君の名
十月三日。金曜日。予想外に混雑していた道路にイライラしながらもなんとか仕事を終えて会社に戻ってきたのは、定時を大幅に過ぎた夜の八時だった。今日は予想外に道路が混雑しており、俺が運転しているトラックは何度も立ち往生していた。それでも無事に全ての荷物を全ての場所に届けて、ようやく帰ってきた俺を待っていたのは、不機嫌そうな狐目の上司だ。
「納品時間を過ぎたと、先方から連絡があったんだが、どういうことかな?」
トラックを駐車場に置いて、事務室に鍵を置きに来たところで、ばったりと出くわしてしまった。靴の泥跡がへばり付いて建物の中とは思えないくらいに汚れたリノリウムの床。心なしか薄暗いその場所は、お世辞にも居心地が良いとは言えない。まさかこんな場所で説教をするつもりか、という不満は勿論あったが、いつもの事だと諦めた。
納品が遅れた言い訳ならばある。俺が使った高速道路で事故が発生し、しかもそれが結構大きな玉突き事故で、都合の悪いことにレッカーも通れない状態になり、高速道路は大渋滞。車の流れは完全に停滞し、だからといって途中で一般道路へ逃げようにも出口までが遠く、かなりの時間を食ってしまったのだ。そもそも高速道路から外れてしまえば、途端に知らない道へ降りる事になる。それで迷ってしまえば、荷物を届けるどころか俺が帰ってこれなくなる可能性だってあるのだ。その事を説明してみたところ、帰ってきたのは呆れたような溜息だった。
「事故ならそれと解った時すぐ出口を探して一般道路から抜ければ良いだろう。我々は運搬のプロだぞ。道に迷う可能性なんて最初から潰しておけ。今日高速を使って宮城まで行くのは事前に解っていたのだから、高速を使えなくなった時の非常ルートくらい調べておけ」
それは無理な提案というものだ、とは、内心だけに留めた。この上司にそんな事を言ったところで不毛だ。不毛なのはあんたの頭皮だけにして欲しいという陰口を叩かれるくらいには憎たらしいやつで、当たり前のように部下からは嫌われている。ここで俺が「運搬のプロというには給料が少ない」という皮肉を言えたら同期達の中で英雄になれるかもしれない。
「すみません」
不満も不安も不服も全部押し殺して、何も感じないように意識しながら頭を下げる。謝りたくなくても謝らなければならないこういう時、自分が機械になったかのように体が勝手に動くのだから便利なものだ。だから人は労働者を社会の歯車だと揶揄するのだろう。
「謝れば済む話では無い。いいか、これは先方とうちとの信頼関係の問題なんだ。たかが時間だと君は思うかもしれないが、その時間を守ってこそ信頼は勝ち取れる。今回君はその時間を守らなかった。信頼を勝ち取れなかった。解るか? 君は先方と私の期待をいっぺんに裏切ったんだよ」
頭を下げたまま、後ろで組んでいた手に力が入る。右手で左手首を手錠のように強く握り、今にも殴りかかりたいという衝動を心の内に閉じ込めるが、俺の器では隠しきれないようだ。唇を噛みながら「すみません」ともう一度呟くと、その言い方が気に食わなかったのか、ハゲ上司……もとい狐目の上司は声を荒げる。
「なんだ、その態度は! 解っているのか! お前は今日失敗した。だから私に怒られているんだぞ! 反省する気が無いのか!」
その後、ヒートアップしたそいつを止める人間は居らず、小一時間に渡ってそんな感じの言葉を繰り返された。反省も何も、事故さえ起きなければ俺だって時間道理に運搬出来た。いったい何を反省しろと言うのか。事故が起きる前に事故を察知しろ、なんて超能力じみた芸でもしてみせろと、こいつはそう言っているのだろうか。
何度「すみません」と言ったか解らないが、怒鳴りつかれたらしい狐目の上司が退勤するまで心を殺し続けていた。やっとこさ解法された時には九時を過ぎている。ああ、近所のスーパーが閉店してしまった。貯金があるとはいえ基本的に貧しい生活をしている俺にとってスーパーを逃してしまうのは金銭的にきつい。コンビニにするかすき屋で牛丼の並にするか考えながら自分の車に戻り、しかしすぐには出発せず、車の中で呆然とする。
思い返すのは三日前のラジオだ。
四年といくらか前に突如として放送を終了したラジクラのパーソナリティー、井ノ川桜子ことさくらが、またも突如としてチャンネル六十一をジャックして、しかしラジオをするわけでもなくただ一言、『あすなろ公園で待っている』と言った。あれは考えるまでもなく仲間達、つまり一緒にラジクラのパーソナリティーを努めたメンバー達へのメッセージだろう。ということは、あのラジオのメンバーは今はバラバラになっているという事だろうか。あんなにも仲が良さそうだったのに。
