第10話
「はぁ~~~~~~……」
至福。この世のどこにこれ以上の至福があるだろうか。いや、ない。
そう断言できてしまうほど、椎菜はだらけきっていた。
風呂である。
湯船につかりながら椎菜はなんとも情けない吐息を吐く。
この世界の人々にとって入浴とは嗜好品であって必須ではない。基本は井戸で水を汲み、濡れた手拭で体を拭く程度だ。そもそも浄化魔法が当たり前のようにあるこの世界では、あまり意味のない行為だったりする。
しかし日本生まれの日本育ちである日本人の椎菜にとって入浴は、なくてはならない必須行為である。
だからこの浄化魔法だけで凌いだ五日間は、非常にストレスだった。特にすぐ隣に異性がいるのである。乙女として気にならないはずがない。
当の桔梗は気を遣ってか、まったく気にするような素振りを見せなかったのだが、それでも気になるものは気になるのだ。
というか、部屋に入って真っ先に風呂場の作成を提言したのは彼なのだから、気付いていないはずがない。しかし椎菜は「桔梗も入りたかったのだ」と勝手に誤解してしまった。桔梗自身も入れるのであれば入りたいが、普通に入れなくても気にならない性格だったりする。これは育った環境の差によるものだろう。
ちなみに風呂場はミクリアには内緒で作った。
部屋の構造が三LDKだったため、窓際の部屋の家具をリビングまで移動させ、窓以外のすべての面を薄い石壁で覆う。ここら辺はもっとそれに適した素材があるのだが、桔梗自身は知っていても、椎菜にその知識を理解できないため、作り出すのは困難である。これは魔法ではなく化学の領域である。よって桔梗の中だけで却下した。
ドアと浴場の間に段差をつくり更にその間にも壁を作り一枚隔て、リビング内に水が逆流しない構造にする。ドアと壁に阻まれた空間は脱衣所にした。
あとは窓近くに大きめの浴槽を作り、各スペースに排水溝を設置し、外の壁を伝うように配水管を薄い石で設け、地中深くまでパイプを逃す。桔梗が街をひとっ走りして別の大衆浴場の配水管を見つけ出し、そこに連結して完成だ。
ついでに石鹸やシャンプー、トリートメントっぽいものを買い揃えてきたが、日本と比べて質は高くないようだ。「材料さえあれば作れる」と無駄な博識さを疲労した桔梗の言葉を信用し、それまでは我慢しようと思った。
というか、風呂場作りにしても妙に手際がよかった。
浴槽に貯める水自体は椎菜の魔法を頼みにしてはいたが、道具屋で「温度を保つ魔道具」なるものを購入していた。
これにより、掛け流し温泉とまでは行かないが、追い炊きが必要ないほどに二十四時間あったかい風呂に入れるという夢の環境を手に入れたのである。
そして予めミクリアには「大事なものを保管しているので、あの部屋には立ち入らないで欲しい、と釘を刺すほどの用意周到さである。
まあそれはさておき。
「気持ちいぃ……」
椎菜はただただ堪能していた。
もちろん大部屋の入り口に鍵はあっても、各小部屋に鍵なんてない。
しかし|《施錠》《ロック》の魔法でしっかりと入り口を固めているので問題ない。
それに桔梗が覗きをするなどとは微塵も思ってはいなかったし、そもそも小学生の入浴を覗こうとする人がいるなどとは考えてもいなかった。その考え自体はこの世の中では危険なのだが、そもそも桔梗の警戒網を突破して風呂場に侵入できる輩がいるとは思えない。転移系魔法の使い手がいれば話は別だが、その魔法は「超古代遺産クラス」とシリスが言うほどに高度な魔法らしいし、そんな魔法をこんなくだらないことに遣おうなどと思う輩こそ皆無だろう。
故に。
「ほえぇぇ~~~~~」
椎菜は情けない声を出しながら、優に一時間を湯船の中で過ごした。
「とりあえずは飯だな」
椎菜とは撃って変わって行水レベルで入浴を済ませた桔梗がリビングに戻ってきてそんなことを言った。
