『古想綴』
4.『古想綴』
予兆はあった。今まで何度も。
気づかないふりをしていただけだ。
いや。
気づきたくなかっただけ。
先輩が倒れた。それは秋の終わり。夜になると手足が芯から冷たくなる冬の初め。いつものように美籠の部屋でだらだらと過ごしていた時だった。夕食の後のことだ。食後のデザートを貰ってくると言って、先輩は床でかいていた胡坐を崩し、立ち上がって、よろけた。電気が走ったようだった。先輩の体がびくりと跳ねて、糸が切れたようにくずおれた。最初、何が起きたのか理解できなくて、美籠はただ、ベッドの上から痙攣する彼の名前を呼ぶことしかできなかった。先輩。先輩。先輩。たぶん、美籠の声は先輩には届いていなかったと思う。先輩は震える腕を必死に動かして、パーカーのポケットに手を突っ込んだ。呼吸はとても荒くて、浅くて、どんどん速くなっていって、そのまま詰まってしまいそうで、そこでようやく美籠はベッドから落ちるように下り、床に蹲る先輩に駆け寄った。先輩はポケットから何かを取り出そうとして、失敗しているようだった。ようやく顔を見せたそれは、先輩の手からすり抜けて床に落ちた。
薬。
だった。
初めて見る。そんなの。知らなかった。先輩が薬を飲んでいることなんて。常備していることなんて。毛ほども、悟らせずに。
こんなに近くで過ごしていたのに。
知らなかった。美籠は。
先輩は落としてしまった薬を拾おうとして、でも指がうまく曲がらなくて、その呼吸は今にも止まってしまいそうで。美籠が薬に触れようとしたら、そこでようやく先輩は美籠に気づいた様子で美籠の腕を払った。触るな。そんなふうに怒鳴られた。まるで美籠が蝋燭の火に触れようとする子供みたいに。
薬をフィルムから押し出すのに悪戦苦闘する先輩。
美籠は言った。人を呼んできます。しかし立ち上がることはできなかった。先輩が美籠の手首を握ったのだ。とても強い力だった。握り潰されそうだった。先輩の手の甲には血管が浮いていて、彼自身も辛そうだった。その手の平は汗でしっとり冷たくて、割れてしまいそうなほど震えていた。先輩、と美籠は涙ながらに彼の背を摩った。掴まれた手首が痛いのか、突然の事態に混乱したのか、それとも先輩の苦しむ姿を見ていられなかったのか、とにかく美籠の頬を後から後から涙が伝った。先輩が嘔吐して、遂に失神した。美籠はようやく部屋を飛び出し、ナースセンターに駆け込んだのだった。
「遺伝病なんだ」
医院長先生は淡白な調子で言う。事実を語るだけ。それなのに聞いていて胸が締めつけられた。半分閉じられた眼差し。窓の向こうの灰色の空を見つめて。
直毘先輩の自室はとても休める環境ではないので、急遽、彼は空き部屋に運び込まれた。幸い、部屋数の多い建物だ。入院患者で半分も埋まっていないのである。先輩の容態はひとまず安定したとのこと。今は更地さんが傍についている。
美籠は医院長室の床に膝を抱えていた。医院長先生も、窓の下で手足を投げ出すようにだらしなく壁に背を預けて座っている。紫煙が開け放された窓に吸い込まれるように伸びている。温い風は部屋の中に吹きつけているのに、それは不思議な光景だった。先輩みたいだ、と思った。自然な様子なのに、何だか少し普通と違う。いや。
もしかしたら逆なのかもしれない。
先輩は、医院長先生が自分に似ているんだと、不機嫌そうに言っていたけれど。
訊ねようと思って、美籠にはできなかった。先輩と。先輩と医院長先生は。
どんな関係なんですか、と。
代わりに医院長先生が大儀そうに口を開いた。「檍と、同じなんだ」
「え・・・・・・?」美籠は訊き返す。
「母親と、同じ病気」医院長先生は後頭部を背後の壁に打ちつけた。「遺伝する確率は高かった。それでも檍は、直毘を産んだ。そして」
死んだ。
美籠ははっとして足先を突っ張らせた。それじゃあ。
それじゃあ。
「先輩も」
それ以上、口にするのは恐くて。しかし医院長先生は首を振った。横に。縦ではなかった。
「完治はしない」けれど、と続ける。「薬が効く限りは、大丈夫だ」
薬が効く限り。それはとても大丈夫とは思えなかった。効かなくなったら終わりだという事実しか目の前にはない。副作用だって無視できない。薬は恐い。お母さんも。
美籠の母親は。
睡眠薬を一瓶飲み干して、誰にも看取られず、文字通り眠るように。
気づいたら。
いなくなっていた。気づいた時には遅かった。もう逢えなくなっていた。二度と。触れることも、話すことも、できなく。
吐きそうだ。
気持ち悪い。
胸の肉を全て抉り取ってしまいたい。
