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井ノ川桜子

 高校の時は、立花さんって大人しいね、と、よく言われました。中学の時は根暗だと言われました。小学生の時は、殆ど口を開かないのと友達が居なかったこと、そして立花芳子という名前から、花子さん、と揶揄(やゆ)されていました。いじめ、というには遠巻きで、いじりというには面白味の無い俗称。あだ名。きっと悪意なんて微塵も無い、客観的な感想がそうだったのでしょう。学期末に配られる通知票には毎回のように「他の人ともっとお話をしましょう」と書かれていました。それが立花芳子たちばなよしこ、つまり私の事を表すのに一番正確な説明だと思います。


 私だって、危機感が無かったわけではありません。友達とまでは言わずとも気軽に話せる人が欲しいとは思っていました。そして何より、コミュニケーションが不得手では今の時代、就職しても難が残ります。だから私は、私の無口をなんとかするため、という名目で大学へ進学しました。やりたい事があったわけでもなく、成績も悪くなかったので、差し障りない進路だったと思います。


 けれど浅慮せんりょでした。大学に行っても気軽に話せる人なんて出来なくて、出来る気もしなくて、早々に諦めていました。友達が欲しくて自分から積極的に主張するのは、卑しい行為な気がして、何も出来ずに居たのです。


 井ノ川桜子いのかわさくらこと出会ったのは、とある秋の日でした。


 紅葉で飾りつけられた、大学の中庭にあるベンチにて、ヘッドフォンで音楽を聴きながら、一人で昼食を摂り午後にある講義について考えていました。そこへ、学食へ行こうとしていたのでしょう、数人の女友達を連れ立って私の前を通った彼女は突然立ち止まり、私を見るや否や呆然とし、そして目を見開きました。最初は私を見ているのだという事に気付かず、何の気無しにヘッドフォンを外して、彼女がいったい何を見ているのかと振り向いたり頭上を見たりしていたのですが、そうしている間にいつの間にか目前に迫っていた彼女は、なんの脈絡も無しに私の手を握ってきたのです。


 手入れが難しそうな、おでこ丸出しの短い髪の毛がもう既に私とは真逆の人間である事を伝えてきます。ぷっくらと可愛らしい唇は何故かわなわなと震えていて、ガラス細工を埋め込んだみたいにキラキラと輝く瞳はとても大きくて、私を吸い込もうとしているようで、どこか恐ろしく感じました。いえ、でも多分それは、私が単に人に慣れていなかったせいかもしれません。今になって考えれば、彼女、井ノ川桜子に対して恐怖を抱くなんて、ナンセンスも良いところでした。しかしそれでも、当時の私は恐ろしく感じてしまったのです。私の中で培われてきた今までの常識である「黙っていれば誰も近付いて来ない」という鉄則が、私を孤独にしていた世界のシステムだと思っていた決定事項が壊されてしまう、そんな予感がしてしまったのです。


 お母さんが作ってくれたお弁当が膝の上に置いてあり、動くに動けません。なので背筋を目一杯に伸ばして距離を取ろうとしたのですが、その分だけ彼女は詰め寄ってきます。連れ立っていた他の女性二人は井ノ川さんの後ろで苦笑いを浮かべていました。一人は額に手まで当てて「またか」と呟いていました。


 何が起きているのか解らなくて混乱していた私に、私の手を取っている彼女はこう言いました。


「美人のぼっちってほんとに居るんだ! てっきり二次元だけのものだと思ってた!」


 怒りと、恥ずかしさと、困惑と、ちょっとした嬉しさがい交ぜになって、わけのわからない感情になって、熱を帯びて胸元から顔全体にまで込み上げてきました。当時の私はきっと、本当に漫画みたいに赤面していた事でしょう。そんな状態で言葉を紡げるはずもなく、私はただ狼狽していました。


「なんでぼっちなの? 一人が好きなんだぜってやつ? いんやそれはもったいない。絶対もったいないよ。てかまじでぼっちなの?」


 まくしたてるように言われ、私はただ首を横に振ることしか出来ません。一人が好きなわけでも、私が一人でいたところで誰も損はしないと思うので勿体ないなんて事もまったくなくて、だから本当に一人なだけです。それが言えない時点で察して欲しいです。私は友達を作れない性格なのです。だから、そんなに無理矢理近付こうとしないで下さい。


