第14話
ソレは生まれながらにして絶対強者であった。
この世に生れ落ちて幾星霜。万を超える齢を重ねたが、その強さが翳る日は未だ来ず、凶悪な力を持ち続けた。
強さの絶頂は数千年で訪れたが、長命種の特徴としてその絶頂期のままで固定される。故にソレは今尚も最強種の一角として在り続ける。
その者は黒龍。
ネクタル大霊峰の覇者にしてウルグリア史に於ける生ける伝説である。
黒龍は常に飽いていた。
生まれたときより強者としての道を歩み始めていたが、遥か昔は己以上の強者が跳梁跋扈していた。
今は姿を消して久しい神々に、その身を地に堕とした邪神。その配下である天使や魔人。同輩たる龍種。人の身でありながら神の寵愛を得た大英雄。
思い起こせば戦うことを生き甲斐とした黒龍にとって、血なまぐさくとも楽しい日々であった。
しかしいつの日か黒龍にとっての楽園は姿を消した。神々はなにを思ったか、この大地より姿を消した。天使や魔人は留まったが、その時点でヤツらは黒龍にとっての脅威ではなかった。
自分が全てを掛けても届くことが敵わなかった好敵手は、もうこの世にはいないのだ。
そのことを理解したとき、彼の中で何かが壊れる音がした。
神々の居なくなったこの大地に、代わりに台頭したのは矮小な人間たちだった。
彼らは脆く短命ではあったが、その繁殖力は他に類を見なかった。そして何よりも自分たちの非力さを認めた上で、彼らは知恵と技術でそれを補う術を知っていた。
武器や防具。魔術や魔道具。それらは長い年月によって時には魔人すらも御せる力を生み出す。
また神々の残した遺産を一番うまく使うのもまた人間だ。
《神器》といわれる超常的な道具すら彼らは扱った。数こそ少ないが世の趨勢をひっくり返せるほどの代物だ。
その代償が酷く大きいために使われる場面は限りなく少なかったが、それでも一度解き放たれれば厄介極まりない現象を引き起こす。
黒龍の次のターゲットはその《神器》だった。
自分を飽きさせなかった神々はもう居ない。ならば神々が残した力と対峙する。
そんな自分勝手な想いを原動力に、黒龍は人間に死をばら撒いた。人間は窮地に陥らねば力を発揮しない脆弱な生き物だ。ならばまずは絶滅に追い込もう、と。
彼の予想はそれほど間違っておらず、人は《神器》を使った。
確かにその威力は彼を納得させるものがあった。
だが、満足させるものでは決してなかった。
黒龍は人を殺し、《神器》を壊し、更なる戦乱をこの世に呼ぶべく、この世界の空を駆け抜けた。
しかし出る杭は打たれるもの。
この黒龍の凶動を良しとせぬ者も多く居た。言うなればそれは黒龍以外のほぼ全てにあたるのだが、彼に対抗できる戦力として数えられる者の中にも居たのだ。
神を主と仰ぐ強大な魔物。金龍と白龍。そして天使たち。
彼らは「反黒龍勢力」として立ち上がり、彼の前に立ち塞がった。
いくら黒龍とはいえ自分に匹敵する龍種が二匹、更に周りには数が多ければ脅威となりうる天使たちの軍団が相手では多勢に無勢であった。
しかしその身は黒龍。戦乱の申し子である。
彼は心底楽しそうにニヤリと笑うと、まったく怯むことなく撃って出た。
人間の歴史では語られることのない『黒龍動乱』。それは多対一の戦争でありながら一年も続き、盟主たる金龍と多くの天使を失いながらも、反黒龍勢力の勝ちとなった。
しかし現実は痛み分けだ。
金龍の捨て身の攻撃に力の大部分を殺がれた黒龍と、金龍亡き今、そんな状態の黒龍にさえとどめを刺せぬ戦力しか持たぬ反黒龍勢力。白龍は存命ながらも、黒龍以上の重症だった。
金龍を仕留めたときに感じた喪失感は、酷いものだった。
彼は追いやられるように――実際は全てに諦観し、表舞台を去った。
