第6話
「あれ……私――」
「姫様っ!!」
椎菜の魔力の篭った拍手ひとつであっさりと目を覚ましたミルフィリアに、シリスは感涙を隠そうともせずに彼女に近づき、手をとった。
ミルフィリア本人はまだ状況を理解できておらず、彼女にされるがままだ。
それもそのはず。彼女が呪いに倒れてから、実に十六日が経過していた。
その間シリスが献身的に世話をしていなければ、呪いが無くとも栄養失調で餓死をしていただろう。例え仮死状態だったことで、肉体と魂の劣化が限りなく少なくなっていたとしても、だ。
「良くぞご無事で!!」
「シリス……」
しかし桔梗の目にはそんなミルフィリアを「聡明」と映った。
(混乱しているわけではなさそうだな。恐らく状況把握に努めているといったところか)
彼女が静かなのは、状況を受け入れられず呆然としているからではない。
その逆にシリスの反応や周囲を見て、自分の今おかれている状況を正しく推測しようとしている。
「…………」
桔梗とミルフィリアの視線が合った。
問うような眼差しに、彼は肩を一度だけ竦めて見せる。
シリスであれば「ふざけているのか!?」と烈火の如く突っかかってきそうな態度ではあったが、彼女は納得したように頷くと、彼に微笑を見せた。
一国の姫君なだけはある、落ち着いた優雅な微笑だった。彼ぐらいの年頃の男子では、一発で勘違いしてしまうほどの破壊力を持っていた。
例外は桔梗ぐらい枯れた男子くらいだ。
「シリス、今までの護衛、大儀でした。貴女の忠義に感謝を……」
「姫様っ」
そして先ほどから目の前でわんわんと泣いている部下に、優しく語り掛ける。
握られた手を握り返し、自分の胸の前に持ってきてもう一方の手で抱きしめるように包み込む。
シリスにとっては最大級の賛辞だ。耐え切れるようなものではなかった。
頬を伝う涙の勢いが更に増し、ミルフィリアの胸に顔を埋めるように主の無事を喜んだ。
本来であれば不敬ととられてもおかしくない行為ではあるが、ミルフィリアはそれを咎めない。彼女の優しさ、と言う意味もあるが、ここまで自分に尽くしてくれているシリスに、悪い気がしなかったどころか、本当に嬉しかったからだ。
だからシリスのなすがまま、彼女はしばらくの間体を預けた。
「そこのお二人にもお手間をお掛けしたようですね」
ややあってシリスがどうにかこうにか落ち着いたところで、体を優しく離したミルフィリアが、桔梗と椎菜のほうを見て言う。
未だ状況を正確に把握できたわけではないが、自分が眠っている間にいろいろと厄介な出来事があり、彼らに助力を受けた、ということは何となく確信できていた。
そうでなければここにいるのはシリスを含めた蒼龍騎士団の面々であっただろうから。
「ま、そんな大したことは、と謙遜するつもりは毛頭ないが、それでも確かに大それたことをしたわけではない。各々が出来る範囲で出来ることを成しただけに過ぎない」
「はい。私も同意見です。困っている人がいたら助けたい。ただそれだけです」
対して二人はそれほど気にした風も無い態度だ。
桔梗と椎菜はそれぞれ本音を言っているに過ぎないが、ミルフィリアはそれでも、と感謝の言葉を述べた。
「姫さまっ!?一国の王女ともあろう御方がそんな軽々しく頭を下げては!!」
「シリス。私の命は私が頭を下げる価値の無いほどに軽いものだと貴女は言うのですか?」
「!?い、いえ!そんなつもりではっ!」
「では、私の命を救ってくださった方々に、私が頭を下げることのどこに不都合があるというのです」
「あうぅ……」
このやり取りに桔梗は内心舌を巻く。
この場合、常識云々はともかくとして、シリスの言っていることは強ち間違っているわけではない。
貴人――特に王族が一般階級の庶民に頭を下げるなど、あってはならぬ事態である。
王族は傅かれ、敬われるのが常であり、当然なのだ。
つまり、危険だから命を救う、困っているから手助けをする。それは当然の行為であり、感謝されるようなことではない。寧ろ何もしないことに対して不敬を問われるぐらいだ。
行き着くところまで行くと「何故命の危機に晒した!」と、その場に居合わせただけで理不尽にも全責任を押し付けられ兼ねない。それほどに当時の王族は不遜であり、絶対なのだ。
つまり、ミルフィリアは王族としてはそれなりに異端であると言える。そこまでのレベルではないものの「風変わり」と言われるくらいではあるだろう。
