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異世界生活は魔法少女とともに  作者: 水瀬みずき
第1章:異世界旅立ち編
4/49

第3話

「これ、読める?」

「……読めるわけないじゃないですか」


 行き着いた先の看板で見たものは、当然というか異世界語だった。

 来る途中に異世界についての知識――過去の文献であったり、ライトノベルと呼ばれる若者向けの読み物であったりの内容について聞かされた。

 中には「異世界転移と同時に向こうの言葉や文字が自動で翻訳される」という話もあったのだが、自分たちはその加護に恵まれなかったようだ。

 看板には見たこともないような文字でなぐり書きされていた。

 看板を見かけた時点で舞い上がってしまったが、あのとき内容を確認しなかったのは失敗だった。

 一瞬希望が見えただけに、落胆もデカイ。


「翻訳の魔術とか覚えていない?」

「あ」


 言われて初めて気づく。

 そういえばそういうのがあった。

 師に「私たちの本場はヨーロッパ方面にあるから、今後意思疎通で困らないようにいの一番に取得しておけ」と言われるがままに覚えていた支援魔法があった。

 海外はおろか自分の街からも出ることが少ない小学生だったために、一年間で使用したことがなかったので本気で忘れていた。

 ちなみに彼女は知らないことだが、この翻訳魔法はかなりの万能具合を有する。対象が同じ日本語であっても、難解な言い回しや専門用語なども、自分でも理解できる言葉に直してくれる。

 椎菜が来年の授業から受ける英語や古典の教科書も、この翻訳魔法があれば現国と変わりないのである。


〈翻訳〉(ワードマスター)


 それぞれ自分と桔梗に翻訳の魔法を掛ける。

 習得してから一度も使っていなかったが、一度習得した魔法は魂に刻まれるためそうそう忘れることはない。危なげなく発動した翻訳魔法に一つだけ頷き、改めて看板を見た。


『←アリウの街

 カシナの街→』


「読めた!」


 翻訳魔法は異世界語すら有効だった。そしてその有効時間は「魔法を解除するまで」。発動時以外に魔力消費もないという恐るべきチートである。


「ふむ……どっちを行っても街か。互いの距離がわからないからどちらを選んでも大差ないか」


 同じく看板を覗き込んだ桔梗が呟く。


「どっちかが砦の名前だったりフィールド名だったら迷う必要もなかったんだが……まあ、それは贅沢な悩みだろうね」

「確かにそうですね。それで紅坂さんはどちらに向かうべきだと思いますか?」


 桔梗は一度考える素振りを見せ、そしてすぐに首を横に振る。


「判断材料がなさ過ぎて何とも言えない。仕方ないからコイントスで決めるか?」


 そう言ってポケットからコインを取り出した。一目見て日本の小銭ではないそれは、椎菜の目には珍しく映った。

 そして椎菜の返事を待たずにコインを上に弾く。

 どれほどの力がこめられていたのか、コインは垂直に高く舞い、二つの太陽の光のこともあり、数秒で見えなくなる。


「表が出たらアリウの街。裏が出たらカシナの街。これくらい単純な方がいいだろう」

「強引ですね」


 とは言え、彼女にも文句はなかった。

 きっと自分ひとりなら、判断材料もないのに長時間悩んでいたことだろう。そして結局正解もわからぬまま答えを出すことになり、答え合わせが来るまで延々と「間違っているかもしれない」という不安を抱えるのだ。

 それは小学校に入ってからの数年でもう自分のそんな性分に気付いていた。

 小学生だというのに達観している。

 故に多少強引であってもはっきりと物事を決めてくれる相手がいるのは正直ありがたい。特に自分より歳上という事実が、彼女には大きな心の支えになっているのだが、今の彼女にはその自覚はない。