そしてネクタル大霊峰での千年以上の永きにわたる療養を終え全盛期の力を取り戻したものの、これ以上の戦闘は蛇足とし、この地にて生涯を終えようと終の棲家とした。
金龍の爪痕は未だに健在であり、不眠不休が常だった黒龍を以ってしても、今では数年に数ヶ月ほど休眠をしなければならない。
それを放って置けば確実に死期は縮まるだろうが、それは黒龍の矜持が許さなかった。彼は戦いの中での死を望み、夢破れた今は健全な寿命を以って最強のまま死ぬことを選んだ。無理を押して死んでは金龍に殺されたようなものである。
黒龍は弱者には用はない。
故にこのネクタル大霊峰の頂点に位置しながらも、それ以外の存在には興味もなく放置した。
彼が牙を剥くのは己に刃を向ける挑戦者だけである。
人間は「休眠期でなければ近づけない」と勘違いをしているが、実際はそうではない。
黒龍は例え起きていたとしても、見逃すだろう。それほどまでに矮小な存在に興味がないのである。
しかし人間側からしたら黒龍を前に平静を保つことなど無理な話だ。だからこそ窮鼠が猫を噛むように、敵意を出してしまい、結果狩られるのである。
《…………?》
黒龍はいつもとは違う雰囲気を敏感に察知し目を開いた。
森の中に巣食っていた魔物たちの気配が消えている。黒龍ほどの強さと比べたら足元にも及ばないものの、それでもヤツらは樹海の覇者だった。
弱いからこそ群れて擬態し、そして周りの存在を傀儡として敵を葬ってきた強者である。ヤツらも数千年前にこの地に流れ着き、以来代を重ねながらも生き永らえてきた。
それがどうしたことか。
彼らの隆盛は今日という日を以って潰えた。きっと予想だにしなかっただろう。そんなタイミングだ。
彼らの最期は黒龍の戯れか天変地異によって終わるはずだったのだ。
《…………》
闖入者だ。
初めて感じる気配。
人のものではあるが、少しズレている。そんな気配だ。
ソレが樹海の魔物を屠ったのだ。
《…………》
黒龍は地に降ろしていた長い首を起こし、気配のある方向に目を向けた。
そして目が合った。
黒龍の視力は千里眼とも言われているほどであったが、人間はそうはいかないだろう。たまたま顔を上げたときの姿を黒龍が目にしてしまったのだ。
人間は自分の姿に気付いていない。――気付いていないはずだ。
しかし、
《!》
笑った。
涼やかな顔で口角を持ち上げ人間は笑って見せた。その瞳は狙い過たず黒龍を見つめていた。
黒龍に怯えるでもなければ、挑戦的な気配をも微塵と見せず、ただただ純粋に笑ったのだ。
矮小な人間が黒龍を相手にもしなかった。
これを傲慢と言わずに何と言おうか。
《…………》
しかし黒龍は怒りを募らすことはなかった。
何とも小気味良い感覚を覚えていた。
まるでまったく意図していなかった攻撃をクリティカルで受けたような、そんな衝撃があった。
普通であればそれは怒り狂うべき事案である。しかし黒龍にとって戦いとは生き甲斐であり、ソレによって受けるダメージはすべて恩恵である。
恩恵を受けて何故怒ることがあるだろう。
気配は真っ直ぐこちらに向かっていた。途中途中で魔物を殺しながら――殺し尽くしながら真っ直ぐここを目指している。
何となくその目的を黒龍は理解していた。自分が眠っている間に他の魔物や人間たちがこそこそこの地で何かをしているのは知っている。
恐らくこの地に咲く滋養溢れるこの花を摘みに来ているのだろう。
今まで自分が起きているときにやってきた命知らずの愚か者は数少ないが、そういった存在に彼はある種の敬意を払っている。何故ならばこの黒龍の威圧を受け止めている証拠だからだ。
