一歩前進
「君が好きだ」
その言葉を信じたくてたまらない。
私が高校卒業して2年が経った。高校卒業以降は一切の接点がなくなった元彼と再会するとは思いも寄らなかった。
元彼と言えるような付き合いでもなかったけれど、彼によっていろんな気持ちを知ることができた。それが良いか悪いかはともかくとして、どうにか折り合いをつけようと卒業式の日に彼にきちんと別れを告げれたことで、気持ちも昇華できた。
弱虫で臆病な自分が少しでもあの日に勇気を持てたのは自信になったと信じたい。
大学入学という新生活で人間関係や授業など高校とは違った忙しさの中で、誰かを想うこともなく日々を過ごしてきた。サークルには1年だけ入ったけど、アルバイトなんかで時間もあまりないしで気付いたら参加しなくなってた。たまに友人たちに「彼氏は作らないの?」と聞かれたけど、わざわざ合コンに参加しようとは思えなかった。
同じ講義を受けている同級生から告白されたときはどきっとした。
「今は好きじゃなくてもその内好きになってくれたらいい」
優しい顔で言ってくれた彼には悪いけど、その内が本当に来るかなんて分からないのに曖昧に関係を始めたくなかった。どうにか断ると残念そうな顔はされたけどそれでおしまいになった。今は私の友人と付き合いってその彼も友人も幸せそうで嬉しい。
大学生活も3年目に入って授業にはすっかり慣れてきた。毎日があっという間に過ぎていった。
充実した生活を送る中である日、友人たちに聞かれた。
「就職どうする?」
「多分アルバイト先に就職すると思う」
「えー、いいなー」
「うん。ありがたいよね」
アルバイト先は大学から電車で数駅にあたる小さな部品会社だ。小さいけれど取引先はどこも一部上場の会社ばかりで収入の安定している会社。夜間にも事務などの仕事をする必要になって会社のビルの目の前の喫茶店に張り紙をした。そこへ履修した科目の教科書が古本屋で売られているという話を耳にした私が、いつもは行かない駅に降りて初めて通った喫茶店の張り紙を目にした。
「こういうのは縁なのよ」
履歴書さえ持たない私が現れても嫌な顔をせずに微笑んで応対してくれた事務員さんの一言で、私のアルバイトが決まった。それからは大学が終わると職場へという毎日だった。
それなりに忙しい生活を送る私にしびれを切らした友人たちが、気分転換になるとかなり強引に連れて来られたのは、もうすぐ大学4年になるもうすぐ春になる直前のことだった。
たまに友人たちと行く居酒屋よりもおしゃれなお店だった。
行って見たらどうみても合コンの雰囲気だった。それ自体は特に驚いたりはしない。
でも4対4で向かい合った目の前の男性には度肝を抜かれた。
「久しぶり」
その声は幻聴では決してない。
およそ2年ぶりとなる元彼との再会となる。彼は心底嬉しそうに微笑んでいた。
どうにか動揺を抑えられたのは、皆の自己紹介が始まってからだ。
自分の紹介は名前しか言えず顔も俯いたままだった。一人だけ顔色を悪くして態度が悪い私に周囲は特に何も言わなかった。
とても料理を食べることも彼を直視することもできそうにない。「化粧を直してくる」と苦しい言い訳を述べて席を立った。
化粧室の鏡の前でぼんやりと自身を苦々しい思いで見つめる。もう高校の制服は着ていない。同じ学生でも成人したし自分でいろいろなことを決める責任というのも少しずつ分かってきた。
高校時代にはしていなかったお化粧もするようになって見た目も高校生の頃とは違う。
1年2年と時間が経つにつれて、彼のことを忘れたと思っていた。毎日が忙しい最中、彼のことなどほとんど思い出しもしなかった。
初恋なんて時間とともに風化する、そんなものだと思い込むことに成功したはずだった。
それは自分についた嘘だった。
こうして目の前に彼がいる今、それが分かった。
もう自分に嘘はつけない。あの短いとも長いとも言えないような高校3年間の片思い。そして戯れの恋と幻滅。全て思い出だなんていい切れるほどの時間の経過はしていない。
彼の顔を見て、声を聞いて、どうして思い出だ、嫌な記憶だと言い切れるだろう。
こうして再会した以上は蓋をしたはずの想いからはもう逃げられない。それだけは分かった。
どうして彼が今日この場にいたのか。偶然にしては友人たちの様子がおかしい。
少し落ち着けてみると、さっきの私はあからさまに様子がおかしかった。それを友人たちが気付かないはずがない。でもそのことは後で確認すればいいことだ。それよりもこれからどうするかが問題だった。
「考えてもどうにかなるわけじゃないか」
鏡に映る自分は高校生ではない。さきほど再会した彼も同じくもう高校生の自分が恋した相手ではない。もう恋に恋していた気持ちはない。彼が何かを言うとも限らないし考えすぎないようにしよう。
どうにか自分を立て直して化粧室を出た。化粧室から少し離れた壁にもたれるようにして彼が立っていた。
逃げれないと覚悟を決めたはずなのに、どうしても顔を俯けてしまう。
「……」
「怒ってるよな?」
彼が怯えているような声で問いかけてきた。黙ったままとにかく席に戻ろうとすると、腕をそっと掴まれた。その感触に反射的に振りほどいた。
腕はあっさり外されたが、彼は俯けた顔を覗き込んできた。
「俺のこと許せないだろうけど、顔を見せてよ」
そんなことできるわけない。今でさえ、顔をあげなければこの再会は夢だと言いたいくらいなのに。
「……お願いだ」
「……」
その懇願する声を聞いてつい顔をあげた。あげた途端思ったよりも顔を近づけていた彼にどきっとする。自分を見つめる視線はあの頃にはない真剣なもので、目線を逸らそうにもできない。
