ノイズ
煙草の煙を吐き終えてもなお、白い息が続いていた。闇夜へ溶けていくそれを見届けてようやく、肌寒い季節が来たのだと実感する。高速道路の休憩所にトラックを止めて、灰皿に溜まっていた吸殻を捨てるついでに、喫煙所で一休みしていた時の事だ。
思えばもう十月で、今は夜の十一時だ。寒くないほうがおかしい。仕事で疲れて体温が上がっていたせいか、寒さに鈍くなっていたようだ。疲労とはおそろしいものである。だがそれよりも、今がもう十月だと忘れていた事のほうがよっぽどおそろしいかもしれない。仕事に追われて惰性で日々を過ごしていた事も、同時に自覚した。
辺りは自分が停めているトラック以外は何も無く、土産屋も全てシャッターを降ろし、街頭が寂しく瞬いている。死に遅れた羽虫がその光に集まってなにやら楽しげに羽ばたいている様は、未だ仕事中の俺に対するあてつけかとさえ感じた。腹いせに街頭のひとつを蹴ってみるが、虫達は構わず羽ばたいている。
何をやってるんだか、と、口の中で呟いて、吸い込んだ煙草の煙を一緒に転がしたところで、ズボンのポケットに入れていたスマートフォンが振動する。取り出して見てみると、交際相手、香奈からの電話だった。
通話ボタンを押して、スマートフォンを耳に当てる。聞き慣れた香奈の第一声は「今なにしてる?」という、不安げな確認。
何かあったのだろうか、と、自然と眉根に力が入る。
「今は仕事中。といっても、あとは会社にトラック返して帰るだけだけど」
運搬会社に勤めている俺にとっては、自然で、当たり前の返答。しかし彼女は儚げに、今にも消え入りそうな声で「そう」と答えるだけだった。何かがあったのは、もはや確認するまでも無いようだ。
「どうした? 職場で何かあったの?」
話を促すためにそう問うが、言い難い事なのか、受話器の向こうから流れてきたのは沈黙だった。
短くなっていた煙草を休憩所の灰皿でもみ消し、柱に寄りかかって、話を聞く準備をする。真面目な話なのだとしたら、トラックを運転しながら聞くのは失礼だと思ったのだ。親しき仲にも礼儀あり。かれこれ四年近くも交際を続けているとはいえ、それは変わらない。
その沈黙が破られたのは、俺が煙草の火を消してからたっぷり十秒は置いてからだった。
『私達、付き合い始めてけっこう経つよね』
今しがた頭の中で確認したばかりの事を問われ、嫌な予感がした俺は喉を詰まらせながら、そうだね、と答える。それから再びいくらかの沈黙が訪れた後、彼女は言った。
『えっと……まだ、結婚とか、考えてない?』
その言葉に、ぎくりとした。一瞬とはいえ思考が止まったせいで、今度は俺が黙る番となる。
俺も彼女も、付き合い始めた頃は二十歳中盤だったが、それから三年半が経った今は、もう二十台を終えようとしている。世間で言われている女性の平均結婚年齢が二十八歳から二十九歳に更新されているとはいえ、その平均値は再婚も含めた平均値だ。結婚経験の無い人間にとっては、焦りを抱いて然るべき状況なのかもしれない。故にこそ彼女の請求じみたこの問い掛けは自然な事で、俺が抱いている問いに対する焦りのほうが不自然な事なのだろう。
「ちょっと、ちょっと待ってほしい」
誤魔化すようにそう言って、少し言い訳を考えた。とはいえ、この話題は今になって初めて上がったものでは無い。以前にも、彼女の親に急かされ、同じような問答をした事がある。だから俺は、その時の返答をそのまま利用する事にした。
「今はまだ、経済的に難しいというか、今家庭を築いても、支えられる自信が無いんだ。だから、もう少し給料が良くなるまでは」
『それは前にも聞いた』
使い回しが気に入らなかったのか、その言い訳は途中で打ち切られてしまった。しかも都合の悪い事に、以前この言い訳を使ってから、俺が二度ほど昇給している事も香奈は知っている。それでもまた同じ言い訳を使った事に対して、香奈は冷めきった怒りと、呆れ帰った悲しみを声音に乗せてきた。
『結婚、してくれないの? ……したくない?』
言い直された言葉が、喉に突き刺さるような錯覚を感じた。そのせいで呼吸も止まりかける。
俺だって結婚したくないわけではない。ある程度なら貯金もある。だが、ある程度の貯金と運び屋のなけなしの給料で家族を支えられるかと聞かれれば、俺は頷けない。勿論職場に既婚者は居るが、その人は共働きで稼いでいる。時代錯誤と思われるだろうが、俺は嫁に働かせるという事に抵抗を覚えてしまうのだ。だから、自信が無いため待って欲しい、というのは、他ならぬ本音なのである。
それでも、その事を繰り返して言ってやれなかった。香奈をより幸せにしてやるための準備期間なんだ、という漫画みたいな口説き文句は頭の中で何度も繰り返されるばかりで、口から先どころか喉元にさえ込み上げて来ない。なんでもいいから言葉に出そうとして口を開いても、冷たい吐息が白くなって、空中に溶けて消えていくばかりだ。
