3.
(狙いにくい……!)
焦燥を露わにして、ノイエは弓を引き絞る。
既に、戦闘開始から30分は経過していた。
敵の怪物――複数の金属板を胴体に張り付けた九頭の大蛇は、遥か下方に位置している。
高度だけ見れば、重力を味方につけて矢を放てる上、反撃の及ばない場所にいるノイエの方が圧倒的に有利だ。
しかし、如何な射撃の名手も、射線の確保が不十分では実力を発揮できないのである。
足元に開いた直径4メートル程度の穴から、太陽の光を頼りに、縦横無尽に動き回るシウスへの誤射を避けつつ、<アーマード・ヒュドラ>に矢を打ち込む――至難どころの話ではない。
的の大きさに助けられて、どうにか攻撃を当てるだけ。それがノイエの精一杯の援護だった。
「くっ、<ヘビースナイプ>!」
<狩人>が最初から使えるそのスキルは、通常攻撃と同じに所作に見えた。事実、威力も同じだ。地下を滑る鋼の要塞の如きエリアボスにとっては、全く脅威にならないだろう。
だが、この戦場において、<ヘビースナイプ>はパーティーの生命線だった。
上方から斜めに撃ち下ろされた矢は、怪物の胴体に当たると、つぎはぎの鉄板に防がれて鈍い音を発する。微小なダメージと同時に<アーマード・ヒュドラ>が仰け反り、胴体から伸びる九つの首がそれにつられて引き戻された。
<ヘビースナイプ>は対象をノックバックさせ、間合いを保つためのスキルなのである。
『相変わらず、神業じみてるな……!』
そして、シウスは敵が怯んだ瞬間を見逃さない。瓦礫を踏み割り、たった一歩でトップスピードに達すると、絡み合う円筒形の鉄塊に肉薄した。
『<クロスエッジ>!』
防御の隙間を縫うような連続の剣閃が、降り注ぐ白日を浴びて煌めく。
エリアボスのHPバーが僅かに減った。それをものともせず、蛇の首がシウスを食らわんと迫り来る。
『うーん、効いてはいるんですが……微々たるものですね』
『あと八割は残ってないか?』と冷然たる現実を告げる言葉が聞こえた。
その場から飛び退き、シウスは剣を持たない左手で頭を掻きながら回避行動に移る。地下の空洞では一対九なのだ。いくらスピードで勝っていても、追い詰められればひとたまりもない。
「このままではジリ貧です、何か策は――!」
二人は戦力的な不利を戦術で無理矢理互角に持ち込んでいる。まるで命綱も、バランス棒も持たずに、超高度の渓谷間で綱渡りに挑む曲芸師のような状況だ。
<ボイスチャット>越しにシウスの返事を待つ。一拍おいて、返事が来た。
『このボスは物理的な守りが硬く、動きの遅い重量級の魔物です。ノイエさんの位置に、高火力の<魔法使い>を多数配置して戦うのが定石でしょう』
隕石の飛来を想起させる多重の頭突きが、シウスの黒髪を数本散らした。襲いかかる九つの頭部を躱しながら議論をするのは、無双の剣士であっても命がけだ。
そんな中で示されたのは、不可能な戦法だった。二人の職業に、魔法を扱う素養はない。
『それができない俺達が勝利するための方策は二つ。このまま地道に敵のHPを削り続けるか、玉砕覚悟で特攻するか』
「……後者を選ぶのですね」
『あれ、分かります?』
「いい加減、あなたの蛮勇は理解しました。それ以前に、MPポットが切れそうです。長期戦が無理ならば、短期決戦しかあり得ないと推察したまでです」
相棒の理解が嬉しいのか、シウスはフレンド間通信に拾われないよう含み笑いをする。
それをノイエは聞き逃さなかった。こんな絶望的な戦いの最中でも余裕を感じさせる態度に、憤りを通り越して呆れてしまう。
「策の具体的な内容は?」
『神話の再現です』
「……破天荒なことを」
『そんなことはないですよ。ヘラクレスだってやってたじゃないですか』
ノイエは大仰にため息をついた。この青年は、やはり無茶苦茶だ。
ヒュドラ退治は、ヘラクレスの伝説の中でも有名なエピソードである。