聞いた瞬間、椎菜のお腹が空腹を自覚し、以前のように音が鳴りそうになるのを必死に堪える。無駄だったが。
「考えてみればギルドですったもんだがあって、昼飯を食うのを忘れていたな。もらったりんごもどきだけでは流石に足りない」
「ですよねっ?」
桔梗の優しさに顔を真っ赤にして必死に追従すると、彼女は立ち上がって入り口を目指す。
ちなみに主婦にもらったりんごっぽいのは、まるきりりんごの味がした。この際もうりんごでいい。
四階建ての最上階から一階に舞い戻ると、食堂は来たときよりも更に混雑している。
忙しそうに厨房と客席を縦横無尽に練り歩くミクリアと、彼女によく似た顔立ちの女性は、きっと母親なのだろう。ミクリアの給仕も素晴らしかったが、母親は年季が違うだけあってそのさらに上を行く動きのキレだ。無駄とソツがない。
「あ、キキョウくん、シーナちゃん!こっちこっち!」
あまりの人混みに圧倒されている椎菜を目ざとく見つけ、ミクリアが手を振って手招きをする。
彼女の方を見るとなるほど、二人分の空席が辛うじてあった。
「ありがとうございます」
言われるがままに席に座ると、すかさずメニューが差し出される。
見れば異世界語ではあるが、材料がわかりやすく翻訳されている。
暴れ牛のステーキ。野うさぎのソテー。川魚のグラタン。etc……
うさぎという単語を見て思わず友達のペットうさぎを思い出してしまい、顔を青ざめる。ミクリアはそんな彼女を見て「嫌いな食べ物でもあったのかな?」と勘違いした。
「おすすめは?」
「全部!と言いたいところだけど、一番人気はたっぷり野菜のシチューね。街の外に広がる畑から毎日新鮮な野菜が収穫されるから、アリウでは野菜料理が美味しいんだよ」
「じゃあそれをメインにサラダと肉料理を一品ずつ。主食は……米ってある?」
「もちろん」
「じゃあ米で。お嬢は何かリクエストある?」
「で、できればうさぎ料理はなしで」
「じゃあそれで。調理法はミクにまかせるよ」
「毎度!ちゃちゃっと作ってくるからポットのお茶でも飲んで待っててね!」
笑顔で注文を繰り返すと、ミクリアは帰りしなに別の客の注文もうけつけ厨房内に消える。
どうやらミクリアは看板娘らしく、男たちに人気があった。とはいえ相手は年下の女の子である。恋愛ではなくご近所のアイドル程度の認識なのだろう。
酔っ払った冒険者がお酌を希望し、母親に引っ叩かれて周りの笑いの種になっている。椎菜にはわからないが、大衆食堂のよくある光景だった。
彼らの服装や身体的特徴に目を瞑れば、ここが異世界であることを忘れてしまうそうである。
「お嬢」
「はい?」
「まだダメそうだな」
「??」
椎菜は桔梗の言う意味がわからなかった。
真意を読み取れず、思わず眉を顰める。
彼はメニューを脇から取り出し、あるメニューを指差した。
示された料理の名はいわずもがな「野うさぎのソテー」。そして次に指したのは、
「うっ……」
サウンドワームと根菜の煮込み、森トカゲの串焼き、バブルフロッグの野菜炒めと続く。
うさぎに衝撃を受けたが、それ以上のキワモノが普通に並んでいることに今更ながら気づき、血の気が引いた。
「やっぱりお嬢は日本の常識に強く囚われているな。悪いとは言わんが、そのままでいると損するぞ」
「それは……もちろんわかっていますが」
でもどうしてもダメなのだ。
これはきっと理屈ではなく気持ちの問題だ。
一度は常識を捨てる決意をしたものの、そこはやはり人間であり小学生。そんなに簡単に捨てられるものではない。
自分というものは経験と常識で構築されている。それ故に常識を捨て去るという行為は、今までの自分を否定する行為に近い。それはとてつもない恐怖である。
「もちろん、今のままだっていい。お嬢がダメな部分は俺が担当すればいいだけだしな」
「!!」
それはもっとダメだ。