それが例え知能を持たない虫のような存在であっても、生存本能が彼の近くに立ち入ることを許さない。
この咲き乱れる花だけが黒龍の庇護下であれば逆に咲き誇れると、この地に根差したのである。
《…………》
黒龍はやがて身を起こした。
人間がここに辿り着くのもそう先のことでもないだろう。
あれほどの強さを持っているならば、特に障害はないはずだ。あるとすればこの身の威圧のみ。
しかしそれが足を止める理由にはならないはずだ。
《…………》
黒龍は笑った。
人間でさえも笑っていると理解できるほどにその強大で凶悪な口を吊り上げながら。
数千年振りに感じる愉悦に、黒龍は悶えるように身を震わせた。
「おやまあ」
果たしてやってきた人間はそんな風に口をあんぐりとあけて意味のないことを呟いた。
人の外見年齢を知る黒龍ではなかったが、それでも今まで見てきた人間の中では歳若い印象を受ける。
恐らく二十年と生きてはいまい。
その服装も決して戦うことを想定したようには見えないほどに防御力というものが欠如していた。恐らく爪が掠った時点で死ぬだろう。否、その風圧にさえ耐え切れるものではない。
しかし、人間は事実ここまで辿り着いた。単独で、然したる損害も出さず。そして何よりも多くの命を事も無げに奪いながら。
この姿はまやかしだ。油断を誘う道化のようなものだ。
黒龍は《神器》を持った古代の人間に匹敵する相手と想定し、第一声を放つ。
《人間よ。なにゆえこの地に赴いた》
「お、アンタも人間の言葉しゃべれるクチか」
《もう一度問う。なにゆえこの地に赴いた》
緊張感の欠片もない。
それ即ちこの黒龍に畏怖していない証拠である。
心の底からふつふつと湧き出てくる愉悦に、黒龍は今はじっと耐える。
いきなり牙を剥き殺すことは容易いことだが、それでは面白くない。数千年振りの退屈を紛らわせてくれるかもしれない存在なのだ。
であれば今は問答すら心地よい。
「別に大したことじゃないさ。この花の蜜を持って帰ると大金がもらえるんでね。だから金を稼ぎに来たってわけ。アンタからしちゃつまらない理由だろ?」
《確かに。しかし我が起きていることを知らなかったわけではあるまい?それでも来るとはとんだ命知らずよ》
「ん~~~~」
少しばかし脅してみれば、人間は少し考えるように俯いた。
顎に手をやり、うんうんと唸っている。まるで何を言うのか正解なのかを探すように。そしてその正解が彼にもわかっていないような、そんな風に。
そしてその直感は的を射ていた。
「じゃあ逆に聞くけど、なんでアンタが起きているとダメなんだ?別にこんなに花は咲き乱れているし、その中の一部をもらうだけだろ?アンタも困らないと思うし、俺は助かる。Win-Winとまではいかないが、どっちも損をしないじゃないか。何を気にする必要がある」
この人間は黒龍に対して何とも不遜な発言をした。
この人間の言っていることは事実だ。別に誰がここに来て花を持っていこうと黒龍は何の関知もしない。勝手に持っていけばいいといった塩梅だ。何故ならばこの地を住処としたのは金龍につけられた傷を癒すためであり、それが完全とは言わないまでも癒えた今、この花に然したる興味はない。
この人間が何の力も持たない凡夫であれば、彼もこんな回りくどいことはしない。
しかしこの人間も間違いなく強者である。
少なくとももはや叶わぬと思っていた戦いの相手を務めてくれるかも知れぬ存在なのだ。
ならば如何にしてこの人間を戦いに駆り出そうか。
それを黒龍は考えていた。
この人間は戦うことに忌避感を持ってはいない。ただ戦うことに対して楽しみも持っていない。
何と勿体無いことか。
《それは思い違いだ人間よ。我は我の領域に足を踏み入れる者を許さぬ。故に汝を許さぬ》