『そう。解った』
俺の沈黙をなんらかの返答と取ったらしい彼女は、震えた声で続ける。
『なら、別れよう』
その言葉は、頭のどこかで予想していた言葉だった。だから驚いたわけではない。ただ、彼女のこんな弱りきった声を出させてしまっている不甲斐無い自分があまりにも惨めで、その言葉を拒絶してやれない情けない自分があまりにも恥ずかしくて、白い吐息と一緒に空に溶けて消えてしまいたいとさえ思った。それでも言葉は出てきてくれないのだから、真性のかっこ悪さだ。
『……もう、待てないよ』
そんな彼女の言葉を最後に通話は切れて、入れ替わりに無機質な機械音が鼓膜に触れる。
服部正也二十九歳。彼女に振られた。その事実を呑み込めたのは十分ほど立ち尽くしてからで、その間ずっと、定期的な感情の無い音が、からっぽな頭に響いていた。
トラックに戻ると、途端に肌寒さを感じた。外に居たせいで体温が冷えたのか、外の寒気に車体が冷えたのかは解らないが、外に居るよりもずっと寒いと思った。気晴らしにとオーディオを着けるが、トラックに置いてあるCDはどれも聞き飽きてしまっている。この時間にやっているラジオも、俺好みのものは無いと、経験則で解る。それでも俺はオーディオをラジオに切り替えて、チューナーをいじり、六十一番にセットした。聞こえてくるのはノイズの音だけだが、未だに脳内でリピートされ続けている通話が切れた時の音を掻き消してくれるような気がして、どこか心地好かった。
淡い期待も勿論あった。もしかしたら、もしかしたらまた、この番号であのラジオが始まるかもしれないという、そんな奇跡が起こるかもしれないという期待だ。
あのラジオ。『D大学ラジオクラブタイム』略称『ラジクラ』は、ラジオ好きの初心者がそれっぽくラジオをやろうとして、結局好き勝手に進行していくという、ぐだぐだとした番組だった。いや、番組とは言えないだろう。あれは正規の番組なんかではなく、それこそ使われなくなったスペースを乗っ取って始まったジャックラジオだったのだから。
俺はそのラジオが好きだった。
最初聞いたのは偶然で、フリーターとして自堕落な生活を送っていたために他人よりも時間を持て余していて、しかし金銭的な余裕は無くてテレビも買えず、暇つぶしにラジオを着けている時間が長かったために見つけてしまったというのが始まりだ。思い返すとしょうもない理由である。そんな偶然と惰性故に出会った番組だが、俺は好きになった。「俺にもこんな時代があった気がするなぁ」と、そんな古くも無い学生時代の記憶を呼び覚まし、現実逃避していた。
だが、毎週行われたそのラジオのおかげで、俺は就職を決心出来た。無事に短大を出たが就職活動には失敗し、不貞腐れていた俺だが、もう一度立ち上がる事が出来たのだ。大袈裟なんかではなく、全部あのラジオのおかげだった。
それだけではない。そのラジオのおかげで就職し、金に余裕も出てきた頃、友人に合コンへ誘われた。そこで出会ったのが、さっき別れたばかりの彼女、香奈だった。
基本的に自分からアプローチする事の出来ない俺だったが、香奈に一目ぼれした俺はなんとか、アドレス交換まではする事が出来たのだ。そういう色恋すらも、あのラジオのおかげだったと言える。そのラジオが好きだったからこう思えるのか、こう思っているからそのラジオを好きであり続けているのかは、もう、決して解らないけれど。
ともかくとして、ラジクラがあったおかげで、俺は就職してまっとうな人間となり、恋人まで出来た。パーソナリティーのさくらとはなこには、感謝してもしきれない。
今もラジオが続いていたなら、と考えてしまう。
今もそのラジオが続いてくれていたのなら、俺は今、どういう生活をしていただろうか。どうなっていただろうか。事ある毎に変わるきっかけになってくれた、前へ踏み出す勇気となってくれたそのラジオは、今はもう、どの番号に合わせたところでやっていない。
目を閉じて思い出す。
ラジクラの漫才みたいなボケをかますさくらと、ツッコミなのか本気なのか解らないがとにかく狼狽してばかりだったはなこと、そして、少しずつ、一人ずつ増えていったパーソナリティー達の声と、その特徴を。
天真爛漫な言い草は勿論、大学生とは思えない幼さを宿した声と自由な発言。さくら、こと井ノ川桜子。
物静かな声音と慎重でゆっくりとした口調。はなこ、こと立花芳子。
この二人を先頭に、パーソナリティーは最後は五人になっていた。増える度に盛り上がりを増して、盛り上がる毎にカオスなラジオとなる。そういう、適当で、若々しくて、青くて愉快な会話を思い出す。
そのジャックラジオは放送時期の後半から、メールにてネタ募集もするようになっていたのだが、俺は数回ほど、投稿している。俺以外にも何人か視聴者が居たようだが、殆どが身内だったらしい、そのような事をラジオ内でも言っており、さくらがいつも「このラジオネーム『根がもうネガティブ』さんは誰の身内かなーん?」とネタにしていた。ちなみに『根がもうネガティブ』とは俺が使っていたラジオネームである。ツッコミを入れていたのは『きっきー』こと野村一樹。「茶化すなそして詮索すな」が毎度、彼の決まり文句となっていた。
