『銀環』
3.『銀環』
「・・・・・・ごちそうさまです」
美籠は箸を置いた。ほとんど手がつけられていない配膳を見て、先輩はおもむろにパンを手に取り、小さく千切ると美籠の唇に押しつけた。美籠は唇を真一文字に引き結んで首を振る。頑なに拒む美籠に先輩は引き下がり、所在なげに手を宙に彷徨わせる。
「本当に死ぬぞ、お前」
そうだろう。わかっている。でも喉を通らない。異物を口に入れたように嚥下を体が拒否する。無理に飲み込めばもどしそうになる。実際、この数日で何度か吐いた。もうだめだ。だめかもしれない。頭がぼーっとする。鈍い痛みが支配する。喉は焼けつくように渇いているのに、水を飲むために腕を動かすのも億劫だ。美籠はベッドに潜り込んだ。先輩に背を向けてお腹を丸める。
馬鹿だなって、自分でも思う。こんなことしたってあの子は帰ってこない。もう逢えない。知ってる。それはわかってる。なのに。
苛々する。
うまくできない自分に。
心配かけてばかりの己の愚かさに。
それでも先輩は、美籠を見捨てずにいてくれるのだ。食え、馬鹿。そんなふうに遠慮なく言ってくれる。美籠を腫れ物扱いしない。方針上、看護士さんだって美籠に無理強いをすることはないのに。先輩は気を遣うことなくまっすぐに美籠にぶつかってくる。それはとても重いけれど、つらいけれど、安心する。
「何なら食べられる」先輩は言った。「ゼリーとかなら食えるのか」
美籠は答えなかった。
先輩は一つ息を吐いて席を外した。部屋から彼の気配が消えて、美籠は毛布から顔を出す。先輩の膳こそまだ手つかずだった。冷めてしまうのも構わずに、美籠に気を揉んで。
十分くらいしてから先輩は戻ってきた。
両腕いっぱいにチョコレートを抱えている。
「水奈からプリンでも拝借しようと思ったんだが」先輩は首を捻った。「なぜかこうなった」
美籠は噴き出した。先輩は憮然としながらテーブルに菓子を広げ、その一つを美籠の枕元に置いた。美籠はそれを手の平に包み、眺める。おかしな人だ、やっぱり。先輩の周りではいつも不思議が起こる。
美籠はチョコを口に放り込んだ。少しほっとした顔で、先輩は腕を組み、また首を傾げる。
「どうも俺は人違いのようだ」
日本語、変です。
「ん、違うな、人違い、されている、いや、人違われて、うん・・・・・・?」
先輩は一気に三つチョコレートを口に入れて、もしゃもしゃしながら椅子に座った。ああ、と柏手を打ち、「俺は誰かと間違えられているらしい」
人違いはあっさり諦めた。
「誰かって」誰にですか。
「権左衛門さんがどうとか言ってたな」
「ごん・・・・・・?」
「同じ婆さんにな、よく話しかけられるんだ。権さん、どこ行ってたの、探したのよ――ってな。それから菓子をくれる。このチョコも婆さんに貰った。俺が黙っていると昔話に花を咲かせ始めて、そのうち指輪の話になって」先輩は手の甲を見せた。「指輪がないから権さんじゃないと言われる」
先輩は権左衛門なんて顔してないのになあ、と美籠は頭の片隅で思った。日本名がつくづく似合わない人である。まだジョンとか言われたほうが納得できる。
「おい、聞いてるか」
「え、は、はい」思考が脱線していたのは内緒だ。「それで、そのあと、お婆さんは」
「権さん権さんと名前を呼びながらどこかへ行ってしまうわけだ」
「へー・・・・・・」
相槌を打つもいまいち概要が掴めない。美籠が頭を悩ませていると、先輩は何を思ったのかじっと美籠を見つめてきた。正面から挑むように。な、何だろう、変な顔でもしてたんだろうか。美籠は自分の頬を摩ってみたりする。
「よし」ややあって、先輩は膝を叩いた。「水奈に訊いてみよう」
先輩を権左衛門と呼ぶお婆さんは香苗さんというらしい。思い立ったら即暴走の先輩が早速、更地さんを美籠の部屋に招き、事情を訊ねた。香苗さんは東のシルバー棟に在住で、痴呆症だという。香苗さんには若くして亡くなった恋人がいた。権左衛門とは今は亡きその恋人の名前で、彼もまたこの医院に在籍しており、その短い一生をここで遂げた。当時、香苗さんは看病と見舞いに毎日のように権左衛門さんの病室を訪れていたそうだ。権左衛門さんが死んでから香苗さんはずっと独り身で、歳を取り痴呆が進行してからこの医院に入院した。
