『双珠』
5.『双珠』
両手持ちした五歳児を振り回していた先輩が、子供諸共、壁に激突した。
「ぎゃあーっ」美籠は喉に引っかかる悲鳴をあげて飛び上がる。
五歳児の泣き声が室内の注目を一気に集めた。額からだらだら血を流す先輩と、たんこぶを作って泣きじゃくる男の子。美籠はあわあわしながら、涙の止まらない男の子を不思議な生き物でも見るみたいな目で見ている先輩に駆け寄った。
「ほら先輩、貸してください」
「お、おお」
先輩は素直に美籠に男の子を預ける。
「痛かったね、ごめんね」美籠はしきりに慰めながら頭のたんこぶを摩った。大丈夫かな。冷やしたほうがいいかもしれない。遅れてやってきた看護士さんに預けて美籠はほっと胸を撫で下ろす。
「すまん。調子にのった」そういう先輩の顔は血だらけで。
「ひいいっ」
みけこさん改めみけおさんを抱いて以来、先輩は少し力加減がうまくなった。必要以上に怯えなくなったのだと思う。悪いことが起こるかもしれないと心配しすぎると、大抵、その通りになってしまうものだ。羽目の外しっぷりは変わらないので、小さい子なんかと遊んでいる時ははらはらの美籠である。目が離せないのだった。先輩自身も怪我するし。
ナースセンターへ連れて行こうと、抵抗する直毘先輩を引っ張って廊下に出たところ、美籠は正面から誰かとぶつかった。「わ」鼻が潰れた。
「あっれー。君あれでしょー、ちょっと待ってねー、今、記憶辿ってる・・・・・・」
哉代さん。特徴的な軽い喋り方。短パンから無造作に伸びる足につい目がいってしまう。もう三月に入ったとはいえ、まだ足元は冷えるのに。ちなみに美籠はもっさいジャージである。
「おおお、みこちー、みこちーでしょ」
哉代さんは大袈裟に喜んで両手を広げ、がばりと美籠を抱きすくめた。
「ああああの」
「ひーさしぶりーでもないかー? んー初めて会ったのいつだっけねー、まだ寒かった気がするなー、ま、何はともあれまた会えて嬉しいよ、うちの天使ちゃんも喜んでるさー」哉代さんは更に美籠に頬ずりし、「うーん、君、抱き心地よくないねー。もちょっと肉ついてたほうがいーんじゃないの。なんかねー、萎える」
酷い。
今までにない激しいスキンシップに完全にびびった美籠が先輩に助けを求めて視線を送ると、そこにとんでもないものを見た。
直毘先輩が野球ボールを全力で振りかぶっていて。
そのまま哉代さんの左側頭部を強打した。
・・・・・・投げるんじゃ、ないんだ。
「何をしている貴様。引き籠もっているんじゃなかったのか」
先輩は知己に対するようにそんなことを言った。哉代さんは床に伏していたけれど、先輩の声を聞くと痛みも吹き飛んだのかがばりと身を起こし、
「なお、なおじゃん! 良かったー、まだ生きてる知り合いいたよー!」
ころころ変わる表情とか、忙しない動きとか、これで背が高くなければ子犬のようだと言えるのに。その身長は直毘先輩を優に超え、最早、美籠からしてみれば絶壁である。見上げると首が痛い。
哉代さんは床に座り込んだまま先輩の足にしがみついた。「なおー、会いたかったまぢでー」
「ええい、触るな!」先輩はすげなく蹴り飛ばす。「何しにきたんだお前。というかなぜこいつを知ってる」
先輩は美籠を指差した。美籠は曖昧な笑みを返す。
「友達んなったんだもんなー、みこちーなー?」
純朴な顔をされると弁解もできなくなる。美籠は正直に話した。直毘先輩の誕生日会の飾りつけをしている最中に知り合ったこと。
先輩は不機嫌そうに鼻を鳴らし、「それで、何しに来たのかと訊いてるんだが」
「そーなのよ!」哉代さんは立ち上がり美籠の両手首をがっしと掴んだ。「俺さ、大変なことに気づいちゃったわけ!」
「離れろ馬鹿!」哉代さんの後頭部に手刀を叩き入れる先輩。ほとんど効果はなかった。
哉代さんは続けた。「どーしても描いてほしーんよ、俺の天使!」
「え・・・・・・?」
「何だ、何の話だ」先輩が訝る。
「俺さ、もうすぐ死ぬのよ!」