そしてこういった態度が庶民の心を掴み、王位継承権で有利なはずの第一王子が危険な手段をとってまで脱落させようとするほどにまで危険視をされるのだ。
(やりづらくなるかもな)
桔梗は少しだけミルフィリアを起こしてしまったことを後悔する。
彼女を寝かせたままシリス相手に交渉していたほうがことを有利に運べたかもしれない。姫と言う立場に「我侭だろう」と決め付けたのが彼の失策である。
我侭な人間ならば思考誘導が非情に容易かったのだが、ミルフィリアは確固たる個を持っている。生半可な言葉遊びは通用しないことだろう。
(ま、起こしてしまったことは仕方ない。起きていることの利点もそれなりにあるのだから今は目を瞑ろう)
しかし彼はあっさりと自分の失敗を受け流すと、思考を切り替える。
ここらへんは流石と言うほかない。
「部下をからかうのはそれくらいでいいだろう。姫さん、アンタはどこまで知っている?」
「コーサカ!何だその態度は!?」
「フラウ。勘違いしてもらっては困るが、俺はこの国に何の縁もゆかりもない。故に庶民と他国の王族の違いなど気にはならないし、気にもしない。お前が敬愛する主が気安くされて苛立つ感情も理解できるが、それは筋違いなのではないか?」
「いや、紅坂さん。普通は気にするものですよ」
「ほらみろ!!」
「嬢ちゃんはカタいな。その歳でそこまでお堅いと将来苦労するぞ」
「いえ……これくらいが普通の反応だと思うんですけど」
桔梗の相変わらず桔梗らしい物言いは、椎菜はともかくシリスにとっては看過できないレベルの不敬である。
そもそもこんな発言が許されるのは普通は有り得ない。
しかし地球で《亡霊》として特殊な仕事をしてきたがために、普段はお目通りすら叶わぬような存在とも懇意な間柄にまで発展し、不遜を許されている桔梗にとっては普通のことだったりする。
彼の顧客野中には一国のトップも珍しくは無いのである。
ただそんなことを当然知らないシリスは、ミルフィリアのことを見下している、という反応に思えた。
そもそも桔梗からしたら見下すも何も、本来であれば関わりたくないレベルの人種である。無視できるのであれば素通りを決め込みたかったのだ。
だがそれを阻んだのは他ならぬシリスであり、であれば彼に遠慮する気持ちは最初から無かったのである。
「自分の立場をわきまえろ!」
「お前こそ自分の立場をわかって言っているのか?」
「なんだと!?」
「シリス、よしなさい」
「姫様!?」
「今がどういう状況なのかはほとんど私には理解できていませんが、彼らの助力は必須なのでしょう?ならば徒に彼らの感情を逆なでする必要はありません。それに――」
彼女は悪戯っぽい微笑を浮かべ、
「なんだか新鮮ですわ。家族以外の同年代の男性に、こうも気安く呼ばれるのは」
本当に嬉しそうにそう言った。
「それはどうも」
そんな笑顔を向けられた桔梗は、顔色ひとつ変えずに軽く頭を下げる。
だが内心はひたすら苦い。
それもそのはず。彼女は状況はともかく、自分の置かれている立場をしっかりと理解し、そして最適解を即座に導き出した。
打算を当人の前であっけらかんと口に出す行為もそうだが、何よりもその胆力。権謀術数渦巻く宮内で幼い頃から過ごしてきた彼女にとって、これくらいの危機は危機のうちに入らない。それらを切り抜ける手札は彼女の内に無数に揃っている。
だからこそ彼女は優秀であり、凡愚な兄たちに危険視されるのだ。
「そこの可愛らしい魔術師さんもあまり畏まらないでいいからね」
「は、はぁ……」
お茶目すぎる。
それが椎菜の素直な感想である。
恋愛要素の強い漫画のお姫様たちの中には、確かに彼女のような人も多くいた。
しかし目の前の少女は紛れも無い本物である。それはシリスの態度からしてそうとわかるし、彼女の服装も唯人ではない豪華な仕立てだ。
そんな人間と接点を持つなど、今までの彼女にとって想像すらしていない出来事である。
だから椎菜は平凡な反応しか出来なかったのだ。
「そう……お兄様が。相も変わらず無駄なことを……」
「無駄なこと?」
「ええ。父である国王は私を次期王に指名するつもりはなく、私にもそんな野心は持ち合わせていないのはわかりきっていることなのに」
「それは仕方ないだろう。姫さんの兄貴たちがどれほどの傑物かは知らんが、こういう手段に出る限り相当な凡愚だろう。自分より優れた人間など、己の地位が高ければ高いほど目障りに過ぎんさ。歴史の中でも愚者だけで周りを固めて、自分どころか国すら滅ぼした王など掃いて捨てるほどいる。アンタの父親に先見の明が少しでもあれば、前言を撤回してアンタを指名するくらいのことはするかもしれないぜ」