「それは流石に嘘だろ」
《何故そう思う?》
「ならばアンタはあのとき目の合った瞬間に殺せばよかったはずだ。こんなところに来るまで待っていていいはずがない。アンタに縄張り意識があるというのなら、この地にはアンタしかいちゃいけないんだ。あんな魔物たちの勝手な振る舞いが許されていいはずがない」
《否。我は確かに下の生態系に興味を持たん。しかしこの地は別だ》
「それも嘘だね。だったらこの地にこの幻スミレが咲いているなんて事実を俺たちが知っているわけがない。いくら眠っていたとしても、そんなに縄張りを主張するなら、何人たりともこの地に辿り着いてはいけないんだ。あの国の人間たちも勘違いしているみたいだが、アンタ人間に興味ないだろ?あるのは――そうだな。アンタの噂を聞くに『戦うこと』なんじゃないか?」
《!?》
確信を突かれた。
流石の黒龍も驚きのあまり、言葉を失う。
人間はしてやったりという感慨も見せずに尚も続ける。
「ああやっぱり?しっかしアンタと釣り合うような力を持ったヤツも稀だろう。ラフィも王国最強と入っていたが、アンタに比べれば赤子のようなものだ。知恵と勇気だけでは如何ともしがたいレベル差だろうしな」
黒龍の力に気付いていて尚も淡々とした口調は崩さない。
この人間は黒龍に畏怖を感じていないわけではない。
だからと言って恐怖を抱いているわけでもない。
この人間は、
(そもそも我に何の思いも感じていない?)
黒龍が脆弱な存在に興味も持たないように。
この人間は黒龍に対して何の興味も持っていなかった。
畏怖するしない以前の問題である。
あろうことか、この人間は黒龍を路傍の石と同じ程度の価値にしか感じていないのである。
《ククク…………クカカ…………!!》
自然と笑みがこぼれた。
この屈辱は一体いつ振りか。金龍すらも敵意を持ったこの己を、ここまでコケにした存在はそれこそ神々や邪神の時代にまで遡らないと存在しない。
しかし現実にここにいるのだ。
これほど愉快なことがあるか!
《その通りだ人間よ!!我は戦いを望み戦乱の世に生きた!!故に強者との戦いこそが我が生のすべてである!!》
漆黒の翼をこれ以上ないくらいに開く。その動きだけで旋風を巻き起こす。それほどまでに黒龍は強大な存在なのである。
人間は強風にあおられながらも、吹き飛ばされることなかった。体幹を器用にずらし、暴風を往なす。その表情には恐怖ではなく不満が張り付いている。
そうだ。こんなことで慌てふためくようでは興醒めである。
「アンタ友達いないだろ!!だって欲望に正直すぎる!!」
《嘗ては居たさ!ただ皆死んでいったわ、我に殺されてな!!》
「それ《好敵手》と書いて《とも》と呼ぶやつだろ!?」
《知ったことかよ人間!!》
それでも尚悪態をつく人間に、小手調べとしてブレスを放つ。
黒龍のブレスは火炎という生易しいものではない。超高温のプラズマ振動波である。
黒龍にとっては小手調べ程度の威力ではあるが、万物にとっては等しく破滅の業火であった。
「おわっ!」
人間はそれでも死ななかった。
間一髪というタイミングで極太のエネルギー波を避け、今度こそ余波で体を持っていかれる。
花の絨毯に為す術もなく着地し、そのままごろごろと数メートルほど転がった後、そのままの勢いで起き上がった。
その身は奇跡的にも無傷。うまく受身を取ったのか、吹き飛ばされたときのダメージもない。
しかし
「ああああああ!!!」
何かに驚愕したように人間は叫んだ。
頭を抱え、大げさに叫ぶ。
「幻スミレが!!」
黒龍のブレスを浴びた花は、当然の如く抉り取られた大地とともに姿を消していた。一瞬で溶解し蒸発したのは当然である。