「神経の伝達が、うまくいかなくなる。薬で調節しているが、慣れないように、必要最低限に。だから、時々、倒れる。それは、どうしようもない」
どうにかしてやりたいが。医院長先生は前髪を掴んだ。やはり口調は淡々としたままだったが、たぶん、この人は感情が表に現れないだけで、内心ではすごく動揺しているんだと思う。お医者さんだから。医者が不安がっていたら、それは患者にも伝染し、恐怖に変わる。恐れは病状を悪化させる。医院長先生はまるでお医者さんらしくないと思っていたけれど、それは間違いだった。
「海が好きだった」
唐突に医院長先生は話題を変えた。美籠は初め、直毘先輩のことだと思ったけれど、話を聞く限りどうやら別の人のことのようだ。
「写真を、撮るのが趣味だった。綺麗なんだ。見ていて心が揺さぶられた。写真もそうだが」
夢中になって夢を語る、彼女の姿に。
「写真家になるんだと。いつか写真集を出すんだと。もう外には出られなくなっても、彼女は諦めなかった。この狭い庭に閉じ込められて、それでも、嬉しそうに自分の撮った写真を眺めては、俺に言った。いつか一緒に、海に行こうと」
檍。
直毘先輩のお母さん。
かつて先輩と同じ病気に苦しんだ、一人の女性。
「俺はド素人だったが」医院長先生はまた後頭部を壁にぶつけた。さっきよりも大きな音がした。「病床を動けない彼女に代わって、海の写真を撮った。くそったれな出来栄えだったが、彼女は喜んでくれた。そして、そのうち」
写真家になる夢は叶わないけれど、と、檍さんは言ったのだそうだ。
もう一つ。
もう一つ、夢ができた。
「俺はその夢を叶えた。叶えてやることしか、できなかった」
叶えてやることしかできない。
それはとても寂しい言葉だと、そう思った。
「その人は」美籠は膝小僧を払った。居たたまれなさからの無意識の動作だった。「夢を、叶えたんですね」
「ああ」医院長先生はうなだれた。煙草の灰がぽとりと落ちた。「そうだ」
先輩は知っているのだろうか。
お母さんがちゃんと夢を叶えたこと。
幽霊を探す先輩。もしかしたら。彼が探しているのは、もしかしたら。
美籠はぎゅっと目を瞑った。そのまま瞼が貼りついて二度と開かなくなってしまいそうなほど。
聞きたい。
先輩の、本当の夢。
* * *
それから二日。
病室に入ると、直毘先輩は上体を起こして窓の外を眺めていた。空を覆う雲はどんよりとして切れ間がなくて、何だか体が重い感じがする。何かに圧しかかられているような。
美籠に気づいているだろうに、先輩はこちらを向かないし、口も開かない。
美籠は静かに足を踏み入れた。音を立てないつもりだったのに、サンダルが床に滑ってきゅっと鳴ってしまった。慌てて足を引っ込めて、もう一度、挑戦。だめだ。気にすれば気にするほどうまく歩けないうえに音が大きく感じる。どうしよう。おろおろと立ち往生していたら、抑えた笑い声がした。見れば、先輩が肩を震わせてくつくつと笑っている。美籠はふんと鼻から息を抜いて、結局、普通に部屋に入った。
室内に更地さんの姿はなかった。もう四六時中、ついていなくても平気なのかもしれない。
今までも月に一度は体調を崩していたという先輩。美籠が来てからはそんなこと一回もなかった。毎日、顔を合わせていたから、隠されていたとも考えづらい。精神状態は病状に強く影響する、と医院長先生は言っていた。精神的に安定していたから、しばらくは落ち着いていたのだろうと。だがやはり、歪は小さくとも少しずつ溜まっていく。そうして爆発した。らしい。
美籠はベッド脇の椅子に腰かけた。
「先輩」
「何だ」
美籠が短く呼ぶと、先輩も短く応えた。
「心配しました」
「そうか」
美籠が表情を変えずにそう言うと、先輩も無表情に頷いた。
何だろう。
うまく言葉が出てこない。
先輩もこんな気持ちだったんだろうか。美籠が倒れた時。最初の夜の冒険で、美籠が力尽きた時。
あの時、先輩は美籠にどうしてくれたっけ。何と声をかけてくれたっけ。酷く安心できた気がするのに、忘れてしまった。下手くそだ。美籠は。先輩は気遣いとは無縁なんて嘘だった。ただ素直なだけ。美籠はいっぱい、彼に気遣われていた。遅い。気づくのが。でも。
取り返しがつかないわけじゃない。
まだ先輩は生きてる。
生きて、ここにいる。
美籠は先輩の左袖をぎゅっと握った。先輩は驚いた顔で美籠を見た。泣いてしまいそうな美籠の手を、先輩の右手がそっと上から抑えた。
「なぜ泣く」
「だって」
だって、だってと、美籠は繰り返す。
「言っただろうが」先輩は美籠の額を指で弾いた。「俺は死なん。そういう約束だ」
「うう」美籠は瞳の縁を指で拭った。逆に零れてしまった。頬が涙で濡れる。
恐かった。