美籠の抵抗はその一言に封じられた。
死ぬ。
そんな人にお願いされたら。そんなふうに。
「叶えてよ、俺の夢!」
そんなふうに、夢を語られたら。
「俺が死んだらさ、この子らどーなっちゃうと思う? やっぱさ、消えちゃうと思うのね、だって俺以外に見えねーし。でもそんなのやじゃん! こいつらが生きた証、残してやりてーんよ。なあ、頼むよみこちー、描いてくんねーかな」
「だ、だから、わた、しは、も、う・・・・・・」
「そこを何とかさぁ! 俺、あんたに描いてほしーんよ、何だかわかんないけどさー!」
無茶苦茶だ。そんなの。何だかわからない理由で美籠に絵を描けと言うのか。もう捨てた夢を誰かの夢のために拾い上げろと。でもそんな、どこに置いてきたかわからない。見つからない。美籠だって。
叶うなら、もう一度。
夢を見たい。
「せ、先輩」美籠は直毘先輩に向き直った。先輩は感情の抜け落ちた顔で美籠を凝視していた。少し恐かった。「先輩に、描いてもらったら、どうですか。先輩は、絵も、すごくうまいから、何でもできちゃうから、だから――」
「お断りだ」
聞き間違いだと思った。
先輩が拒むはずがないと美籠は無意識に思っていた。先輩は人の悩みを放っておけるような人じゃないと、いや、美籠の頼みを。
美籠の願いを拒否するはずがないと。
甘えていた。
美籠は。
空耳なんかじゃない。先輩の表情はそう語っている。
「ほらー、なおはやだってさー。だからさーみこちーあんた描いてよー」
先輩は苛立たしげに哉代さんの背中を殴りつける。「みこちーなどと気安く呼ぶな」
「何で」哉代さんはなぜ先輩が怒っているのか理解できないという様子で、「別になおの彼女じゃないんでしょ」
「当たり前だ」
どう当たり前なのか詳しく聞かせてくれないだろうか。
ちょっとむっとして美籠は眉根を寄せ、「先輩」強い調子で呼んだ。
しかし先輩は。
「やるならお前一人でやれ」
そう言って、美籠から離れていく。
あちゃー、と哉代さんが頬を掻き、「なーんかやばい琴線触れちゃった? ごめんなー何しろ二年ぶりで距離感曖昧だからさー」
「先輩!」
美籠はその背に縋りついた。パーカーに爪を立て、引っ張った。「先輩、お願い、こっち向いてください」
「嫌だと言ったら」
「私には、もう、描けないんです」
「知ったことか」
「お願い、先輩、お願いだから、一緒に」
一緒にいて。
先輩とだったら描ける気がする。
先輩は見つけてくれるから。いつだって探して、笑ってくれるから。気遣いなんて欠片もないけど、それでも精一杯の優しさをくれるから。
先輩。
「一緒に、描いてくれませんか」
美籠は泣いてしまった。自分でもずるいと思った。涙なんて流して、弱いふりをして、気を引こうとしている。こうすれば先輩は絶対に折れるって、わかってる。だって先輩は誰よりも創れなくなる恐ろしさを知っている。その恐怖を。表現できない息苦しさを。苦痛を。
先輩は浅いのに長い溜め息をついた。どこまでも落ちていくようだった。
そうして吸った。「礼は三倍返しだぞ。いいな」
それから。
「あまり自分を責めるな。見ててむかつく」
美籠の頭を鷲掴みにし、とても荒っぽく撫でて。
「お前の夢なんだろう。それは。大切な。だったら、胸を張れ。それが己の夢のためなら堂々としていればいいんだ。媚を売ろうが泣き落とそうが、確かにそれは世間的には正しいと言われる行いではないかもしれないが、お前の夢にとって必要なことなのだと自分で思ったのなら、後ろめたく感じる必要はない。お前はもっとずるくなれ。狡猾さも生き抜くうえでは重要な要素だ。別にお前は聖人君子と褒められたいわけじゃないんだろうが」
ごめんなさいと、謝ることもできないくらい、先輩の言は正しかった。少なくとも今の美籠には必要な言葉だった。
それは同時に、美籠の中に居ついていた罪悪感も薄くした。
先輩についた嘘。それは決して先輩のためじゃなかった。美籠のためでもなかった。じゃあなぜ美籠はそんなことをしたのか。未だにその答えは導けない。けれどいつか。