一面に咲き乱れていた花はブレスの直線上に居たモノは全滅。その周りも余波で大変なことになっている。
在ろうことか、人間は自分が生きていることを喜ぶよりも、この後に待つであろう大金を失うことに愕然としたのである。
《何をバカなことを》
この期に及んで何を考えているのか。
黒龍とて一番大事なものは己の命である。戦いの先にある死は望むところだが、それでも生きて勝つほうがその何倍も楽しい。
それ故に先の黒龍動乱とて白龍の命を奪うことなく自分の延命を図ったのである。
しかしなんということか。
この人間は自分の命よりも金を優先した。
黒龍とてほんの余興と称して人の姿に化け人の街で暮らした経験がある。
そのときに「金」がどういうものであるかも理解した。そして人間にとって金がどれほど大事なものかもわかっている。
だからと言って己の命を凌駕するものではないのだ。
人が命乞いをするときはずべてを投げ打つ。それこそ財産に至るまですべてだ。それほどのまでに自分の命が大事であり、可愛いのだ。
この場違いな雰囲気を持つ人間に、黒龍は流石に訝しんだ。
この人間は強者ではなく只の狂人なのではないのかと。金に取り付かれた亡者なのではないかと。
ともすればこの戦い全てが茶番になってしまう。
それは黒龍にとって歓迎できないことだった。
ならばこの興奮が冷め遣らぬ前に。興が醒める前に、何も知らぬままに殺してしまうのが一番なのではないか。
そんな思いが脳裏を過ぎる。
しかし、黒龍こそ思い違いをしていた。
この人間は、そんな黒龍に測れるほど、単純な存在ではなかったのだ。
「バカなこと?何故そう言い切れる?」
空気が変わった。
あれほどバカバカしかった人間の雰囲気が豹変した。
何の感情も感じさせない口調。今までは興味がなかっただけで、感情がなかったわけではない。しっかりと喜怒哀楽が存在していた。
しかし今は違う。
底冷えするような眼差しは、その実なんの感情も映していなかった。そう感じてしまったのは受けてに原因がある。
つまり
(恐怖?この我が人間に対して?)
その感覚に思わず戸惑う黒龍。
その思いは遅れてやってきた。最初は一体何なのか、理解できなかった感情にやっと思考が追いついた。
その瞬間、どっと何かが背筋を襲った。
それが悪寒であることを黒龍は知らない。神と相対したときですら、こんなことは起きなかった。
つまりそれは――
(この男が神を超える存在だということか?)
在りもしない結論に到達する。
そう。そんなことは在りはしない。
神こそこの世界の真の支配者であり、絶対者なのだ。それを超える存在があってはならないのだ。
では。
この人間は一体何なのか。
《オオオオオオオオオオオオオオォォォッ!!!!》
黒龍は激情に駆られ今一度ブレスを放つ。
今度は手加減も何もあったものではない、正真正銘の本気の一撃であった。それもそのはず、彼は目の前に居る人間を恐れたのだから。
彼我の距離は五十メートルもない。
それ故に着弾までは一秒という時間すら生ぬるい。
人間は為す術もなく立ち尽くし、
「《因果》」
不可思議なことを呟いた。
《!?》
何と言うことか。
ブレスは何かに呑み込まれた。
それが一体何なのか、黒龍の知識を以ってしても理解の埒外だった。
ただ確実に自分の渾身の一手は、人間とブレスの間に生じた穴により、吸い込まれていった。
吐き出すブレスはかき消されたわけでも防がれたわけでもない。ただ呑み込まれてどこかに行ってしまった。それだけは事実だ。
そして
「《応報》」
再び吐き出された言葉に、おぞましき気配を捉えた。
《ヌオオオオオオオオオオオオォォォッ!!!!》