恐かったのだ。
逢えなくなるのが。
逢いたくても、逢えなくなるのが。
美籠は子供みたいにみっともなく声をあげて泣いた。嗚咽が喉の奥で絡まって咳き込む。先輩は呆れた様子で美籠の肩を摩る。あーよしよし、なんて宥める。
「だから泣くなって」
「う、うう、う」
「まあいいか。泣きたいなら泣け。お前はそっちのがいいらしい」
溜め込むのはよくない、と先輩は優しく言う。
こんな時まで励まされるのは美籠のほうなのだった。つらくて大変なのは先輩なのに、美籠は何もできない。不器用な彼の精神を擦り減らしてしまうだけなんて。もう自室に帰ろうかと思った。膝の関節を震わせながら立ち上がろうとした美籠の肩を、先輩の手が押し留めた。
「行くな」
美籠の嗚咽が止まった。
「行かなくていい」
脚から力が抜けて、すとん、と椅子の座布団に逆戻りする美籠。
先輩はちょっとだけ唇の先を尖らせて言った「話し相手がいないとつまらない」
「わ」美籠はしゃくりあげながら、「私、多分、今、うまく話せないです」
「安心しろ。俺は話し上手だからな。宇宙人と話してるみたいだとよく言われる」それ褒められてないです。
行くな。
行かなくていい。
そのたった二言が美籠の頬を熱くした。何だろう。たくさん泣いたからのぼせてしまったのともちょっと違う。苦しくはない。でも痛い。
胸が張り裂けそう。
先輩は美籠の頭をばんばん叩いた。親しみの籠もったその衝撃は、悪意もないが遠慮もなかった。首がもげそうです先輩。
と、先輩がふいに美籠の鎖骨辺りに顔を近づけてきて、美籠は悲鳴もあげられず硬直した。細い髪の毛から漂う油絵の香りは、たった二、三日じゃ薄れていなかった。
「甘い匂いがする」先輩は鼻を鳴らす。
「あ、ああ、あ」美籠は椅子ごと後退してウエストポーチを外した。チョコレートの包みを先輩の膝の上にぶちまける。「こ、これ、医院長先生が」
面会謝絶が解けた、と美籠の部屋にやってきた医院長先生が、美籠にこれを託したのだ。直毘はこのチョコが一番好きなんだ。そう言う医院長先生の顔は薄く微笑んでいて。初めて見るその表情に美籠はちょっとどぎまぎしてしまったのだった。
「あいつが」先輩は鼻柱に皺を寄せ、「食えるか、こんな物」
お前が食え。先輩はすげなく突っ撥ねる。
「でも、あの、一緒に」美籠は床に目を伏せて途切れ途切れに言った。「食べたいです、先輩と、一緒に」
同じ時を過ごすだけでも十分だけれど。
少しくらい、欲張ったって、いいよね。
それは楽しいことだと、教えてくれたのは先輩だ。誰かと何かをすること。一緒に何かを作ること。食事だってそう。一人で食べると味気ないご飯も、誰かが傍にいるだけで、色がつき温かくなる。おいしいと、感じる。
この医院に来れてよかったと、美籠は思っているのだ。
辛いこともあったけど。部屋の隅で小さく縮こまりたくなる思い出もあるけれど。
この半年で美籠は多くのことを学んで。
そのほとんどが、先輩から。
先輩から教わったことで。
先輩と呼べなんて何様だと初めは思っていたけれど、今ではこれほどしっくりくる呼称もなくて。
何の返事もないので美籠がちらりと上目遣いに先輩を見やると、先輩は口を半開きにしたまま固まっていた。心なしか、耳が。
赤い、ような。
「せ、先輩・・・・・・?」
先輩は突然、チョコレートの山を庇うように上体を折った。「だ、駄目だ、やらん!」
「え」
「お前にやる菓子はない!」
「ええっ」
「そこでお前の愛しの糖分達が俺に食い散らかされる様を指を咥えて見ているといい・・・・・・!」
一々、大袈裟な言い方をするなあ、なんて思う反面、それが先輩らしさだということもわかっている。
美籠は肩を狭めて謝った。「あ、す、すいません。先輩のお気に入りなんですもんね、医院長先生は先輩にあげるつもりだったんだろうし」
先輩はぐ、と喉を締めた。何だか凄いダメージを与えてしまったようだ。なぜ。
「そ、そんな雨に打たれる子犬のような目で俺を見るな」
見てないです。
「先輩・・・・・・?」美籠は首を傾げる。「いつにも増して変ですよ」
先輩はしばし閉口し、「お前、わりと言うことは言うよな・・・・・・」
先輩の影響じゃないでしょうか。
「しょ、しょうがないから、一つだけ、やる」
明後日の方向を向きながら言って、先輩はハート型のチョコを美籠に放った。取り落しそうになったところをぎりぎりで受け止めて、手の平に収まったその包みを美籠は大切に握る。半ば自棄になったように、銀紙を剥いては食べ剥いては食べる先輩に倣い、美籠も包みを剥がした。前歯で削るように少しずついただく。濃厚な風味と独特な粘りが口内に広がり、体の色々な強張りをほぐしていった。