しれっと桔梗は簡単に言ってくれるから、頼り切ってしまいたくなるが、それは前者以上にいけないことだ。それを許せば自分が自分を許せなくなってしまう。
自分が嫌だと思うことを、すべて他人にやってもらうということは、外道の所業である。
「大丈夫です!少しずつかもしれませんが、私も受け入れますから……」
尻すぼみになっていく自分の決意にほとほと嫌気がさしながらも、それでも最後まで言い切ることが出来た。
いつの間にか俯いてしまっていた顔を思い切って上げてみれば、目の前には優しい眼差しの桔梗の笑顔がそこにはあった。
正直に告白するのであれば、椎菜はその笑顔に見蕩れた。
恋だの愛だのを知るにはまだ早いと思っていた少女が、ワケもわからないまま見蕩れてしまった。その甘酸っぱい感情を感じた途端、椎菜は別の意味で彼の顔を見れなくなった。
「!?!?!?」
しかしその感情を正しく彼女は理解できない。何故こうも顔が赤くなるのか。
恐らくこれは恥ずかしかったんだと、今ある自分の知識で強引に間違った方向へ導いてしまう。しかしそう思い込むことで感情の制御は辛うじて出来た。
感情の制御は魔力の制御と密接に繋がっており、感情の高ぶりや消沈によって、魔力制御もボロボロになる。それ故に感情の制御――平常心を保つことはこれまた魔法師としてはいの一番どころか前提条件のような至極当たり前に出来なければいけない技術であったりする。
とはいえ、これは椎菜だけではなく一流の魔法師ですら完璧には行かない代物だ。何故なら魔法師が魔法師足らんとするのは、己の好奇心を満たす我欲である。一流であればあるほどその我欲は大きくなるため、それを打ち消そうというのは本末転倒である。そもそも冷静になれるのであれば、彼らはそこまで追い求めたりしない。
「あらら、シーナちゃんどうしちゃったの?」
「メニューに彼女の嫌いなものが多く載っていたから、それをからかったら拗ねられた」
「そりゃキキョウくんが悪いよ。謝らなきゃ」
「すまんお嬢。悪ふざけが過ぎた」
「ち、ちが!」
謝る桔梗に彼女は咄嗟に否定の言葉を出そうとするが、言葉が出ない。
「じゃあ、何なのか?」と問われたときに、はっきりとした答えが出せないことに気付いたからだ。
うー……と呻くことしかできない椎菜に、やっぱり勘違いをしてしまったミクリアが桔梗を責める。
「キキョウくんはお兄さんなんだから、もっとシーナちゃんを気遣わなくちゃダメだよ!今度こんなとこ見かけたら、本気で怒るから!!」
「マジで悪かったと思ってるよ。正直言いすぎた。今後は言わない……ように善処する」
「もうっ、煮え切らない宣言だね。でも、何も考えずに『二度と言わない!』と言うよりは誠実かな?シーナちゃんもキキョウくんを許してあげてね?」
「…………」
そうは言っても許すも許さないもないのだ。そもそも椎菜は何も怒っていないのだから。ただただどういうわけか、桔梗の顔を真っ直ぐに見れないだけである。
だから気合を入れてまずミクリアのほうを見る。心配そうな顔だった。申し訳なさに押し潰されそう。
「…………」
そしてゆっくりと桔梗のほうに視線をずらしていく。
最初は顔の端っこだけ視界に捉え、ゆっくりと時間を掛けてスライドしていく。
ゆっくりゆっくりと。そうやって視界に彼の全貌を捉えたときには、感情の高ぶりはどうにか収まっていた。
それは桔梗がさきほどとは打って変わって申し訳なさそうな顔をしていたからだ。
だからこそ今度は逆に胸が痛んだ。
しかし先ほどのような怒涛の感情の奔流は襲ってこなかったため、痩せ我慢をすることで耐える。自慢ではないが、こういうのは得意だった。
「もう、シーナちゃんって可愛いんだから!お姉さん抱きしめて慰めちゃいたいくらいだよ!」
「あはは……それは遠慮したいです」