「そういうものでしょうか?私は他国の王族に嫁ぐものとばかり思っていましたので、あまり想像したことはありませんわ」
「さよか。自分の国が次代で潰れることを憂うのであれば、なりふり構っていられんと思うがなぁ」
呪いを受けてから今までのことを、シリスに聞かされたミルフィリアは、いきなり自分の兄の批判を始めた。
それも「自分の命を狙った」ことに対してではなく「無駄なことに無駄な金と労力を使った」ことに対してだった。
事実、やり手の暗殺者を雇うためにある程度内情を知られるハメになり、それを秘匿するために更なる金が使われる。彼女を殺すために色々な準備と手間が発生し、また行ったことで蒼龍騎士団と言う精鋭たちまでも失った。
西の大陸随一の大国だからと高をくくっているようでは、他国に攻められたときに足元を掬われるだろう。大陸三分の一を所有していると言うことは、その反面三分の二は他国の領土であると言うことだ。彼らが連合を組めば、ウルグリアはたちまち自分たちの二倍の大国と争うことになってしまう。
そんな環境の中で自分たちで足を引っ張り合って国力を減少させているのなら目も当てられないほどの失態だ。そしてそんなことに兄たちは気付いていない。思ってすらいない。
彼女はそれが情けなくて溜息をはいてしまった。
「まあ、そんな内情は俺たちにとっては正直どうでもいい。俺たちとフラウの契約は、次のアリウまで姫さんたちを五体満足で送り届けることだ。そのあとの政争は俺たちに迷惑が掛からない程度に好きにしてくれ」
「そうですか。確かに部外者のコーサカ殿たちにそこまでのご迷惑をお掛けすることはできませんね」
心底残念そうに呟くミルフィリアを、シリスは何か言いたげに見つめていたが、主が引き止めないのであれば彼女にそれ以上資格は無かった。
少なくとも椎菜の魔力と実力を一目でも見てもらえれば話は変わったのかもしれないが、彼女は今ほとんどの魔力を感じない。
これはただ表面に出る魔力の量を意図的に抑えて節約しているだけなのだが、魔力は相手を威圧するために常時垂れ流すのが常識のこの世界の魔術師にとって、この考えが浮かばない。
そして何よりも歯痒かったのが、それ故に主が椎菜ではなく桔梗との会話を優先していることだった。
彼女からしてみれば彼のほうが圧倒的に歳上なのだから、彼と話をしたほうが建設的だと判断しているからだ。
そしてそれは事実なのだが、桔梗を侮っているシリスにとっては我慢ならないことでもあった。
「コーサカ殿たちはアリウについてからどうするのですか?」
「それはフラウにも話したが、正直右も左もわからない状況でね。まずは当面の生活資金を稼ぐためにも、余所者でも日銭を稼げる手段でも探すつもりだ」
「……それでしたら冒険者になるのが一番かと」
「冒険者?そりゃまた実にらしい職業だ」
「らしい?」
「ああ、独り言だから気にしないでくれ。物語の中の話かと思ったら、そうではないことに驚いただけだ」
「コーサカ殿の国にはないのですか?」
「ん……あるにはあるんだが、職業ではなく趣味レベルの話だな。そしてそれほど実入りのいいモノじゃない」
「へぇ、ところ変われば、といった感じですね」
「ああ」
感心したようにミルフィリアが頷く。
そもそも桔梗の言う冒険者はフィールドワークを主とする考古学者のことである。彼らは冒険という名の調査をすることで対価を得ているのであって、冒険による発見は基本雇い主のものである。もっとも、名誉という金で買えないものこそが彼らにとっては得がたい報酬である。
「で、具体的に冒険者というのはどういうヤツのことを言うんだ?」
「――冒険者とは国家間の柵に左右されない互助組織である『冒険者ギルド』に名を連ねる者たちの総称だ。
人にとって共通の敵である魔族や、天変地異などの脅威の対処から始まり、果ては近所の住人の手伝いまで、その業務内容は多種多様だ。
業務は依頼主からの『依頼』という形で各冒険者ギルドに貼り出され、自分に合った依頼を探し、受注し、完遂する。そしてその報酬として金品が支払われる。
だが、当然だが仕事の内容が簡単であればあるほど報酬額は少なくなるし、困難であれば跳ね上がる。もっとも金持ちの道楽や貧困者の命がけの嘆願など釣り合っていないケースは稀にあるが、例外中の例外だ。