 それにコイントスも立派な魔法である。どちらかというと占いの一種ではあるが、込められた魔力に引き寄せられ、その者の望む結果に導かれやすくなるらしい。

 その術者が魔力も何もない桔梗であることはある意味皮肉ではあるが、それでも誰かが思い込みの判断で決めるよりは、失敗したときの慰めになる。


「ちなみにどっちが表でどっちが裏なんですか?」


 日本の小銭であればわかるが、流石に見たこともないお金――かどうかさえもわかっていない――では判断がつかない。

 そんな基本的なことを思い出し、


「そうか。確かに最初に言ってなかったね。表のほうが――」


 そこまで口に出したところで、コインが落ちてきてしまった。

 桔梗は言葉を止めて、思わずコインの行方を追ってしまう。釣られて椎菜も草の上で軽くバウンドしたコインを目で追う。

 止まった面は――


「どうやら表の方だね。アリウの街とやらに行くべきだそうだ」


 摘み上げたコインの上の面を見せ、そして再びポケットに仕舞う。

 女性を象った細工がなされた面だった。そっちが表だったらしい。


「それじゃ向かおうか」


 そして旅が始まる。



 紅坂桔梗は現実をそれなりに知っていた。

 異世界に突然飛ばされる。そんな未来は自分の人生設計には欠片たりとも存在していなかったが、十八年の他人に自慢のできない後ろ暗い経験値から、これから起こるであろう少女の受難を、かなり確信的に想定していた。

 まず、生理的な事情。


「ううぅ……」


 数時間益体もないことを話しながらアリウとやらに向かっている最中、段々と大人しくなっていく。

 そしてそれから間もなく歩く速度が遅くなり、そして足をモジモジとし始める。


「……我慢しないで行ってくるといい。俺は向こうを見ながら待っているよ」

「え!?な、何のことですか!?」


 察しがよすぎる彼に、椎菜は顔を真っ赤にして惚けた。

 しかし限界でもあった。

 考えてみれば昨日の夜に自室に戻る前に用を足してから一度もしていない。寧ろよく今まで我慢できたことを評価するべき場面である。

 しかし小学生とは言えそこは乙女だ。

 流石に異性の前で「おしっこしたい」など言えるはずがないし、そもそも見渡す限りの大草原。隠れるところなどない。

 あくまで紳士的に振舞う桔梗に対し、進退窮まった椎菜は、あろうことか


「《飛翔》!!!!」


 と魔術を発動し、自分たちが進むべき道を遥か先まで飛んでいった。


「……やれやれ」


 置いてけぼりにされる形になった桔梗は数秒頭をかき遠くなっていくシルエットを見送り、追いつくのはどれくらい先だろうか、と走り始めた。

 ちなみに、追いついたのはマラソンのペースで走って30分も後のことであった。

 後に彼女は魔法で壁を作り出すという強引な解決策を思いつき、少し離れた先で身を隠すことを覚える。

 とはいえ「用を足している」ということを異性に悟られる環境が、どうしようもないほどに恥ずかしかったのは言うまでもない。


 次に衣食住。

 異世界は先ほどから歩いている通り、大自然を主なフィールドとする地形である。

 日本のように建造物がどこまでも続いているわけではなく、基本は街が独立して存在し、それをつなぐ道があるのだろう。日本で言うなら東海道五十三次で知られる話がわかりやすい。

 東京の日本橋から京都の三条大橋の間にある街道と五十三の宿場町。それらをつなぐのは道であり、そして道以外の何物でもない。そしてこの異世界はそれをさらにスケールを大きくしたようなものらしい。