更地さんに写真を見せてもらった。古いアルバムに収められていた、香苗さんと権左衛門さんの仲睦まじい様子が写し取られたその写真。
この人よ、と更地さんの可愛らしい指が示す男性。
全然。
全く。
これっぽっちも。
「似てないな・・・・・・」
「似てませんね・・・・・・」
確かに年齢と背格好は大体、先輩と合致するが、それだけだ。権左衛門という名が表す通りの東洋人顔。満君が成長した姿のほうがまだ似てるんじゃないかと想像できる。それにしても、と美籠は思った。こんなに若くに亡くなったんだ。写真の中で笑う青年は、どの角度から見たって先輩と同い年くらい。先輩と。
呼吸が一瞬、苦しくなる。
もし先輩が。
もし。
「この指輪か」先輩が写真を目線の高さに持ち上げて目を凝らす。「銀の・・・・・・ピンキーリングだな。装飾はないが螺旋型だ。ふむ、なかなかいい趣味をしている」
先輩は顎に手を当て熟考する。
更地さんは仕事があるからと戻っていった。
もそもそと毛布の下に入りながら思う。それはもしかしたら夢なのかもしれないと。香苗さんはボケているんじゃなくて、恋人が亡くなってもまだ、生涯を共にするという夢を追い求めて。
だけどそれは絶対に叶わない願いだ。
死んだ人とはもう逢えない。
あの世も来世も関係ない。仮にそんなものあったとしたって意味はないのだ。今、この時、この体で、同じ時を過ごせなければ。
それは二度と逢えないのと同じだ。
すっかり乾いてしまった昼食。先輩は写真を睨みながら箸を手に取って、
「っつ・・・・・・」
からんと床にお箸が転がった。美籠は上体を起こす。先輩は左手首を右手で押さえた姿勢で固まっていた。心なしかその左の指先は震えているように見えた。
近頃の先輩は、よく物を取り落とす。
「大丈夫ですか」
ベッドから下りようとした美籠を先輩の右手の平が制した。
「ちょっと攣っただけだ」
ちょっと。
先輩のちょっとはどの程度なのだろう、と美籠は思う。少なくとも、美籠が考えているよりは、ずっと酷い。
それよりも、と先輩は明るく言った。誤魔化そうとしているようで、でも嘘は感じない声音だった。「俺に名案があるんだが」
* * *
青白い世界。銀色の月明かりが静謐な夜に神秘的な雰囲気を与える。端々が風化した墓石が立ち並ぶ庭園。桃色の花が風になびいている。本当に、この花はこの医院のどこにでも咲いている。
今日は三日月だ。秋の夜長とはいえ、暗くなるのと明るくなるのが若干、遅いだけで、体感時間は夏とそう変わらないはずなのに、何だか今夜は時が止まっているみたいに感じた。月の位置がさっきから全然、動かない。眠いのにな。美籠は手の甲で目元を擦る。土で顔が少し汚れてしまったかもしれない。
靴に湿った土がかけられた。「わっ」美籠は思わずシャベルを振り回す。
「さぼるな! 上官を差し置いて! 下っ端はせっせと働け!」
上官とか首領とか先輩の自称はその日の気分によって変わる。大体、目的とは噛み合っていない。
美籠と先輩は、ただ今絶賛、墓荒らし中である。
美籠は膝を折って地面をシャベルの先で小さく抉る。「本当に見つかるんですか」
「婆さんの恋人はこの医院で死んだ。遺品は、ここに埋められているはずだ」
とても真剣な表情だ。何だかむきになっているようにも見える。こんなに必死な先輩は珍しかった。先輩はいつも何でも適当にこなしてしまうのに。意地を張るのは美籠の役目だったのに、調子が狂ってしまう。相手が感情的だと自分は冷静になったりするが、美籠は今まさにそんな状態だ。先輩も、もしかしてそうだったんだろうか。いやこの人は単にマイペースなだけか。