その難易度によってランクが決まる。
そしてここが一番重要なことだが、ランクが上がればあがるほど危険度――命の保障はなくなってくる」
「…………」
主に代わって説明するシリスの言葉に、椎菜は血の気が引く音を聞いた気がした。
そして先ほどの戦闘シーンがフラッシュバックする。
辺り一面に散らばる血肉。後悔と恐怖に染まった騎士たちの死に顔。異形の恐怖。
そしてそれらを一蹴する桔梗の更なる恐怖。
人知れずブルリと震える体を抱きしめる。
一旦決意はしたものの、やはりすぐに克服できるようなものでもない。そしてそれは人として正しいあり方である。
「もっとも、冒険者に成り立ての人間に高ランクの依頼は受けることすら出来ない。最初は簡単な雑事で小銭を稼ぐ日々が続くだろう」
「手っ取り早くまとまった金を稼ぐ方法はあるか?」
「…………ないわけではない。が、おすすめしない。……いや、お前たちなら逆に最適なのか?」
「それは?」
「魔物・魔族を狩ることだ。ヤツらは人類にとって敵でしかない。中にはラグーンのように手懐けて労働力にできる種も存在するにはするが、そのほとんどは害悪でしかない。だからヤツらを減らすことは、人にとって喜ばしいことだからな。ヤツらを討伐した証拠を持っていけば、それに応じて報酬がもらえる。そして皮は防具に、牙や爪は装備に、肉は食料に、内臓は薬になど、様々な恩恵もあるため売ることがが出来る。もっとも、そういった討伐依頼も中ランクあたりからは存在するので、そういったものが受けられれば討伐報酬だけではなく依頼報酬ももらえるのだが」
「なるほど。それは俺好みだ」
「もちろん、魔物をある程度討伐できる実力が認められれば、例え依頼を受けていなくても冒険者ランクが上がる。実力があるのにランクが低いからと危険なことをさせないなんて、宝の持ち腐れだからな」
「?」
ちらちと見つめられて、椎菜は首を傾げる。
椎菜からしたら自分のしたことは家を用意したことと簡単な呪いを解呪したことだけだ。
もちろんそれこそがこの世界では異常事態なのだが、それを知る術は今の彼女には無い。
「よし。とりあえずはその冒険者ギルドとやらに行って冒険者になることが最初の方針だな。お嬢はそれでいいか?」
「え?は、はい。紅坂さんがそれでいいと思ったら、私は構いません」
「シーナ殿。自分の意見は大事だぞ?言いよどむほどの悩みがあるのであれば、今この場で言ったほうがいい」
「そ、それは……」
「シリス。二人の関係を良く知らない私たちがここで声を荒げてもいけませんわ。アサギリ殿、言えるときに言うのがよろしいかと」
「……はい」
今でも命のやり取りはできることならやりたくないと思っている。例えそれが人間ではなかったとしても。人間にとっての害意だったとしても。
彼女は気付かない。
この世界の人間たちにとって、魔物や魔族を殺すことは、椎菜たちにとって蚊やハエを殺すのとさほど変わらない。共通するのは人にとって害獣であることだ。
羽虫を殺すことに何の疑問を抱かない彼女が、魔物を殺すことに忌避感を抱くのは、彼らからしてみればそれこそ疑問でしかない。
その滑稽さに彼女は気付かない。動物を殺した成れの果てを毎日食べていることにも、つい先ほどまで気付かなかったのだから当然といえる。
「ですが冒険者になることでもうひとつの恩恵があります」
「え?」
「冒険者として登録されると『ギルド証』というものが与えられ、それがこの地――冒険者ギルドが存在する国や街での身分証明証の役割を果たします。何も知らない御二人にとっては、それだけで他者の信頼を得やすくなりますよ。協賛店舗での割引などサービスも受けられますしね。もっとも――」
ちらりと桔梗を見て
「私が自ら御二人を公的に認める旨の声明を出してもいいのですが……コーサカ殿は御嫌でしょう?」
「その通りだ。今後の活動に支障が出る」
ミルフィリアの誘いを即断で拒否する。
大半の人間にとっては願っても無いチャンスなのだが、異世界人の桔梗にとっては単なる柵に過ぎない。それもそう簡単には断ち切れない類のだ。
ならば最初からそんな柵など作らなければいい。それが彼の正直な感想だ。
「だが、お嬢はどうする?姫さんの言うことも旨味がないわけじゃないしな」
「いえ、紅坂さんの判断に従います」
そうして彼らは異世界に来て初めて状況が一歩進んだのであった。