何分考え込んでいたかは解らない。それでも、このまま過去の事を思い出していても帰れるわけでは無い。このままトラックで眠って朝を迎えて、普通に出勤してトラックを使いまわす、というのも悪くないと思った。しかしこの寒さでは風邪を引いてしまう。やはり一度帰らなければまずいだろう。
現実逃避から現実へ戻ってくるが、ラジオは未だにノイズを吐き出すばかり。当然だ。このチャンネルは、使われなくなっているからこそ学生達がジャック出来たのだから。その学生達が、さくらやはなこがラジオをやらなくなってからは、ずっとノイズを吐き続けている。きっとこの先もそうだろう。何年先も、何十年先も、この番号は使われる事なく、誰もこのチャンネルに合わせることなく、いつしかこのノイズも、そのチャンネルは学生達がジャックして使っていたのだという記憶と共に消えていく。
なんの通知もなく、なんの予告もなく前触れもなく、いつのまにかノイズに変わっていたチャンネル。ラジクラが終わってしまった理由を俺は知らない。もしかしたら警察か学校かにチャンネルをジャックしているのがバレて怒られたのかもしれない。そういう事にして俺は納得している。
いや、納得は出来ていないかもしれない、納得しているのなら、ラジクラが終わってしまった事をちゃんと認識しているのなら、そもそも事ある毎にこのチャンネルに合わせたりはしない。一年も続かなかったラジオを俺は、放送しなくなってから四年以上が経った今でも忘れられずに居る。そのラジオは、俺の中では未だに終われずに居るのだ。
もしも。
もしもそのラジオが続いていたなら、俺は香奈との結婚に踏み出せたかもしれない。前へ進む勇気となってくれたあのラジオなら、俺に結婚する甲斐性を与えてくれていたかもしれない。
解っている。これは言い訳だ。就職も恋人も、全てあのラジオのおかげでできたから、俺が前に進む時には必ずあのラジオがあったからそう思ってしまうだけなのだ。あのラジオが進む勇気になってくれたとしても、進むのは結局俺自身。だから、前に進めなかったのは全て俺の不甲斐なさ故だ。
そうやって自分に言い聞かせ、呑み込むために唇を噛んだ時だ。
『それでいいの?』
どこからか、そんな声が聞こえてきた。その声はラジクラのさくらの声に似ていて、ああ、俺はついに、幻聴での自問自答を始めたのか、と、あまりの痛さに失笑が漏れる。
それでいいんじゃない、それしか無いんだ、と、自分に言い聞かせ、そのまま笑う。
だが、
『でもこれ、違う気がする』
再び聞こえる声。やはりさくらのそれに似ている。何かを探るような声は、どこからともなく聞こえて、そしてどこへともなく言葉を続けた。
『違う、これ絶対なにか違う。だってランプ赤くなってるし。……え、ランプ赤いと放送中ってこと……? 待ってこれもう始まってる!?』
突如、その声は慌しくなり、そして同時にドタバタとした音を伴い出した。
これは幻聴ではない、と、そこでようやく気付く。
『いやいやいやいやいや、わたしまだスイッチ押して無……あれスイッチがオンになってる!? これ? これを一旦オフにすればいいの? そうだよね、多分そう。……よし、これで放送しちゃってたのも止まる。……かな?』
どうやら弄っている機械のどこかのスイッチを切ったらしい。切ったらしいのだが、それは間違いなく、今もなお、車のスピーカーから聞こえていた。六十一のチャンネルから、聞く限り確かな、ジャックラジオが流れ始めたのだ。
『この説明書、解りにくいよ……えーなになに? うん、全然読めない! この漢字なんて読むんだろ』
スイッチを切って放送が終わったと思い込んでいる謎の少女は、おそらく一人で説明書と向き合っているのだろう、そんな独り言を呟く。どう聞こうにもさくらの声で、井ノ川桜子の声で。
『うーん、接続はこれで良いみたい。じゃぁこれで完了かな? よし、やるぞぉぉお! スイッチ・オン!』
既にスイッチはオンになっているというのに、掛け声まで着ける。
俺が呆然としている事を、彼女は知る由も無い。ただ呆然とその声を聞いている人間がここに居ると知らない彼女はまず、
『聞いている人は居ないと思いますが』
そんな文句からラジオを始めた。
ラジオ? 違う。それはメッセージだ。
その少女は、さくらと同じ声で、つまりおそく井ノ川桜子本人として、こう言った。
――ラジクラをお聞きの皆様。伝えたい事があります。十月十日の午前零時。S県D市にあるあすなろ公園で待ってます。
知らず、ハンドルを握る俺の手が、唇が、全身が震えていて、力んで押してしまったクラクションが、無人の駐車場に虚しく響いてこだました。