在ろうことか。己のブレスが自身に襲い掛かってきた。
理解は出来ない。だがその脅威は理解できる。
何故ならば金龍にとどめを刺した技こそがこのブレスなのだ。
形振り構わずに黒龍は避けた。下から抉るように上方に向かって飛んでくるブレスを、その巨体を想像以上のスピードで動かし避ける。
その代償として自身のブレスは止めざるを得なかったが、それ以降ブレスが襲ってくることもなかった。だからこそ確信を持って自分のブレスだということを理解できた。
「言ったはずだ。俺は金を稼ぎにここに来た。だからここに咲いている幻スミレを滅ぼされると非常に困るんだよ。アンタが別の場所に生えているのを知っているのならそれでいいが、違うだろう?だから――」
幽鬼の如く呟いた言葉は、それでもはっきりと黒龍の耳に届く。
「いいぜ、やってやるよ。アンタのくだらぬ矜持に付き合ってやるさ」
人間は両手を払うように広げる。
「《瀑布》」
その言葉通り、異質な何かが黒龍の頭上に降り注がんとする気配。
黒龍は巨体を捻るものの、そんな努力でこれが躱せるわけがない。
《ギィィィィィィィィィィィィィ!?》
渾身の力で防御力場を発生させるが、そんな抵抗すら嘲笑うかのように異質なナニカは力場ごと削りとり、黒龍に殺到する。
結果小さな雨粒のようなナニカは黒龍の巨躯をあっさりと貫通し、地面に落ちる前に消失する。
それは力を失ったのではなく、花を傷つけることを良しとしなかった人間の自発的な判断によるものであることは明らかだった。
そして受けた黒龍の精神的ダメージは甚大である。
絶大な防御力を誇る龍鱗すら歯牙にもかけず、あっという間に己の内部を破壊した。否、これを破壊といっていいものか。
ナニカが通過した場所だけ、ぽっかりと消失してしまったかのような衝撃も何もない攻撃だった。残るのは無数の小さな穴の空いた巨体のみである。
痛みもまったくない。ただ喪失感だけがそこにあった。
果たしてこれを「攻撃」といっていいのかどうか?
しかし確実なことは唯一つ。これに本体が巻き込まれれば、何の痛みもなく生涯を終えるだろうということだけ。
《一体何なのだ、汝のその力は!?》
「あ?何で教えなきゃならないんだよ。あれか?自分を殺した技の名前を知っておきたいとかいう、そんな洒落た心理ってヤツか?」
《巫山戯るな!!》
「巫山戯てなんかいないさ。だってアンタが望んだことだろう?これは、さ。《奈落》」
瞬間、巨体が落下した。
大地に四肢を降ろしていた黒龍の巨躯がだ。
視界が反転したかと思うと、落ちた。幸いそれほどの高さではなかったため、ダメージといえるものは皆無では在ったが、混乱しきった黒龍の頭では、その未知の衝撃がただただ恐ろしい。
二度と食らうものかと、踏ん張ってみたが、
「《奈落》」
再び大地へと落とされる。
今度はかなりの高度から落とされたため、翼をはためかせることによって事なき事を得る。
そのまま空を滞空しながら人間を仰ぎ見、
「|《虚》《うつろ》」
翼を失い、自由落下した。
衝撃。
長い首を回して背中を見れば、翼がぽっかりと消失していた。
痛みはない。
最初から翼などなかったかのように、それがお前の正しい姿だと答えを押し付けるかのような暴虐ぶりに、黒龍は今度こそ恐怖した。
血の一滴でも流れれば、それを糧に奮起しただろう。痛みの切れ端でもあれば、更なる戦意も熾せただろう。
しかし、人間の攻撃は、攻撃ともいえない未知のナニカだった。
痛みも衝撃もない、しかし何かを確実に奪う。
そんなナニカは体ではなく心に傷を刻み付ける。
そしてそれは身体的ダメージをものともしない黒龍にとって、一番の致命傷だった。