 結局何も言えないままでした。思うだけです。唇はもたついているのに「あうあう」としか動きません。とにかく少しでも逃げるために視線を泳がせても、どこを見ても、中庭に居る人は皆こちらを見ていました。この時はまだ名前を知りませんでしたが、桜子がとても大きな声で話しているので、自然と視線が集まってしまうようです。そういう事実からも逃げるためには、俯くしかありませんでした。


 そして俯いた時にはじめて、お弁当箱が地面に落ちて、ご飯が駄目になってしまっている事に気付きました。あたふたしている間に落としてしまったようです。


「あ」


 思わず声を出してしまいました。すると同じようにお弁当箱が落ちている事にようやく気付いた桜子は「うわっちゃぁああ!」と大袈裟に飛びのいて、ああ、やっと手を離してくれた、と私が安心したら、すぐさま手を取り直されてしまいました。


「ごっめんほんとごめん! 食堂で奢る! 奢るから一緒に行こう!」


 私は首を横に振りました。ただ闇雲に、首を横に振りました。それ以外のコミュニケーション方法が思い浮かばなかったのです。


 その間に、桜子の後に居た二人が、落ちてしまった私のお弁当の片付けを始めました。「ばか桜子」「考え無し」と、その二人はどこか楽しんでいるようではありましたが、それにしたって私のお弁当の片付けを他人がしていると思うと、申し訳なさで頭がいっぱいになって、やっぱり喋れなくなりました。


 その時です。もう何をしていいか解らず、手振り足振りで距離を取ろうとする私を、桜子は突然、抱き締めてきました。


 人に抱き締められるというのは、もう何年ぶりになるでしょうか。親に抱き締めてもらえたのは小学生低学年までで、それ以降は一度も、誰にも抱き締められる事はありませんでした。だからこの抱き締められるという行為は数年ぶりであり久し振りという事で間違いはないはずなのですが、どうしてでしょう、私はその時、まるで初めて誰かに抱き締めて貰えたような、そんな錯覚に陥ってしまったのです。


 思考もテンションも迷子になってなす術が完全に無くなって、私はついに動くことを辞めました。もう足掻かなくて良いような、そんな気がしたのも確かです。


「ちょ、何やってんの桜子!」「それは唐突すぎ……」


 と、後の二人が呟きます。すると桜子は私を抱き締めたまま答えました。


「いんやー似たような子が身近に居たもんだから、思わずその子と同じようにしちゃった。てへ」


「てへじゃないって……」「自由すぎ」


 三人はとても仲が良いようで、やり取りに遠慮は見られませんでした。こういうふうに気軽に話せる人が居る、というだけでも羨ましいというのに、桜子はそれだけでは飽き足らず、こうして私に声をかけてきている。


 高慢だ、もしくは強欲だ、大罪だと、そう思いました。


 けれどそんな悪態を思い浮かべている割には、妙に心地好く感じるのは、きっと体温が上がっているせいでしょう。あとは、混乱し過ぎて感情があらぬ方向へ進んでしまっているのです。きっとそうです。そうに違いありません。


「二人とも、悪いけど先に行ってて。私は今日この子にご飯を弁償しなきゃいけないんだけど、見ての通り内気なのさ」


「あんたなんでそんな知った風なのよ」「その子の決定権、無視し過ぎ……」


 抱き締められたまま空を見ます。それくらいしかやることがありませんでした。雲の数を数えようにも、嫌味なほどに綺麗な雲ひとつ無い晴天が視神経を刺激するばかりで、目が痛くなります。


 その後も桜子と後の二人は少しのやり取りをした後、結局桜子の言う通り、二人は食堂のほうへ行ってしまいました。程なくして抱擁から開放された私はしばし呆然としていたのですが、桜子はさっさとしゃがみこんで、散らかったお弁当の片付けを始めます。一緒に落ちていた箸を使って、器用に、自分の手を汚さないように、けれど地面は少しずつ綺麗になっていきました。この子は何をしているんだろう、いったい何がしたいのだろう、と無為に考えているうちにその作業は終わります。