権左衛門さんが亡くなったのはもう六十年以上前のこと。お墓を探すだけでも大変だった。古い墓石に刻まれた名前が、砕けたり削れたりでほとんど読めなかったのだ。先輩のヘッドライトで一つ一つ確認し、やっと見つけた頃にはもう深夜をとうに過ぎていた。最初の幽霊騒動から半年近くたって、先輩の探索につきあうこと二桁を超えたが、先輩、全然、反省していなかった。美籠が倒れた次の調査ではさすがに気を遣っている感じだったが、それも行きだけで、帰りはやっぱり㝵乃さんに追われて全力疾走だった。そして今日、夏の事件を未だ引きずる美籠を、やっぱり無理矢理、駆り出して、穴掘りなんかさせられている。自分、そのうち本当に死ぬと思う。
ちなみに幽霊探索の結果は芳しくない。
それでいいと美籠は思っている。だってそうだろう。もし。もし、先輩の夢が叶ってしまって、そして。
そして。
お、と先輩が声を上げた。
美籠はシャベルをいじくる手を止めた。
泥だらけの先輩が、喜色に満ちた様子で言う。「見ろ、こいつだ」
墓石の横に掘り返された土。穴の中に大きな箱が埋められていた。棺だ。屍を入れる物と同じ棺。時代を感じさせる。もうほとんど腐っていた。スコップを放り投げ、先輩は躊躇いなく蓋を開けた。
パジャマ、日記、ハブラシなど、生前、この医院で使っていた物がたくさん埋葬されていた。虫が湧いている個所もあったが、先輩は勇敢にも手を突っ込んで遺品を掻き分ける。美籠は離れたところから見ていた。虫、嫌い。
三十分くらいそうしていただろうか。いい加減、美籠の眠気が限界に達した時、先輩がおもむろに身を起こした。その背中は丸い。「・・・・・・ない」
そんなはずは、と先輩は肩を落とす。
美籠はシャベルの持ち手の感触を確かめながら言った。「いいじゃないですか、なくて」
「・・・・・・何・・・・・・?」先輩が振り向く。月の光に晒される土埃に塗れた顔。長い前髪と汚れで表情は窺えない。
「見つけて、どうするっていうんですか。お婆さんに渡すんですか。そんなことして何になるんですか。また――」
そこで美籠は言葉を切った。
出てこなかった、と言ったほうが正しい。
また。
失ってしまうかもしれない。
夢を。
叶えたその先には何もないんだと、美籠は知ってしまった。
ただ虚しさが降り積もるだけ。
「俺は諦めんぞ」
はっとするくらい力強い声で先輩は言う。
「俺は自分の夢を諦めない」
だから他人の夢を、そんなふうに言うことは許さない。
だけど、と美籠は思う。夢は夢なのだ。現実とは、違う。
夢があるからここにいる、とかつて先輩は言った。この医院の住人は、夢を見ている。
あれ、と。美籠は気づいた。視界が揺れそうだ。だって。
美籠は夢を持っていないはずなのに。捨てたはずなのに。
とうに失くしたはずなのに。
どうして、ここにいるんだろう。
「お前だってそうだ」
美籠は顔を上げた。今度ははっきりと先輩の表情が見てとれた。
何で。
あなたが、泣きそうな顔をしているんですか。
「忘れてるだけだ。どこに隠したかわからなくなってしまっただけ。お前だってまだ生きてる。お前の、夢。そうだろう」
「そんなこと」
美籠は立ち上がった。美籠の身長では先輩の顔を照らす月明かりは遮ることができなかった。見たくなかったのに。そんな顔。しないで。お願いだから。
遠くに、感じてしまう。
とても遠くに。
「知ったふうなこと言わないで。先輩にわかるわけない。私のことが、先輩にわかるわけない」
自分でもわからないのだ。理解できない。自分自身が。どうしてこんなに胸が苦しいのか。お願い、先輩、そんなこと言わないで、そんな顔しないで。苦しくなる。悲しくなる。切なく、なる。
夢を見ないと生きていけないくらい。
私達は、弱い。
「俺は死なん」
美籠はジャージの裾を握りしめる。
「約束する」
その声は凝った美籠の心の縁を緩やかになぞり、そのままするりと離れていった。無理に踏み込もうとはしない。でも見放さない。それは優しすぎる。今の美籠には。贅沢だ。もったいない。
いいじゃないか、と先輩は腰に手を当て、
「夢を叶えて、それからまた、夢を見られるように、夢を持てるように。何とかしよう。俺と――」
先輩は言葉を区切って。
「美籠。お前で」