訊くなら今しかないと思った。
「先輩」
「うん?」
チョコを口いっぱいに頬張る先輩。
その喉がごくりと鳴るのを皮切りに。
「幽霊を見つけて、どうするんですか」
指を舐めた姿勢で先輩が動きを止めた。
美籠は続ける。
「幽霊に訊きたいことって、何ですか」
ねえ先輩。
「先輩が探してるのは、本当は」
先輩の本当の夢は、夢じゃなくて、それは。
願いなんじゃ、ないですか。
美籠の唇を甘い塊が塞いだ。
茶色く汚れた人差し指が押しつける星形のチョコレート。
先輩は最後まで言わせてくれなかった。美籠がチョコを口に含むと、下唇を一瞬だけその指の腹が撫でた。どきりと鼓動が跳ねる。
先輩は無言で栄養摂取に戻った。それは嗜好というより作業に近かった。ただそこにあるから口に入れ飲み込むだけ。
美籠の舌の上で溶けるそれもまた、味がしなかった。
廊下に出ると医院長先生が待ち構えていた。美籠は驚いたが、先輩に気取られないよう声を飲み込み、静かに扉を閉めた。医院長先生のいつもの無表情が僅かに固い気がした。
「どうだった」
先輩の様子を訊かれているのか、チョコレートの行く末を訊ねられているのか。
「先輩、何だかんだ言いつつ、全部食べちゃいましたよ」
「そうじゃない」
医院長先生は緩く首を振った。髪の流れる感じがやっぱり先輩に似ていると思った。
この二人はどうしてこんなにも仲が悪いんだろう。いや。
先輩が医院長先生を嫌っているのだ。嫌悪している。でも医院長先生は多分、すごく、すごく心配している。直毘先輩のこと。大事に思っている。
すれ違い。
「直毘に訊きたいことがあったんだろう」
美籠ははっとした。檍さん。先輩のお母さんのこと。訊けなかった。怖気づいたわけじゃない。ただ、先輩が。
「・・・・・・訊いてほしくなさそうだったから」
無理に口に出すのが躊躇われた。それは逃げだろうか。わからない。どうするのが正解なのか。
だけど結局。
自分が正しいと思うことをやるしかないのだ。
美籠が悲しげに俯くと、医院長先生は小さく、そうか、と呟いた。
「先生」
「何だ」
「どうして先輩は先生のこと――」
美籠が視線を上げると、医院長先生は普段通りの半眼で見つめ返してくる。そうして静かに答えた。
「俺が悪い。俺が言ってしまったんだ。檍は、夢を叶えたと」
医院長先生からお母さんの話を聞くまでは、先輩と先生の間は今ほど険悪ではなかったという。ところが、医院長先生のその一言で直毘先輩の態度は一変した。
どうしてお前にそんなことがわかる、と激高したのだそうだ。
母さんがそう言ったのか。違う。ならなぜお前にそんなことが言える。そんな問答を繰り返して、今のような状態になってしまったと。
先輩が幽霊探しを始めたのはこの頃からだそうだ。
美籠は確信する。
先輩が捜しているのは、やっぱり怪奇現象なんかじゃなくて。
もう逢えない人。
逢いたくても逢えない人。
そして、訊ねたいことというのは、きっと――。
会話が途切れた。医院長先生は白衣のポケットに両手を突っ込んでふらふらと踵を返した。美籠はしばらく動けそうになくて、考えることがたくさんあって頭がぱんくしそうで、唇を噛み合わせていたらふいに頭を撫でられた。
なぜか戻ってきた医院長先生が言う。「凄く」
「え?」
「凄く大事なことを言い忘れていた」
更地に怒られる、と医院長先生はぼやき、
「誕生日会をする」
誰の。
ですか。
何だかこんな風に心の中でつっこんだのは初めてじゃない気がする。
美籠は目を細めながら訊ねた。「・・・・・・先輩の、ですか」
何となくそう思ったのだ。医院長先生の大きな手の平の暖かさがそう教えてくれた気が。
医院長先生は頷いた。「二十歳の、誕生日だ」
三つも歳上だったのか。直毘先輩のあまりの落ち着きのなさに、一応、本当の先輩だということを忘れていた。
「直毘は多分忘れている」そうだろうなあ、と美籠は思う。「俺も今年まで忘れていた」
今年までって。
もしかして初めての誕生日会だったりするんですか。
「更地を手伝ってやってくれ。直毘には内緒でな」
医院長先生は唇に人差し指を当てた。美籠の頭から手を離し、今度こそ行ってしまおうとする。待ってください、と美籠はその背を呼び止めた。
プレゼント。
何も持たない美籠が先輩にあげられるもの。
それはきっと、間違っているんだと思う。だけど。美籠はそうしたい。かえしたい。先輩にはたくさん助けてもらった。色んなことを教えてもらった。だから。先輩はそんなこと望んでいないのかもしれないけど。
伝えなきゃ。
檍さんの。
医院長先生の、想い。