「さ、それじゃ行こうか」


 と、砂の着いたお弁当箱を私に押し返しながら桜子は言います。それを受け取った私の手をそのまま掴み、半ば無理矢理立ち上がらせられました。


「さっきから何聴いてるの?」


 私の手を引いて歩きながら桜子が聴いてきます。耳から外していたヘッドフォンから、今も微かに音楽が漏れていたからでしょう。私は掴まれていないほうの手でヘッドフォンを少し持ち上げ、何が流れているかを確認してから答えます。


「えっと、メレンゲ」


「あ、それ知ってる!」


 歩きながら振り向いて、桜子は笑いました。


「ラーメンのスープ飲むやつっしょ? めっちゃ有名じゃん!」


 それは有名なのではなくて常識だと思います。というツッコミが出来たら良かったのかもしれませんが、勿論そんな事は出来ませんでした。


 桜子に手を引かれながら、ヘッドフォンから流れる音楽に耳を傾けます。漏れ出るメロディーの乗せられる言葉を、鼓膜に焼き付けます。




 心の奥でうずくまってる キミの声は聞き取れない 隠れてたら見つけられるはずも無いだろう


 耳に押し当ててた手を離して ノックする音が聞こえたなら 怖がらずにさぁ 開けるんだ




 サビまるまるひとつ分の間を開けてから、今更とは思いつつ、私は言います。


「ううん、バンドの、メレンゲ、だよ……?」


 桜子は快活に笑って、「そっちかぁ、そっちは知らなかったぜぇい」と冗談っぽく答えました。






 中庭での出来事から一週間が経過したその日、私は疲れていました。何にというと、井ノ川桜子という女の子に疲れていました。


 彼女は私の何かを気に入ってくれたらしく、ことあるごとに、もしくは一日一回以上は声をかけてきて、「今度一緒にモールっちゃおうぜ」と、よく解らない誘いも受けました。よく解らないので、丁重にお断りしてしまいました。


「というわけで、ラジオっちゃおうぜ」


 全ての講義が終わった後、帰ろうとした私を校門前にて捕まえた桜子がいきなりそう言いました。


「……ラジオ、聞くの?」


「芳子ちゃんはラジオ、聞いてる?」


 私の質問はあっさりと流されて、次の質問が乗せられました。


「えっと、高校受験と大学受験の時に、聞いてた、かな」


 そんな私の返答に、桜子は「お」と好反応を示します。


「なかーまなかーま。実は私もラジオ聞いてて、なんなら毎日聞いてるレベルだよ」


「え、それって、仲間、なの?」


 聞いている、の次元に大きな隔たりがあるように思います。私は勉強の傍ら、気分転換に聞いていただけで、桜子はきっと趣味で好きで聞いています。それを仲間だと一まとめにするのは、少し気が引けました。


「そーゆーわけでラジオ好き同士、一緒にラジオやろうぜ!」


「え、無理」


 一週間前だったらこんなにも素早く答えることは出来なかったでしょう。自分でもそう実感するくらいの速度で否定していました。


「そっかー無理かぁ。なら私と同じじゃん! いけるいける! 大丈夫だって」


「それ、大丈夫なの……?」


 不安ばかりなのでやりたくない、というのが本音ですが、桜子がここまで興味を抱いている事なら、少し興味がありました。一週間たまに話すだけではありましたが桜子は開放的な性格で、とても解り易い子です。閉鎖的な私とは根っこから反対で、多分、だからこそ興味を抱けるのだと思います。


 桜子はどこか嗜虐的な笑みを浮かべて、「ラジオ芸名どうしよっかぁ」と聞いてきます。もう既にやる事は決まっているようです。緊張するのは嫌ですが、どうせ一回だけでしょうし、お喋り好きの桜子が殆ど話してくれるはずなので、私は隣にちょこんと座っているだけでしょう。あまり深く考えなくても良いかもしれません。


「芳子ちゃんって、今までどんなあだ名で呼ばれてたん?」


 芸名の参考にするための質問なのでしょうが、私には気の重い話題です。何を言ったらいいのかが解らなくて黙り込むと、それを返答の一種と判断してくれたらしい桜子は私の肩を叩きました。