この人と一緒に、もっとたくさんの経験をして。
そうして、かけがえのない何かに辿りつけたらいいと思った。
「あーあー俺まぢ俺蚊帳の外」哉代さんが美籠と先輩の間にひょっこり顔を出して、「つかさー、なおのそれってただの嫉妬でしょーもーねーいいね若いってねーまあ俺もまだ二十三だけど。君達ちゅーしなさいちゅー。話はそこから始まるのだよ」
「始まるか!」
美籠と先輩は声を揃えて叫んだ。
二人の息が初めてぴったりと重なった瞬間だった。
* * *
線が震えた。直線を引けるようになるまで何時間もかかった。それでも投げ出してしまいそうになるたびに、鉛筆を握る美籠の右手を先輩の左手が強く包んだ。泣き喚き、当たり散らしても、先輩は美籠を見捨てなかった。むしろ喜んでくれた。大丈夫、少しずつ進歩してる、ゆっくりでいい、丁寧に、一筆ずつで。辛抱強い言葉をたくさんくれた。
それでも心の傷はそんな簡単に癒せるものじゃなくて。
思うように描けない。筆を置いて半年。そのブランクはそう容易く埋められるものじゃない。手は震えるし想像した通りに筆は運べなくて。打ちひしがれる美籠に見かねた先輩は、俺が代わろうかと、そんな甘い言葉もかけてくれたけれど、美籠は頑として首を縦に振らなかった。これだけは自分が成さなければならない。譲っちゃいけない。これは儀式なのだ。美籠が夢を取り戻すための。
いいや。
最初から、捨ててなんてなかったのかもしれない。
捨てることなんてできていなかったのかもしれない。
どんな時も傍にあったのだ。その夢は。美籠を支えてくれていた。だって美籠はここまで生きてこれた。ここに、この場所に、やってきた。美籠をこの桃色の花が咲く秘密の園へ導いてくれたのは、他でもない、美籠がずっと大切に育ててきた夢だったのだ。
絵を描く。
それだけの行為が、とても辛くて苦しくて耐え難くて、でも。
楽しい。
嬉しい。
涙が出る。
そして隣には、彼がいてくれる。
「目を瞑れ」
美籠は呼吸を一拍止め、鼓膜を浸透するその声の通りに瞼を下ろす。
「想像しろ。お前が描き出したい物。事。余計なことは考えるな。その一点にだけ集中しろ」
そうして見せてくれ。俺に。
「お前の世界を」
指の震えが止まった。
「こ、こここれ」
哉代さんが歓喜に打ち震えた様子で額を掲げている。そこに写るは二人の天使。体を丸め、寄り添い合っているようでそこには絶対に超えられない壁があるような、親密ながらどこかよそよそしい、そんな双子。
一つの命を別け合って、けれど決して一つにはなれない、摩訶不思議の存在。
「す、すげえ、そのまんまだ、そっくりだ、すげえ、すげえよ、まじすげーっ!」哉代さんは額を愛しげに抱きすくめ、それから美籠に全身で礼を言った。「ほんと、ほんとに、嬉しい、俺こんなに嬉しいの初めて、何か夢が叶った気分!」
俺の夢を叶えてよ。哉代さん自身、美籠にそう言って、美籠もそのつもりだったのだが、哉代さん的には言葉の綾だったのか、そもそも言った記憶すらもうないのか。どちらにせよ、喜んでくれたのならそれでいい。たぶん、哉代さんの喜び以上のものを、美籠は手に入れたから。
「もうさいこー! ぜっちょー! これでこいつらのこと忘れずにすむよ、死んでもさあ! 医院のどっかに飾ってもらうんだ」哉代さんは直毘先輩の首に腕をかけ顔を突き合わせる。「なおもすげーと思わねー? この絵! みこちーは天才だよ、なあ!」
馬鹿たれ。
奴は努力家だ。
そういう先輩の顔はどこか思いつめていて、浮かなかった。美籠が絵を描き上げてからずっとこの調子なのだ。誰よりも先輩に褒めてもらうことを期待していた美籠も、自然、物憂い表情になる。
哉代さんはあまりの喜びように周りを見る余裕はもうないようで、ひたすらに賛辞の言葉を述べると、先輩と美籠のぎこちない様子に気づくことなく、手を振って去った。
「ありがと、ほんとに。後生大事にする。もうあんま残ってねーけど」
