第一章②
気が付けば俺はそこにいた。
薄暗くて視界が悪いが間違いない。俺が通う桂高校の廊下だ。しかし、いつもの耳に付くうるささがない。生徒も教師も、誰一人として姿がない。
どうなっているんだ…
そう思った矢先、闇の中から霧の如く、とある人物が姿を現した。反射的に俺は反対の方向へ走り出した。
走る。走る。走る。
途中、黒い物体が道を塞いでいたが、それを三つ程押し倒して走り続けた。
いくつもの教室を経由し、いくつもの階段を上り下りしたせいか、息切れが起き、足も崩れた。場所は、いつも授業を聞いている二年の自分の教室だった。
ここまで来たのだ…奴を完全に巻けたはずだ。
俺はそばにあった机を支えにして立ち上がると、椅子を一つ引き出してそれに座った。
窓から様子を伺ってみたが相変わらず廊下は静寂としており、追ってくる様子はない。
背後に何か気配を感じたと思えば、座っていた椅子がすっ飛んで、俺は達磨落としの様に、その場に尻餅を着いた。
まさか。
頭を掴まれ、そのまま床に叩きつけられる。視界がぼやけたが、その姿ははっきりと目に焼きついた。
紫のコート、帽子、手袋、そして仮面…
今度は首を掴まれ、俺の身体は少しずつ上へと上がって行く。
俺の意識は――
× × × × ×
「薬橋!」
今度は平手でブッ叩かれて、床の上にスッ転んだ。どうやら授業中に寝ていた所を教師に叩かれたらしい。クラスのゴミ屑どもの笑い声が四方八方から聞こえてきた。
クソッ!俺はお前等とは違って、毎日夜の十二時過ぎまで授業の予習復習をしているんだぞ!
「顔を洗って来い!」
また先生から怒鳴られた。俺は心の中で舌打ちすると、顔を洗いに行くべく教室を出て行った。
この桂高等学校はある意味、名門中の名門だ。生徒は野球部を中心に障害や窃盗を行い、教員も飲酒運転や横領等でクビにされまくっており、出入りが激しい。そんな学校なので世間様からの評判は最悪だが、唯一の長所は公立高校だから、余り金が掛からない事か。
流しで顔を洗って教室に戻ってきた時には授業が終わっており昼休みに入っていた。
俺は自分の席に座ると、ノートに写せなかった所を写そうと、黒板を見た。
「………チッ」
文字も図式も全て消されていた。
今日の係は…増渕の奴か。匹夫め。ろくにノートを取らないくせに、消すのだけは颯爽としやがる。
「おい真価。どうせお前さっきの授業、ノートを取ってないだろう?」
そう言って、俺の机に自分のノートを置いた者がいた。
村崎卓郎だ。俺の友人で、成績は学年で俺と一、二を争う。また、気になったことは自分で実証しないと気がすまない性格であり、入学早々【ペットボトルに水を入れた猫避けの危険性】を実証して学校の芝生を二畳分焼いた事があるそうだ。
「ありがとう」
卓郎のノートを受け取った直後、急に思い立って、財布から五千円札を取り出し彼に突き出した。
「悪いがちょっと、売店まで行って弁当を買いに行ってないか。俺、今日は何も用意して来てないんだよ」
「…了解」
卓郎はニヤリと笑みを浮かべると、渡した五千円札を握り締めて教室から出て行った。
「さてと…」
俺は卓郎のノートを開いた。やっぱりアイツのノートは美しい。字が綺麗なのはもちろんの事、要点等は何色もの色ペンで書かれたり、ラインが引かれていたりしている。それに比べて俺のノートは…
「なぁ、ちょっとノート見せてくれよ」
そう言って、今度はノートを取ったものがいた。
大川章吾。
今日の朝、一緒の電車に乗り合わせた小田切澄子の彼氏であり、俺が最も嫌っている男だ。勉強が出来る訳でも、スポーツが出来る訳でも、ルックスが良い訳でもない。なのに何故か休み時間になると、コイツの周りには男女問わず人だかりが出来ていた。
「何をする!返せ!」
すぐさまノートを奪い返そうとしたが、大川の方もそれに素早く反応し、ノートを後ろに居た取り巻きの一人に投げ渡した。
「安心しろよ。悪い様にはしないからさ」
「安心しろって…大体そのノートは…」
周囲に居た女子が皆、俺を睨みつけてきた。キメェ、こっち見んな。
「週明けには返すからさ」
大川は笑顔でそう言うと、ノートを持った奴を含めた取り巻きを引き連れて教室から出て行った。
「…クズどもが…」
そう毒を吐いてみたものの、当然卓郎のノートが返って来るはずはなかった。