「ガーン!振られちゃったよ、キキョウくん、慰めて!」
「いや、自業自得だろ」
「こっちも冷たい!?これが四面楚歌ってヤツかい!?」
コミカルに感情をころころ入れ替えるミクリアに、椎菜は思わず笑ってしまった。その後にとても彼女に対して失礼だということに気付く。
しかし、
「やっと笑ったね。どんな理由があろうと、やっぱり子供は笑顔が一番だね!」
そう言ってお手本のようなスマイルを見せるミクリア。営業スマイルではなく、心の底からの笑顔がそこにはあった。
だから椎菜も自然と笑顔で答えた。「子供」というのは何となく傷つくおませな年頃ではあったが、事実なのだから仕方ない。
「すみません、心配掛けちゃって。紅坂さんもごめんなさい。別に拗ねたわけじゃ――」
「いいんだよ。俺も少々意地が悪かった。申し訳ない」
お互いもう一度謝ると、椎菜の心はすっきりとした。
これで桔梗の顔もはっきりと見れるようになった。
さっきの感情はなんだったのか、興味はあったが、今後の活動に支障が出ることはありありと理解できたので、その感情に今は蓋をする。
ミクリアがすべてを理解していたら「もったいない!」と嘆いたことだろう。それほどに世の女性にとって恋愛話はいつだって好まれているのだ。
ちなみに、出てきた料理にゲテモノは一切なく、すべておいしくいただけたのは、桔梗とミクリアの気遣いの結果なのかもしれない。
「さて、明日からの活動方針なんだが」
食事の後、追加でオーダーしたデザートと飲み物で舌を大いに喜ばせた後、部屋に戻てしばらくしてから桔梗は口を開く。
今現在いる場所はリビングである。
もともとの家具や調度品に加え、現浴室から引っ張ってきたものもあるので少々手狭だが、逆にソファやベッドが追加されたこともあり、くつろぐには適していた。
桔梗はソファに深く腰掛け、シーナはベッドに腰掛けている。
正直椎菜はおねむだった。
疲れた体でと心でお風呂に入り、ご飯をめいっぱい食べた後なのだ。それも無理からぬことだ。
しかも腰掛けているのはベッドである。いつ寝ても問題ないくらいに脳からの信号は途切れがちになっている。
注意していてもうつらうつらと揺れる椎菜の体に、桔梗は思わず苦笑するが、これもまた仕方のないことだろう。微笑ましいのだ。
いくら魔術師とはいえ、彼女は幼い。そんな彼女が突然異世界の飛ばされ、敵対していた男と一時的にでも協力をしてでも生き延びて帰る方法を探さなくてはならなくなったのだ。
椎菜を見ていれば、温かい家庭の元で健全に育ったことがわかる。魔術師としての修行を経ても、それは失われなかった。それは非常に尊く眩しいものだ。
そんな少女にとって今置かれている状況は百パーセントすべてがストレスでしかない。
特に命のやり取りを目の当たりにしてからというもの、精神は不安定だ。
その元凶の一片である自分が言えることではないのだが、流石に心配はしてしまう。理解はされないが、やはり面倒見は良いのだ。
だから多分今言っても無駄なんだろうなと思いながらも、それでも一応口にだけはした。
「まずは資金集めをしようと思う。俺が手っ取り早く稼いで来るから、お嬢はこの街を出歩きながら観光を楽しんでくれ」
「ふぁ、ふぁい……」
やはり眠気が限界のようだった。
いつもの彼女であれば「私も手伝います!」というくらいの内容なのに、舟を漕いでるのか頷いているのか判断が付かないタイミングで頭を何度も上げ下げする。
卑怯なようだが「これで言質が取れた」と内心ホッとして、唯それだけで話を切り上げる。
時刻は二十一時半。
椎菜にとっては遅い時間であっても、彼にとってはまだまだどころか、寧ろこれから本領を発揮するような時刻である。
完全に意識が落ちたのを見届けてから、彼はリビングの窓から音もなく夜の街に飛び出すのだった。
お読みいただきありがとうございます。