九つの首の内、中央のそれが不死であり、首を切り落としても無限に再生し続ける毒蛇ヒュドラ。ヘラクレスは不死の首を地面に埋め、大岩で押しつぶすことでこの怪物を倒したが、従者の手を借りたという理由で、功業の一つとは認められなかったという。
『<パワーブレード>で床面の岩盤を切って、中央の首にぶつけます。効果がなかったら、流石にお手上げですけど』
「わたしは何をすればいいですか?」
『今まで通り、<ヘビースナイプ>で俺と敵の間合いを開けて下さい。<パワーブレード>は攻撃前の隙が大き過ぎるので』
「了解です。狙いを付ける前に、食べられないで下さいね?」
軽口に吹き出したシウスを尻目に、ノイエはアイテムインベントリから矢を取り出す。陽光の加護を得て、落とし穴の奥を見通すと、意識を極限まで集中させた。
――決して失敗は許されない。これはシウスの生死を左右する一矢なのだから――
「――――!?」
自分の思考に愕然とする。
ノイエは、否、野々宮灯流は、誰かのために戦うような人間だったか。
これまで、己で雑事を行うことは下賤な者の所業だと言い聞かせられながら、温室でぬくぬくと育って来た。着せ替え人形のような扱いに耐えかねて、ストレスの発散のために弓道を習い始め、熱中した結果、全国大会でも結果を残せるほどになった。
それでも、両親には―― 一番褒めてほしい人には認められなくて。慰める使用人を、憐憫はやめろと罵倒し、遂には仮想の世界に逃避した。
そして、<クロスガイア>の中で出会ったのが――
(感化、されたのでしょうか)
第一印象は最悪だった。違法プレイヤーと間違われて背負い投げを掛けられるなど、想像の埒外にあったことだ。戦闘センスと頭の切れは認めるが、デリカシーに欠ける言動は如何ともし難い。
しかし、彼は在り方が強い。立ち居振る舞いの一つ一つが鮮烈で、時には姿を追うことさえ躊躇われた。故に自分が先を歩き、背中を見ないで済むよう苦慮したのだ。
たかが数時間の付き合いで、己にこのような感情を抱かせる人間を、灯流は他に知らない。
(違いますね……そんな浅い言葉では、騙れないほど……)
瞑目して、内容の濃いデスゲームの初日を思い起こす。
それは、老婆が遥かな昔を顧みるべく、がたついた物置からアルバムを取り出すような、不思議な気持ち。
晴天の下、爽やかな風が吹き抜ける平原で。双眸に灼熱を秘めた剣士が見つめて来る。
伝えなければならない。弱い心を否定する、素直な想いを。
「――あなたは、わたしの目標だから、絶対に死なせない」
瞼を開く。目の前の世界は、別物のように美しく映った。
射法八節。研ぎ澄まされた感性の中、ノイエは会心の射を放つ。
シウスは上方を確認することもなく動き始め、矢に続くが如く疾走した。弦の音で<ヘビースナイプ>の発動を察知したのだが、ノイエにはそれが理解できない。
ただ、以心伝心で分かり合えたようで、夢心地で目を弓にする。
――今まで通り、<ヘビースナイプ>で俺と敵の間合いを開けて下さい――
「――――え?」
暖かな幻想の情景は、一瞬で永久凍土と化した。
シウスの要望を思い出す。青年は、間合いを開けるよう願ったはずなのに、何故自分からエリアボスに接近すべく駆け出したのだ。明らかに矛盾しているではないか。
違和感に従い、しゃがみこんで大穴の内部を覗き込む。
射の衝撃で仰け反った<アーマード・ヒュドラ>の首で八艘跳びをするように、シウスは宙に舞い上がり、スキルの発動体勢に入った。
――<パワーブレード>で床面の岩盤を切って、中央の首にぶつけます――
重力を利用して、斬撃の威力を上昇させるつもりか。だが、跳躍に勢いがあり過ぎて、天井に衝突しそうだ。
地下に広がる空洞の上に位置する、ノイエにとっての床面に。
「パワー、ブレードぉぉぉおおお!」
剣士が振るう渾身の一撃が、二人を分かつ岩盤に叩き付けられた。
やや離れた位置で、広間の地面に亀裂が走る。
内側から罅を刻まれ、岩盤は既存の大穴と呼応するように崩落していく――