「相談が、あります」
* * *
外は雪が降っている。
窓を磨きながら見える景色は、犬じゃなくてもはしゃいでしまいそうな一面の白。葉を落とし雪の積もった木立は、なるほど、あの有名なフランス菓子を確かに彷彿とさせた。
もう夜なのでさすがに庭に出て遊んでいた子供達は院内に戻された。明日の朝は、きっと早くからたくさんの足跡がついているだろう。外に出られない病気の子は、㝵乃さんがバケツいっぱいに満たした雪を触らせてあげていた。
「美籠ちゃーん」更地さんの高い声。「窓拭き終わったら飾りつけお願―い!」
「はーい!」美籠も大きな声で返事をする。
直毘先輩の誕生日会前日。空き部屋の一つを、美籠と更地さん、ほかの看護士さんや満君にも声をかけ、皆で装飾の真っ最中である。買い出しは㝵乃さんが昼のうちに車を出して行ってきてくれた。ちょっと心配だったけれど、恐いのは見た目と性格だけで、基本的に真面目な人である、ちゃんとまともな品を買ってきてくれた。
装飾と言っても大掛かりなことはできないが、きらきらでふさふさした紐とか、折り紙で作った輪を繋げたやつとか、見ているだけで懐かしくなる飾りを施していく。やっぱり定番だよね。奇抜なセンスの持ち主の先輩が納得するかはわからないけど。地味すぎる、とか言いそうだ。
飾りつけを終え、美籠は一歩引いて眺めてみた。
何だろう。何か。
物足りない感じ。
「確かに地味だ・・・・・・」
何とはなしに呟いただけだった。
返事があった。
「天使天使」
「へ・・・・・・?」
美籠は振り向く。
背の高い男の人が立っていた。左足に体重を乗せ、怠そうに背中を丸めて。片手に握っているのは、あれは酒瓶だ。ぐい、と瓶をあおぎ、男の人は言う。
「そこの壁の空いてるところにさー、天使描いてよー。したらもーさー、完璧じゃねー?」
「え、えっと・・・・・・」
天使。
心臓の鼓動が倍くらいに跳ね上がる。
天使。双子の。
双子の、天使。
脳裏に甦るその絵。
口ごもる美籠に一歩近づき、「俺ねー、哉代。あんたはー」
「わ、私、は、えっと」美籠は一歩後ずさり、「美籠、です・・・・・・」
「みこちー!」哉代さんは嬉しそうに笑った。先輩とはまた違う種類の無邪気さだった。哉代さんの笑顔は、どことなく開放感のようなものが滲み出ている。
「友達になって」
「え」
「俺さー、ここ二年くらいずっと部屋に籠もってたからさー、何か面子総入れ替えんなってんしー、全然知ってる顔ねーしー」哉代さんは悲しそうに眉を下げる。「みんな死んじゃったんねー」
そうなのだ。
美籠がこの医院に入院してからもう一年が経とうとしているけれど、その間、美籠は何人もの遺体が運ばれていくのを目にした。面識のない人も、時には知っている顔も。その数は異常だ。それも当然だろう。ここは自由だ。自由に生きていい。例え寿命を縮めることになっても、例え死ぬ間際であっても、患者の意思を尊重する。
まあでもねー、と哉代さんはあっけらかんとした口調で、「俺もさー、ずーっとね、痛くてさー、苦しくてさー、もう酒なくちゃやってられーんって感じだったんだけどさー」
病気ならお酒はやめたほうがよかったんじゃないだろうか。
なんて口を挟めるわけもなく。
「んだべさー、急に痛いのすーって引いたのよ、急にさー、もうびっくりだわー。多分ねー、俺もう死ぬんだわー、もうすぐねー」
天使もお迎えにきたしさー。
なー、と、哉代さんは左右に向けて語りかけるように首を傾けた。まるでそこに誰かいるみたいに。痩せた体は頼りなく揺れている。支えてくれる人も、励ましてくれる人も、隣にはいない。
「なのにみーんな見えねーっつーのよ、こいつらこと」
「天使さん、ですか・・・・・・?」
「そー。双子なんだけどよー」
美籠の心拍がまた跳ねた。双子の天使。それは美籠が忘れたい、いや、忘れたはずの。だけど実際、美籠はこうして怯えている。逃げることもできていなかったわけだ。隠すことにも失敗して。けれど直視もできず。
「描いてほしーなー。そしたらさー、みんなに見せられんじゃん」
「で、できません」
「何で」
「わ、私は」喉がひりついて声がしゃがれた。胃がきゅっと縮んで鋭い痛みを発する。「絵は、もう、描かない、から」
「うっそだ」
哉代さんは言った。
「だってあんた、俺が天使って言った時、ちょっと嬉しそうだったもん」
美籠は窓に背中を貼りつけた。まさか、と思った。そんなはず。ない。だって美籠は。憎んでいる、はずなのに。
かつて自分が描いた、その絵を。