涙が零れそうだった。でもきっと、ここで泣いたら、また泣き虫だと笑われるから、だから、美籠は堪えた。瞬きをしないように力を込める。
「先輩」
「何だ」
「お腹がすきました」
先輩はきょとんとした表情をつくって、それから肩を揺らして笑った。美籠は結局、笑われてしまったのだった。
「差し当たっては」
先輩が悩ましげに腕を組み、
「やっぱりこれ、埋め直さなきゃ駄目かな」
手伝いませんからね。
その指の動きはまるで魔法だった。
粘土を細く伸ばしくるくると捩じる。木芯棒に巻いた付箋紙に巻きつけ、水を使って割れないように気をつけながら形を整える。ドライヤーで乾燥させること二十分。棒ごと付箋紙をゆっくり外し、やすりや耐水ペーパーで表面と内側を仕上げる。造形が終わったら、ガスコンロで強火五分。焼きあがりにステンレスブラシで真っ白の銀を露出させ、へらで光沢を出し、完成。
直毘先輩は本当に魔法使いだった。
馬鹿たれ、と頭を肘で小突かれる。「俺は芸術家だ」
螺旋状のシルバーリング。できあがったそれは、まさしく写真のそれと瓜二つ。普通、一発でこんなにもうまくいくものなんだろうか。先輩は何者かに愛されているとしか思えない。そんな不謹慎なことを考えてしまう。
「指のサイズは俺に合わせてしまったが、まあ問題ないだろう」
権左衛門さんと先輩は顔こそ似てないが、体格は同じぐらいである。先輩のがちょっと細長い印象だけれど。
早速、先輩は香苗さんを探しに出かけた。美籠は強制的に同伴させられた。真新しい銀の指輪を使って一体、どうするのか。先輩には何か思惑があるらしいが、美籠には教えてくれなかった。
香苗さんの部屋を訪ねたが不在だった。
担当の看護士さんに訊いたところ、昼過ぎのこの時間は散歩に出ているという。それは権左衛門さんの看病に訪れていた際、彼との日課だったそうだ。今は亡き愛しい人の姿を求めて、現在は庭を歩き回っていると。
美籠と先輩は中庭に出た。ざっと見渡してみるが、香苗さんの姿はない。老人を何人か見かけたがはずれだった。
秋の高い空に向かって、先輩は銀の指輪をかざす。
陽光を受けて煌めいたその輝きに目が眩んだ一瞬。
「な、に・・・・・・っ」
先輩が身を折って後ろに倒れた。ほんの刹那の出来事だった。
美籠は目を疑った。
猫に急襲をかけられる先輩の図。
タックルをかまされて体勢を崩した先輩の指から指輪が離れた。宙を舞う銀細工。あ、と美籠が伸ばした手の先を物凄い速さで影が走り抜け、指輪は忽然と姿を消した。
た、と軽やかな着地音。白猫の口に咥えられた指輪。
先輩がみけこさんと呼んでいたあの猫だ。
白猫なのに、みけこさん。
変なあだ名の報復というわけではないだろう。みけこさんはどや顔で意地悪く喉を鳴らすと、颯爽と走り去った。な、何だったんだろう、今の。
呆然とする美籠を叱りつける先輩の声。「ぼさっとしてないで追うぞ!」
「え、ええ?」
「やられる前にやれが俺のモットーだ!」すでにやられてるじゃないですか。
「どういうことだ、まさかみけこさんが裏切りを・・・・・・? そんな馬鹿な、みけこさんだけは、みけこさんだけは俺を欺いたりしないはずだ・・・・・・!」
つっこんでいいのか駄目なのか微妙なところである。
ばたばた走りだす先輩の後を、美籠はうんざりしながら追いかけた。やっぱり先輩には気遣いなんてできないんだ。たぶん生まれ持っての性質的に不可能なんだ。諦めるしかないんだ。美籠は小走り、先輩は全力疾走なので、彼我の距離はどんどん離れていく。やがて白のパーカーが視界から消えた。せんぱーい、と呼びながら、美籠の足はだんだん速度を失った。立ち止まり、辺りを見回して、溜め息。呼吸を整える。何だか薄暗いところに入ってしまった。敷地的に端のほうだとは思うけれど。手入れの施されていない茂みを掻き分けて美籠は歩みを再開する。先輩、と力なく呼びかけると、奥のほうから猫の鳴き声がした。
突然、目の前に猫じゃらしが投げつけられてきた「わ」美籠の鼻にぶつかって足元に落ちる猫じゃらし。
「それでみけこさんをおいてくれ!」