 東海道であれば数時間も歩き詰めれば次の宿場町が見えるのに対し、この世界ではとりあえず6時間も休憩を挟みながら歩いてきたものの、ほとんど景色が変わらない。

 故に時刻は夜に差し掛かり、段々と暗くなっていく。街頭なんて洒落たものはあるはずもないので星と月の明かり以外は何も光源がなくなっていく。

 家族とキャンプに行って一泊したこともある椎菜だが、流石にテントも何もない状況では、経験はまったく役に立たない。

 そんな彼女に代わり、サバイバル知識と小賢しい程度には回る機転を以って、住居を生成させた。

 彼は決して非常識なことをさせてわけではない。

 トイレのときに椎菜自身が使用していた土壁を応用して、石と土で床、壁、天井を作って箱を作り、そこから手を加えて窓や仕切りを作り出す知恵を彼女に与えた。

 やり方さえ知ってしまえば後は楽だった。

 伊達に四系統の魔術を高いレベルで使いこなすと推測される椎菜は、いとも簡単に家を作り出した。荒削りだが、「箱」ではなく確かに「家」と言っても差支えがないほどの完成度である。

 家の中でも椎菜が《灯火》の魔術で明かりを確保し、小さく仕切った小箱のようなスペースに水属性の魔法で水を発生させることにより、飲料水の確保も完了する。

 服の汚れなども浄化魔術で洗濯後のような爽快感を得ることが出来る。そしてそれは服だけではなく体にも有効だ。

 もちろん日本人としては風呂に入らないと落ち着かないが、当面は仕方ないと諦める。

 そこまではある程度順調だった。

 しかし、


 クゥゥ……――


「あうぅ」


 可愛らしい腹のなる音とともに、もう本日だけで何度目になるかわからない、恥ずかしさに耐えるような声。

 トイレ同様あのときから水分以外を摂取していない椎菜の空腹は限界を迎えていた。

 しかし、食べるものがない。

 現代社会に慣れ親しんだ彼女にとって、食べ物とは「買って用意するもの」であり「狩って用意するもの」ではないのである。

 ただでさえ体を動かし続けた育ち盛りの椎菜にとって、空腹感に加え、食べる物がないという事実は、かなりショッキングな出来事であった。


(これは仕方がないか……)


 桔梗自身は仕事の状況によっては数日間絶食をすることもままあるため、水分さえ補給できればあと数日はパフォーマンスを落とすことなく行動も可能である。

 しかしここは決して我慢を強いられるような状況ではないことと、そもそもお腹を空かせた少女をそのまま放置することに劣情を感じるような高尚な趣味をしていない桔梗は、行動することに決めた。


「お嬢」

「えっ、えっ、なななんですか!?」

「ちょっと腹減ったから食べ物を探してくる。流石にこんな闇夜にキミを放り出すわけにはいけないので、ちぃとここで待っててくれ。恐らく周囲に張っている結界と、この建造物の防御壁を喰い破るような化け物は周囲にいないと思うが、何かあったらとりあえず逃げて念話で伝えてくれ。会話はできないが、受信自体は問題ないと思う」