いや、仲が良いからその縁がずっと続くとは限らない。不仲が生じたわけじゃなくても、人と人の縁は切れてしまう。三日前まで付き合っていた香奈とだって、喧嘩もあまりせず、ちゃんとした信頼関係を築けていたと思う。こういうストレートは言い方はあまり好きでは無いが、俺は香奈を愛していたし、香奈も俺を想ってくれていた。ただ俺が待たせ過ぎた。だから俺達の縁は終わった。結局、何が縁の切れ目となるかは解らないのだ。ラジクラのメンバーだってそれは同じだろう。
一緒にラジオをやっていた。けれど何かが起きてメンバーがバラバラになってしまい、放送を終わらせざるを得なくなった。四年以上が経過した今になって再会したくなり、ラジクラが使っていたチャンネル、六十一番にて呼びかけをした。これは俺の勝手な仮定であり妄想でしか無いが、もしこうだとしたら俺はお呼びでは無い。だから俺はあすなろ公園へは行かない。行ったところで、集まった人達に「お前誰だ」と聞かれて気まずくさせてしまうだけだ。それは俺も忍びない。
車の窓から空を見上げる。夏に比べると星が鮮やかに見えるが、それにしたって頼りなくちかちかと瞬くばかりで、数も少ない。
綺麗だと思うには、少し虚しい景色だった。
調べたところ、呼びかけの放送は一日三回行われているようだった。夕方。夜。深夜だ。夕方はラジクラが放送されていたのと同じ時間帯だった、というのは、何かの皮肉か、それともただの偶然だろうか。
行くつもりは無いがそれでもラジクラが好きだった俺としては、今彼等がどうなっているのか、少し気になった。聞いている人は誰も居ないとは思いますが、という前置きから始まり『十月十日の午前零時。あすなろ公園で待っています』とだけ告げて終わるラジオ。その声を聞くだけで彼女達とほんの少しでも関われているような気がして、だとしたらまた、俺が前に進む勇気になってくれるんじゃないかと期待して、ラジオから吐き出されるのが淡白なノイズに戻ると途端に我に返るのだ。あのラジオに縋っている自分の弱さとか醜さとか意地汚さとか、そういうのを実感して、息苦しくなる。
上司に怒られたこととか、香奈と別れたこととか、そういうのを引き摺ったまま、十月十日は訪れた。俺には関係無い日ではあるが、もしさくらの呼びかけに誰かが答えて再会して、またラジクラを再開してくれたら、という妄想と、この日が終われば呼びかけの放送すらも終わるかもという予想が二律背反を起こして、ノイズ音と共に頭の中に流れ込んでくる。
「ほんと、駄目だなぁ、俺は……」
今日もまたトラックの運転をしながら、ノイズ音を吐き出すラジオを着けていた。今日は少し遠出だったが、今は夜の九時。高速道路も怖いくらいに空いているし、この調子ならおそらく、今日中には帰れるだろう。そろそろ二回目の呼びかけ放送が流れる頃である事をなんとなく確認しながら、しかし一台の車も通らないという快適過ぎる高速道路の状態にややテンションを上げて、さらに強くアクセルを踏み込んだ。
そこでふと、車のライトに照らされた人影を見つけた。
高速道路のわき道を、人が歩いている。白いワンピースを着ているようだが、正直、怖いと思った。なにせここは高速道路なのだ。人が普通に歩いているはずが無い場所で、その影は肩を落としてとぼとぼと歩いている。その歩き方と腰まである長い黒髪が、余計にあれは幽霊なんじゃないかと思わせた。
通り過ぎよう。と頭では考えているのに、怖いもの見たさか、それとも彼女と別れたばかりで女性に対して節操が無くなっているからか、アクセルから足を離していた。余韻でいくらか走り続けて、その後姿が近付いてきたところでブレーキに足を掛ける。俯きながら歩くその女性の横で停車するようにして踏み込んだ。
「こ、こんなところで何してんの」
窓を開けて上半身を出し、裏返りかけた声で問い掛ける。すると女性はびくんと浮き足立って、後ずさりながらこっちを見た。遠目にはお洒落着に見えた白いワンピースだが、近付いてみると全然。アウトドア向きの軽い素材で作られた、動き易さ重視のワンピースだ。足元もスニーカーどころか運動靴である。長くて真っ直ぐな黒髪に大きいが自己主張の少ない瞳、白い肌、と、清楚と言うに相応しい外観にはそぐわない服装。そのアンバランスさを見て、怖いもの見たさと恐怖心は消えてしまった。それ以前に、俺よりも向こうのほうが怯えているという始末だ。
「え、あ、あの、え……?」
一歩、二歩と後ずさり、しかし視線は俺を捕らえたまま。胸元で組んだ両手は何かに祈っているようにも見えた。二十台前半くらいに見えるが、その仕草は親元を離れられない子供のようだった。
俺は慌てて両手を上げ、敵意とか害意は一切無いことを主張する。
「ここは高速道路だ。車用の道。そんな場所を徒歩で歩いてたから、どうしたのかなって思ってさ。ほら、だって、なんていうか、普通の状況じゃないというか、なにか、困ってるんじゃないかなって」