しゃがみこむ先輩の後ろ姿を認めて、美籠は猫じゃらしを手にその背に近づいていく。みけこさんと先輩は正面から対峙して、どちらも身じろぎ一つしなかった。隙がない。美籠は泣きたくなりながらその間に猫じゃらしをちらつかせる。みけこさんが飛びかかってきた。「わあっ」美籠は引っくり返る。
「そのまま捕縛!」
無茶な要求である。美籠はとりあえずみけこさんの暴れる体を抱きしめた。みけこさんはなぜか大人しくなって、寝転んだ美籠の胸に鼻の頭を擦りつけてきた。くすぐったいけれど、なんだ、人懐こい子である。さっきまであんなに激しかった気性が、萎びた風船みたいだ。
猫に懐かれる美籠を尻目に、先輩は何やら草の中を真剣に探る。ざらついた舌で顎を舐められて美籠が鳥肌を立てていると、先輩が大きな声で叫んだ。
「あった!」
美籠は起き上がりみけこさんを腕に抱きながら、蹲る先輩の横にしゃがむ。
そこには様々な小物が雑多に集められていた。生い茂る雑草に紛れたその一角。クリップやら鎖やらキーホルダーやら、統一性のない品揃えである。
「お前が集めたの」
美籠がそう訊ねると、みけこさんは喉をごろごろ鳴らした。とても古い物まであって、どれも土で汚れているためわかりづらいが、多分、元々は光物だったのだと思う。そうだ、先輩が銀の指輪を陽光に透かして、きらりと光って、みけこさんはそれに飛びついてきた。
先輩が少し汚れてしまった銀の指輪を拾い上げる。「全く。みけこさんはお茶目だな」
これは返してもらうぞ、と先輩はジャージパンツのポケットに指輪をしまう。
「しかしなかなか掘り出し物があるんじゃないか」
先輩はごそごそとみけこさんの宝物を漁りはじめた。怒るんじゃないかと思ったみけこさんは意外に大人で、珍しい物に目がない子供を見下すような顔で先輩にどやっていた。みけこさん、一体、何者。
先輩が小物の山を崩した拍子に靴の爪先に転がってきた輪っかを見て、美籠は目を丸くした。
すっかり黒ずんでしまって本来の輝きは失われているが、間違いない。
これは。
「せ、先輩、これ、この指輪――」
写真の権左衛門さんがつけていたもの。
本物だ。
道理で墓の下に埋まっていなかったわけである。どうやって手に入れたのかは知らないが、権左衛門さんの死後、何らかの経緯でみけこさんがこの指輪をコレクションに加えたと。
「何と!」先輩はみけこさんの鼻を弾いた。「みけこさん、あんたはやっぱり最高だ!」
先輩がどうしてみけこさんにこんなにも敬意を抱いているのかは謎であり、あまり理由は知りたくないと美籠は思った。
「もうちょっと教えてくれるのが早かったらベストだったな! うっかり創作に励んでしまった! だが良い! 抱きしめてやりたいくらいだぞ!」
手放しで称賛する先輩。美籠はみけこさんを腕ごと差し出す。
「なら抱きしめてあげたらどうです」
ところが先輩は身を引いてしまった。「いや、いい、抱きしめてやりたいくらいなだけで、抱きしめたいわけじゃない」
あれ。美籠はみけこさんの耳を撫でながら、「先輩、猫、好きなんですよね」
「嫌いじゃない」
「じゃあ別に――」
「いや、嫌いじゃないからこそ、だ」先輩は深刻な声で言った。吐き出す言葉は懺悔のように一つ一つが重かった。「俺は、その、加減が、できないから。な。どうにも、へたなんだ。すぐ物を壊す。だから、繊細な物には、触らないようにしている」
美籠はきょとんとしてしまった。触らないように。偉そうなくせに妙によそよそしい先輩の態度、その違和感が解けた気がした。そっか。ずっと胸にわだかまっていた、痛いような悲しいような感情がすとんと腑に落ちる。そっか。
嫌われているとまでは思っていなかったけれど。それでも、寧音乃ちゃんのこともあって。
先輩は、美籠が汚れているから、触りたくもないのだと思っていた。
なんだ。
繊細な物。
美籠が繊細かどうかは別として。
そっか。
「大丈夫ですよ」美籠はすっかり砕けたみけこさんを持ち上げた。「大丈夫です。先輩が思ってるより、この子達は強いですから。そんな簡単に壊れちゃったりしません」