そんじゃまたね。
そんな言葉を遺して。
それ以来、彼の姿は見ていない。
* * *
騒動が一区切りついて。
少し重い空気で終えたその日の夕食は、いつも通りとはいかなかった。
大きくかけ離れていた。
美籠は半分弱、残った膳を下げに立った。美籠の部屋まで盆を運んでくれるのは更地さんだが、後片付けは美籠が自分でしなければならない。動けないわけではないのだから、そのくらいしなくては。あっという間に平らげてしまう先輩が、ぼそぼそと食す美籠が食べ終わるのを待って、それから二人で食堂へ向かう。今日もそうしようとした。できなかった。
先輩が美籠の膳を押さえた。
美籠の立ち上がりかけた足は再び折れて。
見上げた先輩の顔は、前髪のせいで表情が読めなかった。唇だけが無慈悲に告げる。
「残すな」
初めてだった。
ここに入院してきて初めて言われた言葉だ。先輩だけは、食べろといつも言ってくれたけれど、残すななんて強制的な言葉は初めてだった。以前の病院では何度も聞いた。食べなさい。食べないと栄養液を飲まなきゃいけなくなるよ。鼻から管を通すよ。脅すように言われてきた。美籠は全て無視した。口を通さずに栄養が摂れるならそれでいい。点滴でもチューブでも何でも使うがいい。
頑なに閉ざされていた唇を開いたのは自由だった。
それを教えてくれたのは、先輩なのに。
「どう、して」美籠は笑った。笑うしかできなかった。「突然、そんなこと」
「いい加減、付き合うのも面倒になった。お前の病気は食べればそれで終わりだろう。いつまでもうじうじと甘えるな」
「そんなこと」美籠は噛みつくように言った。「思ってないくせに」
先輩は怯んだ。図星だったのだろう。見え見えだ。無表情で押し隠そうとしたってばればれだ。先輩はそんなに器用じゃない。言ってる本人が辛そうでどうするんですか。
「なら」先輩の声はしわがれていて。「ならこれから本音を言う」
美籠の肩が震えた。聞きたいという気持ちも、聞きたくないという気持ちもあった。耳を塞ぎかけた両手は力なく腿に落ちた。
「お前は」先輩は斜め下を見た。「俺とは、違う」そして視線を左に流した。「おまえは、外で生きていける」
俺とは違う。
俺とは。
先輩はここから離れられないんだ。
「お前には、外で生きていってほしい。いい絵だった。心の動く、絵」先輩は言う。「俺はこの絵を見たことがある。二年前、ある雑誌の特集で。俺は、この絵を見て決めたんだ。手に入らないはずの答えを探そうと。それは違う形で叶った。叶ったんだ。お前の」
お前の世界のおかげで。
「こんなところで燻っているのは、勿体ない。俺は、もっと知ってほしい。色んな人に。お前の世界を。なあ、美籠。だから――」
「嫌」美籠は先輩の膳を押さえる腕を突っ張った。「嫌、嫌!」
「聞け、美籠、俺は」
「嫌!」
そんないいものじゃない。そんないいものじゃないのだ、あの絵は。だってあれは決別の絵だった。それまでずっとあたためていた大切な夢にお別れを告げる絵だった。そこには美籠の夢が詰まっていた。ビニル袋にゴミを突っ込むように、美籠は四角い紙にそれを詰め込んで、置き去りにした。
「違う」
先輩は美籠の目をまっすぐに見つめて。
「あれは別れの絵なんかじゃない。あれは、繋ぎとめようとする絵だ。守ろうとしたんだ、お前は、大切なものを、必死に」
それ以上、言わないで。
これ以上、暴かないで。
「嫌ぁ・・・・・・っ」
もう。
美籠はわかっている。
自分は外に出ていける。病気が治ったわけではない。そもそも美籠は本当に病気だったのか。誰だってショックな出来事に遭遇して食欲不振に陥った経験ぐらいあるだろう。美籠はそれが長引いただけ。極端だっただけ。それを病気というのか。
いや。
美籠はただ、微睡んでいただけだ。
現実が恐ろしくて眠ったふりをしていただけ。
夢の終わり、と南方先生はかつてここをそんなふうに言った。その通りだった。
この医院は、夢が死ぬ場所なのだ。