「はい……ごめんなさぃ」


 お腹が鳴ってしまったことで余計な仕事を増やしてしまったと勘違いしている椎菜は、申し訳なさそうに頷いた。


「腹が減るのは自然の摂理だ。何も気に病む必要はないし、今日一日キミの魔術頼りでまったく役に立ってないしね。これくらいは格好つけさせてくれ」


 そう苦笑する桔梗の顔には間違いなく「慈しみ」の感情があった。

 基本面倒くさがりだったり無気力無関心を表に出すのは、それなりの経験則からである。

 魔術の心得がないくせに魔術師が蔓延る世界で生きていたり、幅広いジャンルの知識に明るかったりするのは、間違いなく彼の日々の研鑽によるものだ。

 普段誰かと交友を深めるような相手があまりいないためわかりにくくはあるが、案外面倒見がよかったりする。


 後はよろしく、と備え付けられたドア――無駄に凝っている――を開け、彼は墨を落としたような夜の世界に足を踏み入れる。

 地元では考えられないほどの満天の星と、遮るもののない月の明かりでだいぶ明るさは感じるものの、それでも明るいときと比べたらその違いは雲泥である。

 しかし桔梗はまったく戸惑いもせず、駆け始める。

 運び屋として鍛えた脚力と、大っぴらにできないような技術を少しだけ使用し、暗き大草原を有り得ないスピードで疾駆する。

 迷いがない。

 目指す場所は街道から少し離れた場所にある林。というか森。

 草原には生き物らしい生き物がいなかった。

 だから比較的安全という保障があり、街道ができるのだ。これは異世界でも同じことだろう。

 だから生き物がいるとしたら森。たとえ生き物がいなくても食える植物があれば問題ない。贅沢はこの際端においておく。

 短い雑草たちが生い茂っていた草原を踏破すると、そのままの勢いで森へと入る。

 気配を消し、夜目の効いた視界であたりを見渡す。

 まずは植物性の食料を探す。

 地球上の食べられる山菜などに似た何かを見つけては引っこ抜き、匂いを嗅いで、そして食べる。

 その途中で少しでも毒っぽい何かを感じた時点で捨てる。それを繰り返す。

 ご都合主義というべきか、幸いにして地球とこの世界の食べ物は思いの外近似していた。

 予想とあまり変わらない味に、それでも油断することなく選別していく。

 森は食材の宝庫とはよく言ったもので、十五分も探せば抱えきれないレベルで見つかった。葉野菜だけではなく根菜も見つけられたのはデカい。

 程よく集まったところで用意していた容器に詰めて――土の魔術でボウルのようなものを作ってもらった――次の行動に出る。

 木立の葉が風で擦れ合うざわめきをBGMに、彼は周囲に意識を放つ。


(――いた)


 足音。呼吸音。獣臭。

 様々なファクターを感覚で捕らえ、対する桔梗は食材の入った容器を地面にそっと置くと、音もなく走り出す。

 向かうは躊躇なく音のなる方角。

 果たしてそこには獣がいた。

 一見イノシシに似ていた。

 しかし口元から生える牙が、自分の知識とはだいぶ違う。

 そして何より大きさが違う。

 全長三メートルを優に越す巨体がそこには在った。

 何かを探しているのか木の根元を鼻と牙で掘り起こしている。

 恐らく先ほど桔梗も採取した根菜のどれかを探しているのだろう。

 イノシシに桔梗に気づいた様子はない。

 《亡霊》の技術を動員し、周囲に完全に溶けこんだ桔梗の隠形術は、野生の感覚すら欺いた。

 近くの木を蹴って上に跳び、空中で体制を変えながらベルトの背中部分に留めたポーチからナイフを取り出す。

 刃先から柄まで黒一色で染められたナイフは、月明かりすら吸収しなおも漆黒。


(すまんね)


 と心の中でさして悪びれもせず謝罪の言葉だけ並べ立て――


「ブギィッ!!??」


 そのまま微塵も躊躇いも殺気すら醸すことなくナイフを突き立てる。

 大まかな構造はイノシシを意識し、運動神経系を狙い過たずに切断する。

 イノシシは自分の体に異物が突き刺さった時点で初めてそれを意識した。

 気付いて暴れようとするが、もう遅い。突き刺さった瞬間に息の根を止めることよりも先に、解体解体して行動力を奪うことを優先した桔梗はそのまま縦横無尽に刃を走らせる。

 三メートル以上ある巨躯を、わずか刃渡り十数センチのナイフが圧倒する。

 数秒後、イノシシはさしたる抵抗を見せることなく力尽きた。動きたくても体は脳の信号を受け付けず、唯痛みに反射的に痙攣するのみだった。

 実はこのイノシシ、この世界の住人には脅威とされており、鍛えられた兵士たちが数人掛かりで討伐するような凶暴なモンスターである。

 それを知らないとは言え一人で圧倒する桔梗の戦闘センスは常識を逸脱していた。

 この戦闘力が魔術師をはじめとした人間たちに向かわなかったのは、彼らにしてみれば僥倖である。

 いざとなったら躊躇うことはしないが、人を殺すことに忌避感は十分にあるのだ。血も涙もないと言われて溜め息をつくこともあったが、基本は殺人を犯さないことは彼のポリシーでもあった。


