は死ぬ必要があるのだ」

 玉葉は絶望した。こんなことがあっていいのだろうか。国のためとはいえ、尊い身分の人間が犠牲になるなんて。

「そなたの体は毒にやられておる。適切な治療が無ければ、武芸で鍛えた身とて、あと数日も持つまい」

「わかっております」

 寧皇帝はじっと公主を見つめていた。ふと瞳に憐れむような色を浮かべて言った。

「皇子の部屋で休むがよい。治療はさせぬが、そなたへの手向けとして、数日の時間を与えよう。水入らずで過ごすがよい」

 丹雲公主はその場に平伏した。

「感謝いたします、陛下」

 寧皇帝は玉葉と鐘世南を見咎めた。

「そなた達は朕の計画を阻み、黒画皮を殺したのだ。生かしてはおけぬ」

 公主様と死を共にするなら、後悔はない。玉葉はそう思った。しかし、丹雲公主がよろめきながら進み出た。

「陛下……。わたくしより、お願いがございます」

「申してみよ」

「この二人を見逃して欲しいのです」

 寧皇帝は笑った。

「そなたの尊い身分からすれば、この者達は虫けらも同じ。それを助けたいと申すか」

「わたくしにとっては命の恩人です。たとえ、夕べに死す命であっても、救って貰ったことは事実なのです」

 寧皇帝が重々しく頷く。

「良かろう。皇后を排除するそなたの助けに免じ、望みを叶えてやる」

「公主様、駄目です」

 丹雲公主は微笑んだ。

「玉葉、お行き。わたくしは最期の最期まで諦めません。お前がそう言ったではありませんか」

「私も最期までお仕えします。どうかお側にいさせてください!」

「それには及びません。世南と共に行くのです。残ることは許しませんよ」

 玉葉は全身が震え、言葉も出てこない。鐘世南が沈痛な面持ちで頭を下げる。

「仰せのままに、公主」

「世南、世話になりましたね。これからも玉葉を守っておやり。お前達、幸せになるのですよ」

 寧皇帝が手を振った。

「早く立ち去れ。朕の前でぐだぐだと騒ぐでない」

 玉葉と世南は、互いの身を支え合って王府を出た。

 皇帝は傷に効く薬と、少々の路銀、それから馬を用立ててくれた。世南と相乗りになりながら、玉葉は馬上で一度だけ王府を振り向いた。

 金芳殿のあたりからは、まだ煙が消えずに立ち上っていた。


 晩春の落日。

 波のようにうねり、赤く染まった草原のちょうど真ん中、小高い丘になっている場所に、ぽつねんと柳の木が立つ。

 枝にはぼろぼろの凧が二つ、引っかかっていた。

 藩玉葉と鐘世南をのせた馬が、ふと足を止めた。玉葉は馬を飛び降り、枝に下がっている凧へ手を伸ばした。

「公主様の凧だわ……」

 馬を引いて、世南が近づいてくる。あの日、三人で凧揚げをした時の光景がありありと脳裏に浮かぶ。

 玉葉は涙を流しながら、言った。

「公主様は、きっと幸せだったでしょうね? 愛する皇子と最期の時を一緒に過ごせたのだから」

「もちろんさ」世南は二つの凧の先から伸びている糸に触れた。「見ろよ。綺麗に糸が絡まってる。お二人の心は、ずっと一つだ」

「そうね。きっと、そうね……」

 涙を拭った玉葉を、世南は優しく促した。

「俺達も行こうか?」

「ええ!」

 二人は馬に乗り、駆け出した。

 二つの凧は絡み合ったまま、そよぐ風に揺れていた。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