夢を見て、そのまま、目覚めることはない。
そのはずなのに。
美籠は目を覚まそうとしている。
二度と開くはずのなかった瞼が。
ねえ先輩。あなたのせいなんですよ。自分が眠っていることに美籠が気づいてしまったのはあなたのせいなんです。だから無駄にはしたくないんです。先輩と過ごす時間が、ずっと美籠の心に甘い水をそそいでくれていたんです。
だけど美籠は目覚めたくありません。
だって傷ついた翼が癒えて窓の外に羽ばたいたとして。
そこにあなたはいないのだ。
桃色の揺り籠の中にしか。
だったら私はここでいい。絵なんかいらない。夢も捨てる。だから先輩。そんなこと言わないでください。見放すようなこと言わないで。そんなつもりはないのもわかっているけれど、どうしたって、そんなふうに受け取ってしまう。だって私はここにいたい。先輩の隣に。
嘘だ。
また、嘘。
本当は。
本当の、気持ちは。
「私は、だって、先輩と」
言ったらもう戻れない。引き返せない。
それももう今更か。
今更だ。
「先輩と、海が、見たい・・・・・・」
「・・・・・・美籠」痛ましげな声で先輩が呼ぶ。「美籠」
美籠は全力で腕を払った。膳が机を滑り、床に落ちて様々な音を鳴らした。
「しょうがないよ、だって」
夢を。
「夢を、見ちゃったんだもん・・・・・・!」
想像した。描きたい物は何だ。そう問われた時。
真っ先に浮かんできたのは。
すぐに頭を振って掻き消したけれどその光景を忘れることはできなかった。鮮烈に瞼の裏に焼きついて。
今も見える。
克明に夢想できる。
潮騒の香りすら漂うほど。隣に座るあなたの髪から香る油絵具の匂いは、現実なのか妄想なのか区別がつかないけれど。
ねえ。
「ねえ、だから、先輩も」
「駄目だ」先輩は美籠から距離を取った。追いかけようと思えば追いかけられたのに、美籠はそうしなかった。どうしてだろう。どうして、だろう。「俺は行けない。俺は、行けない」
「何で。そんなこと、言うの」
「お前の隣に相応しい奴は、きっとほかにいる。俺じゃない。外に出ればきっと見つかる。だから生きろ。生きてくれ。俺の・・・・・・」
俺の分まで。
そう聞こえた。聞こえてしまった。言葉にならない想い。でもそんなの。嫌だ。はっきりと思う。嫌だ。そんなの無理だ。できっこない。だって美籠は先輩じゃない。美籠は先輩がいないと何にもできない。甘えて頼ってばかりで、一人じゃ立つこともままならない。歩いてだっていけない。だからお願い。そんなこと言わないで。お願いだから。
いつの間に。
こんなに、好きになってたんだろう。
自分じゃ止めようもないくらい、好きに。好きだ。たまらない。どうしようもない。一緒にいたい。ずっと。
美籠は床を蹴った。
美籠の軽い体を先輩が抱きとめた。美籠のことを痩せっぽちだと馬鹿にするくせに、先輩も十分、細かった。
「美籠」
先輩の骨ばった指が美籠の髪を撫で、毛先まで優しく梳いていく。
「俺は死なない。死なないよ」
「約束」絵を描いて、それはもう美籠は泣いたのだ。苦しい、辛い、もう嫌だ。喚き散らした。泣きじゃくった。それなのに、まだこんなに、流れる。それ以上に。もっともっと。とめどなく。泣いてばかりだ。本当に、自分は。「してくれますか」
「ああ」
「嘘じゃ、ないですか」
「ああ」
「待ってて」喉が閉まった。美籠は噎せて、もう一度、言った。「待ってて、くれますか。会いに、来てもいいですか」
「ああ」
「ここから出て行っても」
二人の関係が崩れても。
「先輩って、呼んでもいいですか」
「そんなの」
美籠の項を辿っていた先輩の腕が、ぎゅっと美籠の頭を抱えた。下手くそな力加減だった。それが酷く愛しかった。胸がどきどきして切なくなった。
「当たり前だろうが・・・・・・」
彼女は眠っている。
泣き寝入りなんて幼子がするものだと思っていた。自分にもあったのだろうか。こんなふうに、思い通りにならない現実に癇癪を起こして、泣きながら眠りにつく日が。そうだとしても、多分、こんなに可愛らしいたまじゃなかっただろう。もっと憎たらしくて、それでも。