「流石にデカ過ぎるな」


 とイノシシであったものを見上げ、多くは不要と体の一部だけ切り取る。多くは不要だが少なくとももったいないので、それなりの量にはなった。

 あとで保存の魔術みたいなものがあれば頼もうと思う。

 食べるために殺す。

 それを当然のように受け入れた――そうでなければどこかで餓死して野垂れ死んでいた確信のある桔梗にとって、動物を殺すことは幼い頃に経験済みだった。

 生のまま血の滴る肉を食い千切り、毒の有無を確認する。

 日本の家畜のように食べられるために生かされていわけではないため、流石に臭いと味には顔をしかめるが、調理次第では十分に食えるだろう。

 道を戻り野菜たちを回収すると、行きとそれほど変わらぬ速さで拠点まで走り抜ける。

 椎菜のもとに戻ったのは、出発から一時間も掛からぬほど短い時間だった。


 戻ったあとも彼の独壇場だった。

 魔術で住居の外にカマドと鍋や菜箸などの調理器材を椎菜に生成してもらうと、野菜と肉の下拵えをささっと済ませる。

 ポケットから常備している調味料で下味を作ると、肉や根菜を一緒に炒め、そして水を加えて蓋をし煮る。

 あとは十分から二十分ほど煮詰めて最後にさっとは野菜を加え、調味料で味整えればスープの完成である。

 米やパンなどの主食は望むべくもないが、空腹をひたすらに我慢するしかないと思っていただけに椎菜に文句などない。


「すみません、何から何まで」


 食材探しから調理に至るまで任せきりにしてしまった罪悪感は重い。

 しかし当の桔梗は全く気にしていなかった。


「そうでもないよ。事実俺は食料を確保する技術を持っているし、料理だってできる。でも数分で家を用意なんてできるはずもないし、各種道具もキミに作ってもらってばかりだ。そもそも最初に水の確保ができたのも、キミの魔術があってこそだ。俺は精々キミのできないことを引き受けて、評価を上げるしかないのさ」


 寧ろより多くの恩恵を受けているのは自分の方だという自覚はあった。

 恐らく一人でこの異世界に放り出されたとしても、それなりに生き抜く自信はあった。こんなもの地球で過ごした波乱万丈な十八年に比べれば、鼻で嗤ってしまう類の問題に過ぎない。