「何かさー、どこで見たのかわっかんねーんだけど。雑誌かなー、もう二年ぐらい前にさー。すんげー絵見ちゃったのよ。何つったらいいんかな、びびびっときちゃったっていうか、とにかくさー、すんげーの、これが感動かーみたいに思って、まぢ俺震えちゃって。そん時は一瞬痛いの消えたのよ、またすぐ再発したけど。そんぐらいすんげーパワー持ってたわけよ、ほんもんじゃなくてもさー。俺忘れらんなくってさー、そしたらさーその絵の双子の天使がお迎えにきてくれちゃって、俺まぢ幸せもん」
哉代さんはまた酒瓶をぐっとあおいだ。ひっく、と肩を揺らす。そして身を近づけてきたかと思うと、美籠の肩を上から押した。「まーまー座って座って」
「ええ・・・・・・?」
運が悪いことに、今、この部屋にいるのは美籠だけだ。満君はもう消灯時間だし、更地さん達看護士さんは定時会議に出席中である。先輩だっていない。当たり前だ。この誕生日会は主役には内緒なのだ。
「何で絵、描かないの」
描けないんじゃないんでしょ。美籠と同様に腰を下ろした哉代さんは核心をつく。
「描かないって、どうして決めちゃったの」
「わ、私」美籠は肩をぶるりと震わせた。驚いた。自分は話そうとしている。誰にも語ることのなかった、それこそ先輩だって知らない、自分の。
「あー」哉代さんは酒瓶を美籠の鼻先につけた。「飲む? もう口が回る回る」
それは人によるんじゃないかなあ、と思った。
「・・・・・・お父さんが」一滴零すと、後は考える必要はなかった。淀みなくとはいかなかったけれど、ぽつりぽつりと途切れながら、それでも黙ることなく美籠は最後まで語った。「お父さんが、厳しい人で」
「うん」哉代さんが相槌を打つ。
「私は、絵が。絵が、好きで。でも、だめだって言われて。もう描くなって。勉強、しなさいって。だけど、お母さんは」
何をしてもいいと。
美籠がしたいことをすればいいと。
そのことで両親はよく口論になった。喧嘩、というよりも、もっと会議的だった。話し合い、議論、そんな感じ。互いの意見と理屈を押しつけ合う感じ。それは堂々巡りで、どちらも譲る気なんて毛頭ないのだから話が纏まるはずもなくて。だから美籠は、絵を捨てようと思った。そうすれば父と母は仲良くしてくれるんじゃないかと。論争の火種は自分であり、だったら自分で自分に水をかけてしまおうと、そう思ったのだ。父さんと母さんも昔は仲睦まじかった。美籠がまだとても小さい頃は。よく覚えていないけれど、鮮明な記憶は残っていないけれど、それでも温もりや優しい感情がそこにあったのは体が覚えている。
母にもう絵はやめると相談した。
父にもそう言った。
だけど母は引かなかった。
父には内緒で最後にコンクールに応募してみたらどうかと言われた。美籠はもうその時には描くことが苦痛で、でも美籠が描いた絵を見せる度に瞳を輝かせて喜んでくれた母の顔を思い出すと断れなかった。お母さんが喜んでくれるなら。最後に。これで最後にしよう。一度捨てようと決意したものをまた前にちらつかされるのは辛かった。決心が揺らぎそうだった。だって美籠は好きだったのだ。紙の上に鉛筆を走らせる感覚。色づけることで吹き込まれていく命の息吹。それらはいつも新鮮で、楽しくて仕方がなくて。好きだ。大好きだ。ほかの誰も関係ない、美籠自身が絵を描くことが好きなのだと。頭の中に湧き上がる世界を形にするのが何よりの至福だと。
応募作品を描く中でそう再認識させられた。
母に言われるがままにコンクールに応募した。それほど大規模な催しではなかった。だから大丈夫だと思った。父にばれることはない。
入賞してしまうなどと、美籠は露ほどにも思っていなかったのだ。
受賞の電話を受けたのは、間が悪いことに父だった。
父さんは激高した。二人で俺を騙したのかと。どんなに激しても普段は絶対に振るわなかった父の暴力が美籠を襲った。やめて、お願いと叫ぶ母の声は遠かった。次第に痛みも薄れていった。
気を失う寸前に見たのは、包丁を振り上げた母の姿。
目が覚めた時には全てが終わっていた。美籠は病院のベッドにいた。父さんも母さんも面会に来ることはなかった。父は母に刺されて同じ病院に入院していたし、母は行方不明になっていた。父は一命を取り留めたが、母は山奥で自殺しているのを発見された。警察が美籠を訪ねてきたけれど、美籠は覚えていないの一点張りで何も答えなかった。
美籠はそのままその病院で半年近くを過ごした。父がそれからどうなったのかは聞いていない。打撲が癒えた後は、途中で外科から精神科に移された。食べ物が喉を通らなくなって痩せ細った美籠は、寝たきりで点滴を受け続ける毎日だった。そして。
担当医が言ったのだ。
もし君が望むなら。
夢の終わりへ連れて行ってあげる。