だから。
先輩は視線を左右に彷徨わせたりして珍しく困惑したあと、恐る恐る、本当に恐々といった感じでみけこさんを受け取った。みけこさんはやっぱり、しょうがねえから抱かせてやるよといった感じのガキ大将な顔つきだった。
「おお」先輩は感嘆の声を上げ、みけこさんのお腹を優しく撫でる。「お、おお、何か、すごいな、うん」
徐々に調子づいてきたのか、先輩は膝に乗せたみけこさんの胴を両手で挟み目線まで掲げ、でもあんまり手荒に扱うと骨とか折れちゃいますという美籠の制止も聞かず、
「みけこさん、あんたはやっぱり最高だ。うん、いや、うん・・・・・・?」
先輩が首を傾げた。美籠もつられて首を捻る。
先輩の視線はみけこさんの後ろ脚の間に釘づけで。
「み、みけこさん、お前」
もふもふの毛に隠されたその真実。
「みけおさんだったのか・・・・・・!」
みけこさんは、雄だった。
道理で女である美籠にすんなりと懐いたわけだ。すっかり毒気を抜かれてしまった美籠は、この人語が通じる猫は一体、何歳なんだろうと、酸化して真っ黒になった六十年前の指輪を見て、ぼんやりと思ったのだった。
結局、夜になってから美籠と先輩は香苗さんの部屋を訪れて。
扉に寄りかかって所在なげに立ち尽くす美籠の前で、先輩は小指に指輪を嵌め、ベッドに横たわる香苗さんの手をそっと握る。
先輩の嵌める指輪は六十年前のもの。新しく作ったほうじゃない。グロスで磨いて、それでも取りきれない汚れが残る指輪。
香苗さんはまるで夢でも見ているみたいに飽和した笑顔で。言葉にならない思いを先輩の手を握りかえす指に込めて。ああ、あなた、やっと会いにきてくれたのね。ずっと待ってたのよ。そんなことを言う。
先輩は答えない。ただ香苗さんの痩せた手の甲を撫でる。そうして、右の小指に嵌めていた指輪を抜くと、そっと香苗さんの左薬指に通した。男性用のピンキーリングは、香苗さんの細い薬指にぴったり嵌まった。
俺は幸せだった。先輩は言う。だから、俺の分まで生きろ。これからは。お前の、人生を。随分と無駄に遣わせてしまったけれど。
香苗さんの頬を涙が伝った。行ってしまうのね。遠くへ。わかってたわ、と香苗さんは頷く。わかってたの。でもね、嬉しいわ。最後に会いにきてくれて。ありがとう。ありがとうね。
おやすみ、と一言残して、先輩は美籠を連れて部屋を出た。
「作戦終了だ」何の余韻もなく、のんびり背伸びをして廊下を歩く先輩。
先輩が権左衛門さんでないことに、香苗さんは気づいていたのかいないのか。それは美籠にはわからなかったし、先輩に訊ねるのも野暮な気がして、結局、黙って後をついていった。
「先輩」美籠は頼りないのに大きく見える彼の背中に言った。「ありがとうございました」
何がだ、なんて先輩はしらっと言う。
「元気出ました。すっごく」美籠は笑った。「へこんじゃって、すみませんでした」
今、思えば、先輩が急に指輪探しに乗り出したのは、美籠を励ますためだったのだと思う。先輩は誰よりも夢を大事にしているから。疑心暗鬼に陥ってしまった美籠を、沼の底から引っ張り上げようとして。何だかなあ、である。不器用にもほどがある人だ。これでは、傍から見たら美籠は先輩の我儘に振り回されただけみたいだ。
先輩が体を反転させて後ろ歩きしながら、ポケットから取り出した物を美籠に見せて、「これ、やろうか」
真新しいシルバーリング。
先輩が一から手掛けた物。
「ほんとですか!」
食いついた美籠に、先輩はいやらしく目を細めながら舌を出した。「嘘だばーか」
せっかく急上昇していた先輩の株が暴落した。二度と買うまいと固く決意する美籠である。
先輩は楽しそうに笑って、その顔はあまりに無邪気で。まあいいか、なんて思ってしまう美籠も、大概、馬鹿なのだろうと、そう思った。
夢。
夢を叶えた、その後。香苗さんは夢を見て、そしてまた新しい希望を持つことができたのだろうか。
今なら美籠は夢を見られそうな気がする。
できることなら。
この我儘で俺様で不躾で、でもとても明晰で誰よりも繊細な、彼と一緒に。