 しかしそうなると当分は現代人の生活は望めなくなるだろう。

 だからこそリアルサバイバルからキャンプ程度の難易度にまで引き上げてくれた椎菜の存在は大きい。

 とは言え、一人で異世界に来るという制限の対価として、椎菜の地球への帰還があるのであれば、迷うことなく選んでいただろうが。

 結局のところ、お互いの長所と短所がうまく噛み合っているが故の恐縮なのである。

 自分が高度なスキルをどれだけ身につけていようが、自分が手も足も出ない分野で高度な結果を披露されれば、どうしても劣等感は生じてしまう。

 それは彼女の年齢を鑑みれば寧ろ可愛い葛藤だった。

 桔梗は笑った後にヘコむ彼女の頭に手を載せ、優しく撫でた。

 いきなり撫でられた椎菜も、それでも納得がいかないのか眉を顰めるが、今回は黙ってされるがままだ。普段は同級生に頼られる側だった故に、案外嬉しかったのかもしれない。

 しばしゆったりとした静寂な時間が過ぎ、完成したスープは心にしみた。



 最後の問題は、きっと最大の問題だった。

 簡単に慣れてしまえる日本人であれば、きっと別の問題を抱えているだろう。

 実際椎菜は平静を取り戻すのに数日という時間を要し、そして今後も一切慣れることはないだろう。

 対して桔梗は逡巡すらしない。

 今更そんな資格は自分にはないと、悪党を気取って淡々と受け入れた。

 事件は旅の三日目に起こった。


「―――――――――!!!!!」


 聞くに耐えない叫び声が前方から聞こえた。

 およそ人間が発生できるとは思えない声質に、桔梗と椎菜は揃って眉を顰めた。


「何かあったんでしょうか!?」

「普通に考えて何もないはずはないだろうね」


 お互い顔を見合わせて、どう行動するかべきかを思案する。

 一番手っ取り早いのが飛翔の魔術を発動し、桔梗ごと引っ張り上げて上空を通り過ぎることだ。

 もちろんあの声の持ち主が空を飛べないという保証はない。

 しかしその場合は後から考えればいい。現時点で五〇パーセントの確率で安全なルートが確定しているのはありがたい。

 デメリットが存在しないため、椎菜は飛翔の魔術を発動させると、上空にゆっくりと上昇する。

 慣れていない者が発動させると、足場がない状況に違和感を覚え、うまく飛べないのだが、経験があったのか危なげなく空中で体を操作する桔梗に椎菜はちょっと驚く。

 知り合いが多いということだから実際は使い慣れているのかも知れない。


「……最悪だ」

「え?」


 見つめた先の桔梗の顔が歪んだ。酷く気分を害したらしく、彼女の前でさえ不愉快さを隠そうともしない。


「お嬢はここで待機だ。絶対に近づくなよ!」


 鋭い口調で注意し、椎菜が反応する前に体制を変え、解き放たれた弾丸の如きスピードで飛び出した。


「え、え?」


 桔梗の変化についていけず置いてけぼりになり、数秒呆然としていた椎菜だが、彼の向かった先に視線を動かし――


「!?!?!?」


 絶句した。

 言葉もない、言葉にできないような出来事が世の中にあるということを彼女は知った。

 思い知らされた。

 そこは赤かった。

 鮮やかな赤では決してない。黒い色が混じった目を背けたくなるほどの醜悪な赤。

 そんな赤がバケツをひっくり返したかのようにそこら中にぶちまけらてている。

 そんな中に混じる固形物。

 見慣れているはずのソレを脳が正しく認識しない。アレは一体何だ?という疑問と、聞かずとも知っているでしょう?と呆れ混じりの断定。

 そして無慈悲にも正解に辿り着いてしまった椎菜は、


「ウェェ……」


 それでも現実に耐えきれずに限界を迎えた。

 朝に食べた胃の中身を嗚咽混じりに吐き出す。

 なまじ才能があっただけに挫折という経験をしてこなかった幼い少女に現実はどこまでも残酷だった。

 生活関係の問題が簡単に解決してしまったことも大きい。

 端的に言ってしまえば、彼女は異世界転移という異常事態に対して楽観視してしまっていた。

「地球に似たような世界」と思い込んでしまったのは彼女の早合点だが、だからと言って自業自得と責任を押し付けるのは酷というものだろう。

 ほとんどの日本人が想像もしないようなことを、十歳の少女が耐え切れるわけがない。


 今まで生きていたであろう人間の死体は、絶望の張り付いた表情を残して転がっていたのだ。


「オォォォォォッ!!」