「嫌な記憶は楽しい記憶で埋めちゃおうぜっ。今までで一番嫌だった名前をラジオネームにして、開き直って笑い話にしちゃうって寸法。じゃあ私は、高校の時に桜子からとって『なんか色々とわざとらしい』『存在が白々しい』という意味で呼ばれていた『さくら』で行っちゃうぜ。あ、ちなみにこれ、出会い系とかライブ会場に出現する、あの『サクラ』が元だから」


 私が思うに、そうやってあけッぴらに公表できている時点でそこまで嫌な思い出では無いと思うんです。


 でも、なら私だって、小学生の時の事を気にしているわけではありません。一人に慣れて、というよりも、一人で居ることが当たり前だった私にとって、あの過去は忘れたい過去なのではなくて、どうでもいい過去というやつなのでしょう。


「……はなこ」


「ん?」


 聞こえなかったようで、桜子は耳を傾けてきました。自然と肩が触れ合って、彼女の体温が伝わってきます。


 温かい、と、そう思いました。


「花子。根暗で喋らないから、幽霊みたいだって。トイレの花子さんになったの。立花芳子の中にも丁度、花と子が入ってるから」


 思ったよりもすらすらと言葉が出てきて、自分でも驚きました。私自身が驚いているのだから、桜子はきっともっと驚いてる。そう思って横を見ると、目と鼻の先にある桜子は、満面の笑顔を浮かべています。


 途端に恥ずかしくなって、一歩横にずれました。すると少し体制を崩して、桜子は「おっとっと」とわざとらしくおどけます。本当に、わざとらしくて白々しい。その白々しさが面白いと思ってしまうのですから、不思議なものです。


「根暗で喋らないから幽霊みたいな花子さん、うーん、ネーミングのセンスとしては悪くないけど、やっぱ小学生だねぇ。芳子ちゃんには合わないぜ」


 体制を立て直して、どうして拳を握って親指を立てて、楽しげに主張されました。そうでしょうか、私は、小学生の頃の私には、なかなかどうして相応しいあだ名だと思いましたが。


 それでも桜子は、私の髪に触れて、一房持ち上げて、撫でながらこう続けました。


「奥ゆかしきは花の代名詞なんだぜ。その花は奥ゆかしい。奥ゆかしいそれは花だ。奥ゆかしいと花はイコールで繋がってる。だって花はどれも綺麗なのに、美しいのに、自分から主張はしない。私はここで咲いてるぜって叫ぶ花なんて無い。見つけた人にしか解らない魅力。奥ゆかしき花。――花子。うん、ぴったしだ」


 そう言われて、気付いてしまいました。私は過去を、どうでもいいと言いながら、そう自分に言い聞かせながら引き摺っていたのだと。


 気軽に話せる友達が欲しいと言っておきながら過去を繰り返すのが怖くって、だから自分から声をかけられなくて。


 自分を客観的に見るふりをして痛みとか苦しみとかを遠ざけて無視するようにしていただけで、本当は辛くて。


 友達が欲しくて積極的になる事が卑しいだなんてのはただの言い訳ですよと、全然卑しくなんて無いんですよと、積極的に声をかけてくれた桜子が言葉にせずとも伝えていて。


 でも、勘違いしてはいけない。


 桜子は、私だから声をかけてくれたわけじゃない。興味本位で私に近付いている彼女にとって私は、沢山居る友達の中の一部でしか無い。しかもあんまり話さないというハンデ付きの友達。桜子がその気になれば、きっとすぐにさよならです。


 嫌だ。


 私にはやっぱり、積極的に他人と話すなんて出来ない。だから、桜子という人と離れたくない。彼女には沢山居ても、私には彼女しか居ない。


「……うん、ありがとう」


 俯きながらそう言って、でも、頑張って顔を上げようとしたら息が苦しくなって、仕方ないから俯いたままで目だけ上げて桜子を見てから、続けて言います。


「その、ラジオって、どうやるの?」


 確認すると、桜子は白い歯を出して、待ってましたと言わんばかりに、夢みたいに楽しそうな計画を語り始めました。

 作中に出てきた歌詞は『メレンゲ』の『スターフルーツ』をお借りしました。

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