きっと、瞼を腫らして寝入る頭を撫でてくれる優しい腕が、自分にもあったのだろう。
その瞳は真っ青な深い海の色をしていたに違いない。
あの色が自分はとても好きだった。なのに素直になれなかった。照れくさかった。後悔はしていない。きっと、あいつは全部わかってる。自分のことは何でも。自分以上に。知ってる。知ってくれてる。
だから自分は安心して、深い眠りにつくことができるのだ。
彼女が小さくしゃくりあげた。彼は忍び笑って、彼女のひくついた鼻を軽く撫でた。彼女はこの一年で随分と髪が伸びた。体つきも少し柔らかくなった。出会った当初は骨と皮しかなくて、ぎすぎすしていて、少年尻で、色気も何もあったものではなくて。今もそう変わらないけれど、もう何年かすれば、女っぽくもなってくるんじゃないだろうか。
その姿を見られないのは、素直に残念だと思う。
けれど彼は今の彼女がいればそれでいいのだった。傷ついた彼女が飛び立つ瞬間を目にできたら。
その刹那を作品に残そうと思う。
そうしたら、きっと彼は芸術家として完成できる。
傑作を作ろう。
なあ、美籠。
その細く柔らかな、けれど少しくたびれた前髪をゆっくりと梳いて、そのまま持ち上げると、彼はその青白い額に静かに口づけた。
「ごめんな」
お前は俺の夢を叶えてくれたのに、俺はお前の夢を叶えてやれない。
* * *
退院の日。
今日は美籠の退院の日だ。長い寒さに眠りについていた命の、芽吹きを報せる風が足の間をすり抜けた。部屋の隅で埃を被っていた鞄。ここに来るときはぶかぶかだったその鞄は、今はぱんぱんに膨れてずっしりとした重量を骨に響かせている。退院祝いに様々な贈り物をいただいてしまったのだった。お菓子やら衣類やら手鏡やら持ち物の中からくれる年長者もいれば、絵を描いてくれた子供もいる。患者さんのほとんどが何かしら美籠にしてくれた。そこで初めて顔を合わせた人もいたくらいなのに。
みんな、笑顔だった。
描けるだろうか、と思った。
残したい。柔らかな陽射しのような感情を、一枚の紙に収めたいって。
描けるだろうか。
いや。
描きたい。
正門に向かって美籠は歩く。その足取りに迷いはない。医院長先生や水奈さんや㝵乃さんが玄関前で見送ってくれている。振り返りそうになる。でも駄目だ。お別れはもうすんだ。ぎゅってした。抱き合って、一緒に泣いた。
美籠は医院長室を訪れて、自分から言ったのだ。退院したいです。医院長先生は驚かなかった。驚いていたのかもしれないけれど、やっぱり顔に出なかった。思えば、医院長先生が動揺を示すのはいつも息子のことだけだった。退院の意思の理由は訊かれなかった。医院長先生は美籠の髪を撫で、ぽんぽんと叩き、頑張れ、と一言だけ贈ってくれたのだった。
たくさんの人とお別れをしたけれど。
先輩には、まだ会っていない。
今朝から姿が見えなかった。部屋を訪れても不在だった。いつもは朝から美籠の部屋に押しかけてきたのに、昨日もそうだったのに、今日に限って会いにきてくれなくて。寂しかったけど、先輩らしいとも思った。むしろ、それでこそ美籠の知る先輩だと思った。
美籠は立ち止まった。
まだ建物から五十メートルも離れていない。
息を吸って、吐いた時だ。
細長い影が足元に伸びてきた。
美籠は顔を上げた。
そこに立っていたのは。
「お、父、さん・・・・・・」
「美籠」
一年以上、離れていた父親はげっそりとやつれていた。それでも、お父さんだとわかった。だって美籠は父にずっと言いたいことがあった。そうだ。思わぬ日はなかった。両親に想いを馳せぬ日はなかった。寝る前にはいつも幸せだった頃の情景が浮かんでいた。
幻じゃない。
これは現実だ。
「お父さん」滴が幾筋も頬を流れた。止まらなかった。止めようと思わなかった。泣いてしまおう。泣いていい。泣いていいんだ、自分は。「お父さん」