《コンナコトデェ!!》
黒龍は大地を駆けた。翼が存在しない今、彼は走るしかない。
恐怖という激情に駆られ、それでも敵を屠らんとするその様相は、賞賛に値するだろう。
対する人間はノーガード。しかしながら恐怖は微塵も感じさせない。
黒龍は龍爪を開放する。破滅の力を乗せた文句なしの致死の一撃である。例え避けたとしても、滅びの風が追い討ちを掛ける文字通り必殺の一撃だった。
「《拒絶》」
人間は唯一言。
それだけで十分だった。
龍爪は人間の直前で何かに阻まれ、それ以上は一ミリたりとも進まない。向こうが力押しであればこちらもまだ勝算が見えた。
しかし相手の力の起源はいまだに未知。
魔術の線も考えたが、それにしては違いすぎる。そもそもあんな発動の仕方はありえないし、そもそも魔術特有の起こりがない。
何の予兆も見せずにノータイムで発動する魔術など存在するはずがない。
では、先ほどからこの人間が振るっている力は一体何なのか。どんなに力を込めようと、微動だにしないこの見えない壁は何なのか。
万を越える年月を生きる黒龍は、あるひとつの結論に達した。
そして、至ってはいけなかった結論に、発狂するように、最後の抵抗とばかりに口を大きく開く。
彼の拠りどころはやはりブレスだった。
灼熱のプラズマ波が亜光速で人間に殺到し、
「《歪曲》」
突如捻じ曲がるように軌道が逸らされる。
ブレスは何もない上空へと進んで行き、誰も感知はできなかったが、成層圏を越え小惑星を破砕した。
黒龍のブレスにはそれほどの威力が込められている。
当たれば死は免れない。そんな一撃なのだ。
しかし人間には当たらない。当たる想像すらできない。
両手をポケットに突っ込み、まるでやる気のなさそうな態度。そして事実この人間はやる気がない。口ではああ言ったものの、最初から戦いなど望んでいない。
怖いとか、無理とかそんな殊勝な理由ではなく、ただただ「面倒くさい」と言わんばかりにこの人間は戦いというものを飽いている。
最初からそうだったのだ。
何故この人間は自分に恐怖を抱かなかったのか。
何故この人間は自分に興味を感じなかったのか。
何故この人間は自分に最後まで殺意を持たなかったのか。
その理由は単純明快であった。
それは最初に自分が思っていたことではないか。
それは今まで自分が思っていたことではないか。
つまるところ、この人間は、
(最初から我に自分を殺しえる力量がないことを見抜いていたのか)
黒龍が脆弱な存在に興味がわかないように、人間もまた己を殺せぬような存在に本気になるほど大人気なくはなかっただけの話である。
それが黒龍に対しての評価なのだから、初見で見抜けるはずもない。
それを理解した途端、黒龍の戦意は霧散した。
そして自分の見る目のなさに苦笑し、嘗てないほどの強敵――相手はそんな感慨すら持っていないだろうが――に会えたことに感謝した。
《人間よ、我の負けだ。後は好きにするといい》
こんなにも捨て台詞がすんなり出てくるとは思わなかった。
死を覚悟するというのはこんなにも穏やかな気持ちになれるのかと、黒龍自身が心の平静さに驚くほどだった。戦いしか知らなかった自分にこんな気持ちがあるとは思いもよらなかった。
巨躯を支えていた四肢に力を抜き、大地に伏せる。唯それだけで地震の如き揺れがあたりを襲うが、この人間には然したる意味もないだろう。
敗者は黙ってこの世を去るべきだ。言い訳など蛇足極まりない。
そして勝者は勝ち口上を述べる。
あっさりと、緊張感もなく。
「あ、そう?じゃあ遠慮なく幻スミレを貰っていくね」
結局この人間は最後まで黒龍の命には興味がなかったのである。
お読みいただきありがとうございます。