「だから、私、もう絵は描かないんです。描く資格なんて、ないんです」
「あららー」哉代さんの調子は軽かった。でも嫌な感じはしなかった。「大変だったんだねー」
美籠はこくりと顎を引く。
哉代さんは美籠の膝頭をぽんぽんと叩き、「まあでも、今わりと幸せだったりしない?」
「しあわ、せ・・・・・・」
「そうそう」哉代さんは酒瓶に口をつけたが、残念なことにもう空だった。空き瓶を床に置いて、続けた。「いいよね、ここ。自由ってわりと不便なんだって気づくよねー。うんうん」
しきりに頷く哉代さんだった。美籠にはよくわからなかった。
「すみません、長々と」
「いーよー、訊いたの俺だしねー?」
「でも、何でかな・・・・・・」
こんなにすらすらと喋れるものとは思わなかった。存外、自分の神経は図太いようだ。この一年で何が変わったとも思わないのに、他人事のように過去を語って。もっと抵抗があると思った。想像したような胸の悪さは感じなかった。
「そりゃーさー、他人だからじゃない、俺が」
「え・・・・・・?」
哉代さんはすごく楽しそうに笑った。笑う場面じゃないのに。「俺が赤の他人だからさー。別に昔の話とかしたって、何て思われるかとか嫌われるかもとか、心配しなくていーじゃない」
そう、なのだろうか。知らない人間だから、出せる自分というのもあると。
じゃあ美籠は。
先輩に、嫌われたくないのかな。
同じ話をしようと思っても、多分、哉代さんにしたようにはできない。
「まー残念だけどねー」哉代さんは立ち上がり腰を伸ばした。「描きたくないなら無理にとは言えないし。気が向いたら教えてちょ。そんで廊下ですれ違ったりしたら声かけて。もう友達じゃん? 俺らさー」
「はあ」友好的な人だ。あとすごく前向きだ。
「こいつらもダチにしてってさー。見えねーだろけど」
んじゃねー、と、哉代さんは透明な天使を携えて部屋を出ていった。
後には空になった酒瓶が一つ。
美籠は壁に後頭部を預けて目を閉じた。友達と言いながら赤の他人と言うその矛盾。
嫌われたくないとまでははっきり言えないが、嫌われていいとも思わない。
奇妙なわだかまりが胸に棘を残す邂逅だった。
美籠は直毘先輩の誕生日会に出なかった。
出席したくなかったわけじゃない。でも気分が乗らなかった。これから美籠が先輩にすることを考えると。それは美籠が自分で決めたことなのに、こんなにも胸が苦しい。
美籠はこれから嘘をつく。
生涯、忘れることがないだろう、身勝手で残酷な嘘。
美籠はその古びた便箋を握る指に力が入らないよう自制するので精一杯だった。
青い海にぽっかりと浮かぶ丸太の茶色い扉が開いた。
パーティの名残か、髪に生クリームを絡ませた直毘先輩が、虚を突かれた顔になって取っ手を押した姿勢で固まる。
「こんなところにいたのか」声は少しだけ上ずっていた。「なぜ、俺の部屋に」
美籠は先輩のベッドに腰かけたまま、隣をぽんぽんと叩いた。「座ってください」
「いや、座るも何も俺の部屋だぞ。何してると訊いて――」
「いいから」美籠は強く言った。「座ってください」
先輩は呆気に取られていたようだけれど、ややあってから大人しく従った。足の踏み場のない床を乗り越えて、美籠の横へと腰を下ろす。
美籠の想像よりもやや座る位置が近かった。
やめようか、と思った。
やめてしまおうか。こんなことをして何になる。直毘先輩の夢は叶わない。絶対に。美籠はそれを望んでいたんじゃないか。夢の終わりが生の終わりへと繋がるのなら、ずっと夢を見ていればいい。そうしたら先輩はいなくなったりしない、消えたりしない、きっと。
美籠は固く目を瞑った。
そのまま彼の二の腕に便箋を押しつけた。
「な、んだ、これ」先輩が驚いている。当然の反応だ。古い便箋だった。端々が黄ばんで、随分、前に書かれたものだと窺える。
それすらも嘘だ。だけど初めて見る人間は、事情を知らない人間は、気づけない。
美籠の手から手紙の感触が消えた。
美籠は瞼をきつく閉じたまま。
封を破る音がする。中の紙を取り出す音も。
それに重なるように、先輩が息を呑んで。
「これ、は」
彼の意識が文字をなぞるのが気配でわかる。段々と色を失うことも。力の入った指が紙に皺を作ることも。
「何だ、これは、なぜ、母さんの」
美籠は目を開けた。
今にも脆く砕け散ってしまいそうな悲痛の表情が視界いっぱいに映った。
「プレゼントです」
美籠は言った。内心の動揺は欠片も表に出なかった。不思議なほどに。
「檍さんから、先輩へ」
二十歳の誕生日に渡すようにって、医院長先生に預けられていた。
「最初で最後の、手紙です」