美籠は駆け出した。格好悪いことに、放った鞄に足を引っ掛けてつんのめった。だけどその人は転んだ美籠を支えてくれた。抱きとめてくれた。仕立てのいいスーツが汚れるのも構わずに。美籠は思いきりその肩に頬を擦りつけた。父さんは抱擁でそれに答えてくれた。
「美籠。すまない。すまなかった」
お父さんは泣きながら譫言のように繰り返した。美籠を抱く力は弱まることはなかった。強まる一方だった。美籠は抱き返そうとしたけれど、腕にうまく力が入らなかった。ただ髪を振ることしかできなかった。そんなこと言わないで。お父さんは悪くない。誰も悪くない。すれ違ってしまっただけだ。みんなが目を背けてしまったから。お母さんは、もういなくなってしまったけど。昔のようには戻れないかもしれないけど。
でも。
夢から目覚めた二人なら、きっとやっていける。
一緒に生きていける。
今すぐに父娘の齟齬がなくなるわけではないだろう。辛いこともたくさん待っているはずだ。美籠と父は根本的に考え方が違うのだ。どれだけ互いに反省したって、そうそう円滑にはいかない。
だけどちゃんとぶつかろう。
話をしよう。
そうしないと、わかりあえるものもわかりあうことはできない。
最初から疑ってかかっていたら、信じることもできない。
美籠は父から体を離した。そして親の瞳を見つめた。黒目が小さかった。奥二重で目尻がちょっぴり垂れていた。美籠はそんなことも知らなかった。初めてだった。父の顔をこんなに間近でまっすぐ見たのは。
「お父さん」
それから美籠は、その首に抱きついて。
「大好き・・・・・・!」
好きだったから、裏切りたくなかった。
好きだったから、嫌われたくなかった。
そのためなら何だってしようと思った。自分を殺したっていいと思った。その結果、消えてしまったのは自分を産んでくれた人だった。それは美籠にとってかけがえのない人であると同時に、父にとっても大切な人だった。
穴を埋めることは、きっと一生かかったってできない。
心に落ちた暗い影は消えない。
戦っていかなきゃいけないのだ。美籠も、父も、これから。寂寞と後悔と罪悪感の責め苦に耐えていかなければならない。
「電話が来たんだ。昨日の夜、突然」父はしゃくりあげながら言う。「知らない男から。美籠が明日、退院すると。だから迎えにきてやってくれと。そして」
美籠の世界を、大事にしてやってくれと。
澄んだ湖面の蒼翡翠色の声で。
先輩。
美籠は唇でその名をなぞった。
直毘先輩。
ありがとう。
「今だお前ら!」
それは唐突だった。だが予想できたはずのことだった。先輩はやっぱり美籠が計れるような器ではなくて、その度量は数値じゃ表せないほど深淵で、どこまでも美籠の先輩だった。
破裂音がそこら中で湧き上がった。
幾つもの窓から伸びるクラッカーが一斉に散ったのだ。
桃色の花弁が美籠の目の前を過ぎった。後から後からひらひら舞い下りてくる。生温い風に乗って吹き荒れる花吹雪。それはこの医院を象徴するあの桃色の花だった。眠りを誘うように咲き乱れていたあの花だった。
まるで桜のようだ。
「花見には時期尚早だが!」
そんな威勢のいい声が飛んできて。
「綺麗だろうが!」
美籠は頭上を見上げた。美籠の自室だった部屋の窓から先輩が身を乗り出していた。そんなに頑張ったら落ちちゃいますよ。でも二階だから先輩ならきっとへっちゃらですね。落ちたってぴんぴんしてますよね。ほかにも言いたいことはいっぱいあるはずなのに浮かんでもこなかった。だから美籠は、万感の想いを込めて叫んだ。
「はい!」
お父さんが運転する車に乗り込む間際。
「美籠!」
先輩が美籠を呼んだ。美籠は振り返った。桜めいた吹雪はまだ続いて、しかも視界は涙でよれよれで、先輩の表情はよくわからなかった。
それだけが、心残りだ。
「お前のこと、嫌いじゃなかったぞ!」
それは不器用な彼にとって精一杯の愛情表現で。
美籠は頬が熱くなるのを感じ、返事もろくにせず車内に乗り込んだのだった。
それが。
最後に聞いた、先輩の声だった。