とにかく伝えるべきことを伝えようと意識しすぎて、やや早口になってしまったかもしれない。女性は未だ怯えた目のまま、しかし露骨に後ずさることを辞める。止まった足がこちらを向いたところで、少し警戒心を解いてくれたのかな、と、俺のほうも安堵した。
「行きたいところがあるなら、乗ってく? えっと、こんなところを歩くよりは、安全だと思うし」
今度は早口にならないよう、ゆっくり言う。だが、今度はゆっくりにし過ぎたのではないかと怖くなった。そのせいで鼓動が早まる。知らない女性に自分から声を掛けているというあり得ないシチュエーション。緊張しないほうがどうかしている。
「え……と……」
女性はしばし狼狽していた。胸元で組んだ手はそのままに、俺を見て、何故か空を見て、トラックの後方を見て、そこでようやく胸元の手が離された。
「でも、お仕事中ですよね?」
そういえば、トラックの後には俺が勤めている会社のロゴが入っているのだ。俺がどこの人間なのかもバレてしまったし、そうなると自然、仕事中だという事も解ってしまうのだろう。
「仕事中だけど、あとは帰るだけだから。高速の出口くらいまでは送るよ」
何があったかは知らないけれど、ほっとくと寝起きが悪くなるのは間違いない。そもそも事実として帰路のついででしか無いのだから、俺にはなんのデメリットが無いのだ。あとはこの女性が警戒を解いてくれれば、一夜限りの一期一会となり、そして本当にどこかしかへ送って終わる。トラックの運転手は一人で居る事が多く一人には慣れているが、別にずっと一人で構わないというわけではない。思えば香奈と別れてから、一度も女性と話していないかもしれない。そういう都合もあるため、自分が使っているトラックに他人を乗せる事はおかしな事では無い。同期や上司にはヒッチハイクを乗せてやったぜと時代遅れな自慢をしてくるのも居る。
「……いいんですか?」
彼女が立つ道路と俺が座る運転席に高低の差があるせいだろう、上目遣いでもって問われて、そこはかとなく気まずくなり目を逸らしてしまう。綺麗な女性だ。可愛い女の子とも言えるかもしれない。そういう見た目レベルの高い人を俺が見つめる、というのは、申し訳ないことのような気がした。ハンドルを強く握って、小さく頷く。
「助手席、乗って」
クールを装ってそう言ってみるが、思えば既に裏返った声だの早口だのを披露してしまっている。かっこつけても今更だった。
ハンドルのほうを握って前だけを見つめていたら、トラックの前を小走りで渡る。助手席が反対側にあるのだから当たり前の行動だが、たったそれだけの行動に、妙な謙虚さがあるように思えた。
女性が助手席に乗りながら「お願いします」と言ってくる。シートベルトをするのをミラー越しに確認してからアクセルを踏む。
会話をするべきか少し迷った。いや、会話はしなければならないのだ、目的地くらいは聞かなければいけない。しかし、ただ乗せるだけだと、俺はともかく、この女性はどう思うだろう。何か気の聞いた台詞を、例えば「綺麗な女性と話せるから、対価としてどこへでも送っていくよ」みたいなジョークでも言うべきだろうか。いや、辞めておこう。というか、考えているだけで言えるはずが無い。
「それで、どこに送ればいい?」
目下差し障りの無い、というよりも事務的な質問をする。
女性は答えた。
「S県のD市に行きたいので、その近くの出口で降ろして貰えると、とても助かります」
「……え、D市?」
思わず、聞き直してしまう。地元でも職場でも無いのに、最近よく耳にする地名。
「まさかとは思うけど、あすなろ公園って知ってる……?」
バックミラーで助手席を見ながら確認すると、女性は小首を傾げた。知らない、という反応ではなく、どうしてその場所を? というような、難しそうな表情をしている。
「えっと、あすなろ公園は、今から行こうとしている場所ですが、」
「君、名前は!?」
思わずブレーキを踏み、トラックを停めてしまう。その女性が言おうとしていた言葉を遮って、体をその女性へ向ける。
女性は「ひっ!?」と小さな悲鳴を上げて、またも胸元で両手を組んでいた。癖なのだろうか。シートベルトで動きづらいだろうに頑張って距離を取ろうとしている様を見て、落ち着け、と、俺は自分へ言い聞かせて姿勢を戻す。
「俺の名前は服部正也。君の名前は?」
もう一度、冷静を装って聞き直す。だが、心臓は今にも破裂しそうだし、額に垂れた冷や汗は、止められそうにない。
「えっと、その」
女性は、今度は怯えたように、ではなく、どうしてそんな事を? というようなでもなく、どこか気恥ずかしそうに小首を傾げて苦笑する。
「私の名前は、立花芳子です」
十月十日。虚しい星空の下で、俺は奇跡と出会った。