「どこか二人で話せないか?」
「話ならここでも……」
「荷物は預かってきた」
「お金とか、えっと……」
「それなら心配いらない」
私の腕を掴んでない方の腕のには見慣れた鞄が提げられている。化粧室に逃げた間に友人たちと話したのだろう。食事費用については次に会ったら渡そうと頭の片隅に置いた。
結局反論もせずに、彼に手を引かれるがまま店を出た。しばらく歩いて目に付いた公園の中に入った。 公園はさきほどまでの喧騒とは逆にひっそりとしていた。彼は「座ってて」と言って近くにあった自販機で飲み物を買って隣りに座った。渡された缶は温かくて外に出て少し冷えた体をほっとさせた。
「……」
「……大学生活はどう?」
とっかかりのつもりなのか、彼は穏やかな声音で尋ねてきた。彼の顔を見ずにどうにか答える。
「毎日充実してる。来年には卒業なんて早いよね。あなたはどう?」
「うん。俺も満足してる。……卒業したら就職は?」
「えっと、今アルバイトで働いてる会社がそのまま正社員にって言ってくれて……」
「そっか。俺もどうにか希望してる会社に内定もらえたよ。……多分、気付いてるだろうけど、今日俺たちが再会したのは、俺が君の友達に頼んだからだ」
「……」
「この3年間、たびたび君のことを考えてた。何度も追いかけようと思った。でも、途中で思ったんだ。こんな中途半端な俺じゃあ駄目だって。君が俺を好きでいてくれてたのが高校3年間なら俺も大学3年間を君への片思いで費やそうって決めた」
「それ、どういう……」
「俺が所属してたサークルが、うちの大学といくつかの大学との合同のサークルなんだ。飲みサークルとかじゃなく経済なんかを勉強したりするちょっと固いテーマを扱ってるサークルで。持ち回り制で月1にどこかの大学で集まるんだ。集まりやすいということで君の大学での開催が3ヶ月に一回あった」
彼の言うサークル名は確かに聞いた覚えがある。友人の恋人が入ってるという話を聞いたことが何度かあった。
「そこで君の友達の彼氏と知り合いになった」
気が合って話していく間にお互いの交友関係の話になって、そこで彼女とも知り合いになったらしい。彼女は友人である私の名前をよく出していたらしく、その話を聞きたくて集まりを楽しみにしていたとこちらの顔が熱くなる言葉を次々と語ってきた。
「……彼女に俺が過去に君を傷つけてしまったことをはっきり告げたんだ」
「彼女はなんて?」
「しばらくは避けられたよ。でも友達を通して俺がどうしても君のことをもっと知りたい、君に会いたいと何度も説得した。そうしてようやく今日の日を迎えられたんだ」
自分を見つめる彼の顔はとても真剣で、こんな表情で見つめられて暗がりでなければ顔が真っ赤なのがばればれになってただろう。
いろんな気持ちが複雑に絡み合って頭の中が混乱してしまった。
「あの頃は本当にごめん!」
彼は物凄い勢いで頭を下げた。これにはびっくりした。
「ど、どうし……」
「まずはちゃんと謝りたかった。俺のしたことは本当に情けないどうしようもないことだった」
「……」
高校時代を思い出す。ほんの短い間の学校だけでの付き合いとも呼べないようなままごと。
あっという間に崩されて自分の思いも消さなきゃって必死になった。
彼に目の前で謝られても、あのときの衝撃が消えるわけじゃない。
「……言い訳の余地のないどうしようもないことだし、謝ったからってそれは俺の自己満足でしかないと思う。でも、俺はもう一度君と今度は堂々と付き合いたい」
「つ、つきあう?」
「ああ」
下げていた頭を上げて、彼は私の前に立って右手をそっと握ってきた。
私をじっと見るその視線に心臓が痛いほど鳴り始める。
握ってきた右手を彼の心臓に当たるように促される。
掌に伝わる鼓動は自分のなのか、彼のなのか。
その鼓動はこれ以上速くなりそうにないほど大きく脈打っていた。
「君が好きだ。付き合って下さい」
その言葉を言った彼の顔をじっくり見てみた。
高校時代よりも大人びた彼は、知らない人のようでもよく知ってる人のようでもある。
制服に身を包んでいた頃よりももっとこちらを惹きつける。
「わ、私……」
どうしよう、どうしたいのか全く分からない。
おろおろするしかできないでいると、彼はもっと顔を近付けてきた。
「君に付き合ってる男がいないのは知ってる。だから俺にチャンスを下さい。もう一度、あの頃以上に俺を好きにならせてみせる。そして、あの頃があったから今があるんだって笑えるようになるくらい、君と一緒にいて、君に信頼してもらえるように努力する」
そうだ。彼はこういう人だった。
自分に自信を持っていて、目標を確実にできるようにする努力を怠らない人。
そんな人だから好きになった。
3年も時間が経った。あの頃のような思いは持てない。
でもこうして目の前で自分を見る彼に、どうしようもない位惹かれる。
もう、その気持ちだけでいい気がする。
過去がどうこうよりも、目の前の人が好きだという気持ちがどんどん溢れてくる。
「……私も、あなたが好きです」
だからもう一度恋を始めよう。
今度は成長した二人で、ちゃんとした恋愛を。
「ありがとう」
かすれた声の彼の顔をみることはできなかった。
思い切り抱き締められた身体は、肌寒さからはほど遠い熱さで包まれた。
その抱き締めてきた腕は小刻みに震えていて、その震えが彼の気持ちを伝えてくれた。
だから一歩前進してみようと決意できた。
ゆっくりと目を瞑って彼の身体に両腕を回した。
「これからよろしく」
そっと囁かれた言葉にしっかりと頷いた。