伝えてほしい、と医院長先生は言った。直毘は何も知らない。自分のことを。だから、お前から伝えてやってくれ。どうして私なんですか、と美籠は訊ねた。医院長先生が伝えるべきなんじゃないですか。ところが医院長先生は首を振った。淡い微笑みを浮かべながら。夢を叶えるのは、お前の仕事だ、美籠。
嘘なのに。
みんなみんな、嘘なのに。
その手紙にはこう書かれている。
直毘へ。
誕生日おめでとう。
こんな形でしか祝福できない私を許してください。
でも私は後悔していません。
心残りがあるとするならば、あなたと一緒に笑うことができないことです。
生きてください。
色々な人と色々な経験をしてください。
そして、大切な人を見つけてください。
あなたを見守ることができないのはつらいけれど、私は幸せです。
だって直毘、あなたを産むのが、
私の、夢だったから。
美籠は手紙の内容を一字一句覚えている。空で言える。だってそれは美籠が描いた物だからだ。初めてここを訪れた日、先輩に見せてもらった檍さんの詩集。写真に添えられた言の葉。その時、目にした彼女の筆跡を、美籠は完璧に記憶していた。美籠の中にまだ残っていた、物の細部まで瞼に焼きつける癖。絵を描くために磨かれた記憶力。文の組み立てから筆跡の細かなチェックまで医院長先生に協力してもらった。古い便箋は、指輪の件で知り合った香苗さんからお礼に戴いたものを使った。うまい具合にインクが滲んで、より古めかしくなった。
薄青色の瞳から涙が頬を伝った。水面から水が零れるみたいだった。先輩は顔を背けたけれど、隠す気はないようだった。我慢する気もないようだった。嗚咽が美籠の鼓膜を打ち、頭の中に重石を積み上げていく。がんがんする。痛い。どこが痛いのかわからないけれど、とにかく、鋭く鈍く、強く弱く、痛みが、痛みの波が押し寄せてくる。
「そうか」先輩は身を畳んで膝に額をつけるようにして呟いた。「そうか。母さんは、夢を叶えたのか。そうか」
俺は、産まれてきて良かったのか。
母の命と引き換えに生を受けた先輩が、お母さんに訊ねたかったこと。
「先輩」美籠は左腕で先輩の背中を摩った。膝の辺りに置いていた右手をぎゅっと掴まれた。その手には甲に血管が浮くくらい力が込められているのに、酷く弱々しかった。
「先輩」
美籠は短く息を吸い、
「お誕生日、おめでとうございます」
ごめんなさい、ごめんなさいと、心の中で何度も謝りながら、そう言ったのだった。
それから数日後。
美籠と先輩が廊下を歩いていた時、たまたま医院長先生とすれ違った。直毘先輩が先に医院長先生の存在に気づいて、でもすぐに視線を前に戻した。医院長先生はこちらに気づいている素振りも見せず、交錯も一瞬で、美籠は小さく溜め息を吐いた。
ところが。
「おい」
直毘先輩だった。先輩が医院長先生の白衣の後ろ姿に向かって何かを投げた。医院長先生は振り返り際、それを受け取った。箱。手の平サイズの小さな箱だった。戸惑う美籠の前で先輩は不敵に笑う。あれ、と美籠は既視感を感じた。この顔は見たことがある。何だろう。一体、いつ。
「今までの詫びだ」先輩は腕を組んだ。「これからはあんたに対する態度を少し改めてみようかと思索している」
医院長先生は瞬きを繰り返し、深海の瞳をくりくりさせると、箱のリボンをほどきにかかった。そして丁寧な手つきで箱を開けた。
先輩の笑みが深くなる。
嫌な予感。
びよん、と箱から勢いよく影が飛び出した。
医院長先生の頬に食い込んだプラスチック製の拳。
沈黙が下りた。
重い。
すごく、重い。
びよんびよんとバネをしならせるびっくり箱を医院長先生は無言で見つめていて。
思い出した。さっきの顔。美籠に中身のないガムの包みを渡してきた時のどや顔だ。この人は、と美籠は半眼で直毘先輩の横顔を睨む。
先輩は満足げに歩き出そうとしたが、おっと、と途中で踵を返し、「いかん、マンホールの蓋を忘れた」
そんな物、何に使うんですか、と思ったのも束の間。
先輩が横を通ろうとした時、医院長先生が素早い動きで脚を伸ばした。「うおっ」先輩は躓いて転んだ。床に膝を打ちつけて悶絶する。「き、さま・・・・・・っ」
そのまま去ろうとした医院長先生の膝の裏に先輩が座り込んだ姿勢で思いきり蹴りをかます。医院長先生はよろけて体制を崩した。今度は医院長先生が先輩の髪を引っ張った。先輩は負けじと院長先生の頬を摘まんだ。
子供じみた喧嘩が始まって。
美籠は呆れて仲裁する気も起きず。
静と動といった正反対な医院長先生と先輩だけれど、負けず嫌いなところも、すぐにむきになるところも、頑固なところもよく似ていて。
やっぱり親子なんだなあ、と、美籠は忍び笑ったのだった。