 普段からは考えられないような声を出し、桔梗は戦場へと飛び込んだ。

 安全装置が壊れたようなスピードで急降下し、この世の生き物とは思えないような異形の存在にナイフを突き立てる。

 交通事故の如き衝突に、異形は耐えられるはずもなく、桔梗ごと地面へと押し込まれるように激突した。結果は即死。

 しかしそれを確認することなく桔梗はナイフを引き抜くと、突然の登場に一瞬怯んだ異形たちに反応する隙を与えずに死を振り撒く。

 豪奢な鎧を装着した鍛えられた騎士――と思われる――男たちが見るも無残な姿で惨殺されていることから、異形の強さは相当のものだと予想される。

 千切られ、潰され、引き回され、およそ尊厳と言われるものすべてを踏み躙られた挙句に死んでいった騎士たちに対する憐憫はあれど、それは決して怒りにはつながらない。

 桔梗にとって死とは身近なものであり、誰にでも平等にいつか訪れる終着点である。

 それが早いか遅いかは当人の運であり、そこには貴賎も何も関係がない。

 特に顔も名前も知らぬような人間が、どんな姿で野垂れ死のうとも「運がなかったな」と片付けられる程度の問題である。

 殺さなきゃ死ぬ。それは戦場での慣わしであり常識だった。それを否定する気持ちはない。

 しかし、


「胸糞悪ぃことしやがってっ」


 きっとこの光景は椎菜にとって致命的と言えるほどの最悪の部類に入るだろう。

 そう、桔梗が思い描いた彼女がぶち当たるいくつもの問題のうち、一位二位を争う存在がこれだった。

 それ即ち「人の死」である。

 そしてそれは自分他人の区別を問わない。

 自分の死と他人の死は、種類こそ違うが与える恐怖心はともに甚大であることに変わりはない。

 連日ニュースなどで訃報は絶えず聞こえてくるが、所詮はその程度だ。

 不慮の事態で死ぬ瞬間や死んでしまった遺体を至近距離で見てしまうことは、現代日本で取って置きに運の悪い出来事ではあったが、世界を見渡してみれば珍しいものではない。

 ゲームなどをすれば気付くだろうが、街の外は兎角戦闘が多い。

 街が地続きに並び立つ日本と違って、街と街の間に自然が存在するのはいつだってそこが「人が住むに適さない環境」であることが多い。

 自然環境が苛酷であることも理由としてはそれなりに大きいが、何よりも「人を殺す敵の存在」がその際たるものだろう。

 扱う題材によってその種別は行く通りにも分かれるが、凶暴な獣、魔物、モンスター、化け物、魔族、魔王とその例には枚挙に暇がないほどだ。

 この異形も大別すれば「人類の敵」そのものであり、異世界では脅威と認定される曰くつきだ。

 そんな存在が椎菜の心に傷を与えるという事実は、桔梗にとって目を瞑ってやれるほど甘くはない。

 知らぬ人間など知ったことか。しかしそれなりに気に入って気を許した相手を不快足らしめる要素は、彼にとって到底許せるものではなかったのである。


「ギギャギャッ!?」


 絶命した異形を蹴飛ばして引き剥がし、悪態をつきながらナイフについた血と肉を振り払い、続けて一番手近にいた異形を更に屠る。

 赤い池が異形の緑の血に塗り替えられていく。

 最初こそ戸惑いが会った異形たちも、状況を理解したのか反応する者が出てくる。

 反応は大きく分けて二つ。立ち向かうか、逃げるかだ。

 桔梗は逃げようとする偉業を優先的に殺し、ついでに近づいてきた偉業も越していく。

 あらかた事態が収束したのは異形側が全滅をした時だった。


「……ふぅ」


 最後の一匹を逆袈裟から脳天への刺突で殺害し終えた桔梗はつまらなそうに息を吐く。

 なるべく避けるようにはしていたが、流石に刃渡りの短いナイフでは返り血をすべて躱すことはできなかった。

 緑色の不快な臭気を発生させている異形の血に顔を顰めると、ナイフに付いた血を不謹慎ながらも汚れていなかった騎士の誰かの遺品の布で拭い去る。

 鞘に戻したことを機に、桔梗の発していた殺気が消失した。

 今この状態の彼を見ても、誰もがこの惨状を演出した元凶とは気づくことはできないだろう。寧ろ巻き込まれた被害者と勘違いする可能性が高い。それ程の変わり様だった。

 人畜無害の顔をして圧倒的な戦力を持つ。それが紅坂桔梗の真価である。周囲に埋没することでリスクを極限までに減らす。そして必要なときだけ力を開放することで、敵戦力の誤認を生じさせ、少ない労力で勝率を上げるのが基本戦術だった。

