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桃海月の夢  作者: るかひ
6/6

『     』

 何もない部屋。

 床を埋め尽くし山を築いていた資材や作品群どころか、箪笥も、ベッドも、何もかも忽然と姿を消していた。ここが彼の部屋であると美籠(みこ)は断言できなかっただろう、美籠をぐるりと囲む海原がなければ。

 家具は撤去され隣室に移された。

 遺品は全て埋められたという。

 あの月の丘に。

 冷たい石の下で、彼は、眠っている。

 その絵は扉正面の窓の下にひっそりと立て掛けられていた。使い古されたイーゼルの前に美籠は腰を抜かしてへたり込んだ。

 軽い気持ちで見舞いなんかに来た数刻前の自分が滑稽でたまらなくて。

 とても立っていられなかった。

 嘘をついていたのは美籠だけじゃなかったのだ。彼も、医院長先生も、美籠に隠していたことがあった。

 彼は二十歳まで生きられないとされていた。

 俺は死なない。

 待ってる。

 嘘だった。全部。彼は知っていた。自分の命がそう長くないこと。それでも、美籠を安心させるために、嘘をついた。死ぬほど辛いだろう嘘を。決して美籠のためにはならない嘘を。それは美籠が彼についた嘘と同じ種類のもので。吐かずにはいられなかった虚言。絵空事。

 美籠は知った。気づいてしまった。この絵を見て、理解してしまった。

 この病院は、末期患者が生の終わりを迎える場所だった。

 彼も、ほかの患者さんも。

 美籠自身も。

 水も喉を通らず、痩せ衰えていた自分。死ぬかもしれないと思いながら、それは真に迫ってはいなかった。美籠はまるで意識していなかった。自分がほとんど死んでいたこと。もう周りが美籠の回復を諦めていたこと。

 この医院で患者の死亡数が常軌を逸していた理由。

 死を定められた者達の園だったのだ。

 最期の自由を謳うための。

 絵の中の少女の表情は窺えない。両手を水平に広げ、海の上に敷かれた狭い道をまっすぐに歩いている。振り返ることなく。微塵も躊躇うことなく。海底では闇を閉じ込めた何本もの腕が、少女が足を踏み外すのを今か今かと手ぐすね引いて待ち構えている。

 勇敢な少女の歩く先。

 遥か彼方に立っているのは、あれは、一体、誰だろう。

 美籠は声に出さず訊ねた。あなたは誰ですか。答えはなかった。返事はなかった。

 きっと知らない人だ。

「・・・・・・駄目じゃないですか」

 彼が二十年の月日を過ごしたこの部屋は、片付けられた後も誰も入居していない。にも関わらず、夜になると奇怪な物音や声がすると、患者さんの間でもっぱらの噂だという。

「ほかの患者さんをからかったりしたら。あなたはふざけてるつもりでも、皆さん本気で恐がってますよ。更地(さらち)さんも㝵(とくの)さんも、医院長先生だって、心配してるんですよ」

 みんな、あなたのこと忘れずにいますよ。

 ずっとずっと。

「――嘘つき」

 美籠は顔を両手で覆った。

「死なないって、言ったじゃない・・・・・・!」

 流れる涙は今までと違う味がした。とても苦くて吐きそうだった。舌がぴりぴりする。痺れて、嗚咽も満足に出てこない。馬鹿。馬鹿馬鹿馬鹿。こんなに。こんなに早くお別れが来るなら。

 最後まであなたと一緒にいたかった。

 あなたらしいなんて、笑えないよ。

 もう。

 二度と、逢えないんだから。

 こつんと、頭に何かが落ちた。それは蹲った美籠の膝元に転がった。

 濡れた視界に光る桃色の輝き。

 美籠は震える手でそれを手の平に乗せる。

 指輪だ。

 蔦が絡むような複雑なフォルムのリングに、咲いた石。花弁の形に彫られた石。

 美籠ははっとした。

 同じだ。

 絵の中の少女が左の小指に嵌めた指輪と、同じ。

 そして、先に佇む人影の手元にも、桃色の光が。

 美籠は天井を見上げた。そこには小ぶりのシャンデリアが作る陰影があるのみだった。

「・・・・・・そうですよね」

 美籠は涙を拭った。込み上げてくる感情を飲み下した。

 指輪を胸に押し当て、そっと目を瞑る。

「頑張らなきゃですよね」

 ありがとうって、言えなかったけど。

 好きって、言えなかったけど。

 きっと全部、伝わってた。

 嘘じゃないんだ。

 嘘じゃなかったんだ。

 待ってる。

 それだけは。

「待ってて、くださいね」

 いつかまた逢えたら、その時は。


 一緒に、海が見られるように。


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