 もっとも。単純に面倒だから、という理由が八割近くを占めるのも確かなのだが。


「――――」


 桔梗は無言で周囲を見渡す。

 目に映るのは地獄絵図だが、状況を知る必要があった。

 目を逸らしたくなるような光景に、鼻が曲がるほどの異臭。歩けば血と遺骸を踏み潰し、吸った空気は不快そのもの。

 人間の死体は頭部を数えると十名。全員が鎧を着た騎士然とした格好だった。そしてその鎧は無駄に豪奢だった。

 全員が戦力として数えられる十名が死亡。

 桔梗が殺害した異形が二十八体。

 そう考えると確かに多勢に無勢ではあるが、不自然なまでに一方的な虐殺だった。

 人間側の戦力がハリボテの虎だったのか、異形の強さが桔梗が知らないだけで普通に絶望レベルの脅威だったのか。

 はたまたそれ以外の理由か。


(ま、最後の最期まで騎士だったということか……)


 騎士の死体に守られるように無傷を保った馬車を見て、桔梗は名前どこか生前の姿すら知らぬ騎士たちに、僅かばかりの敬意を覚えた。


 馬車は一見何の変哲もない一般的な馬車のように見えた。

 装飾など最低限しかない、The馬車と言うに相応しい風体だ。

 しかしよくよく見てみるとおかしなところが色々と見つけることができる。

 木材の陰に隠れるようにして打ち付けられた鋼鉄。

 御者台からも後ろからも覗き込むことができない、完全に密封された荷台。

 荷台と車輪の間には衝撃を逃がすためのアブソーバー的なパーツまで目立たないように設置されている。

 微かな継ぎ目を発見することができれば、そこが荷馬車の出入り口であることに気付くだろう。

 普通の馬車に似せた超高性能な馬車だった。

 唯の金持ちが作るとすれば、これ見よがしに煌びやかな装飾をゴテゴテと付けるだろうから、ワケありなんだろうとあたりをつける。

 詰まりは、中身を隠したかったのだ。


「――――」


 桔梗は1秒に満たない時間逡巡し、直後継ぎ目に指先を強引に差し込んだ。

 騎士たちが自分の命を賭けてでも最後まで守ろうとしたモノ。結果的にそれが偶然の産物だったとしても、彼らが時を稼いだからこそ、桔梗は間に合った。

 ならばその成果だけでも見届けるべきだろう。

 何よりこのままでは目覚めが悪いし、遠くで椎菜も見ているはずだ。流石にこれ以上非情な真似は慎むべきだろう。

 故に開けて中を確認する。

 結界と思われる抵抗を指先に感じるものの、力任せに強引に突き破る。綻びを発生させた結界は、呆気なく霧散した。

 腕を引いてみればカチャリとそれほどの抵抗もなくドア――というには隠蔽されているが――が開いた。やはり作った者の腕が確からしく、よい仕事である。


「――ヒッ!?」

「…………」


 中身は予想通り人間だった。

 それも騎士たちがそれなりの人数で護送するであろう、一目で高貴とわかる格好をした少女と、それに付き従うように、さりとて最後の防壁となるべく少女に身を寄せた女性の騎士。

 女性の手に杖が握られていることから、先ほどの結界は彼女の手によるものと推断できる。気配隠蔽と物理障壁と言うそれなりに高度な結界だった故に、おそらく彼女の地位も相当なものと予想した。

 そんな女性に守られるようにして横たわる少女は、気を失っているのか、それとも大事無いように予め眠らされたのか、この非常事態であっても安らかな呼吸を繰り返し、起きる気配はない。


「だ、誰だ!?」

「通りすがりの一般人さ」


 恐慌状態にかかわらず毅然と言い放つ女騎士に、桔梗は適当にそう答える。


 これが桔梗と椎菜にとって、異世界における人類とのファーストコンタクトになった。

お読みいただきありがとうございます。

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