1.
鬱、ダークな表現があります。
苦手な方は、お読みにならないで下さい。
「うう……ん……?」
心地よいまどろみを邪魔したのは、普段と異なる寝具の感触だった。
寝ぼけ眼を擦りながら、野々宮灯流は身を起こす。完全に覚醒していない意識のまま、周囲を見渡すと、見覚えのない家具がずらりと勢揃いしていた。
木製のテーブルと椅子。カーテンと絨毯は粗雑なもののように感じられた。いかにもその辺のディスカウントショップで売っていそうである。
ガラス製のテーブルランプも同様だ。こんな安そうな既製品を部屋に置いていたら、両親に何を言われるか分かったものではない。
灯流は疑問に思いながら、ベッドから出てカーテンを開いた。朝日が眩しくて、思わず目を閉じる。
ちかちかする目が次第に環境に適応すると、窓から景色が飛び込んで来た。
「あ――――」
青空を背景に陽光を照り返す、中世時代を髣髴とさせる<王城>。
城下街には、慌ただしそうな様子で、ファンタジー風のコスプレをした人たちが行き交っている。
それは紛れもなく、株式会社マイクロ・エース・システムズの運営する新作VRMMO<クロスガイア>の世界に相違なくて――
「夢じゃ……ない……」
呆然と呟く灯流の姿は、本来のものとは違う。手ずから作成した、アバター・ノイエのものだ。
ノイエが存在しているのは、VR空間――最初の街<央都アウレリア>の宿屋の一室である。
外観こそ、懐かしさを抱かせる木造建築だったが、中身はまるで別物だ。位相の異なる空間に、数千人ものプレイヤーを収容するなど、22世紀の現在でも考えられない技術である。
デスゲームは夢でも幻でもなく、現実だ。
(そうですよね……そんな都合のいい事、あるわけがない……)
失意を隠せぬ表情で、ノイエは長い銀髪を弄ぶ。
さらさらとした手触りは、あたかも本物のようにリアルだった。
(あの人は、意識だけが閉じ込められていると推察していましたが――)
昨日の昼、この仮初の世界で出会った剣士の言葉を思い出す。
しかし、脳と精神が切り離された状態で五感が生きているなど、にわかには信じ難いことだ。ノイエは「飛んでいる矢は止まっている」という逆説を思い出し、かぶりを振った。
――それならば、人間に体など必要ないではありませんか――
「……システムウィンドウ」
錯綜する思考を打ち切って、ノイエは音声認識でメニュー画面を呼び出した。ベッドに座ってアバターの<ステータス>を確認する。LVは15に達していた。
「あの男には、負けられない――」
両の拳を握りしめて、屈辱を回顧する。ノイエの現実を見透かすような、重装甲の大男――エーギルのことを。
ノイエは非常に育ちがいい。現実に、屋敷の使用人からは「お嬢様」と呼ばれてもいる。
だが、そんな境遇を疎ましく思う自分がいた。童話のお姫様のように、蝶よ花よと育てられるのは、自分自身の力で何かを為すことを否定されているように感じたのだ。
そして、現実逃避のためにVRMMOにダイブした。仮想の世界を転戦したその果てに、己を否定されるとも知らないで。
(シウスさんには、悪いことをしました……)
ため息を一つ吐いて、ノイエは過去を反省する。
エーギルに自尊心を傷つけられ、ドロドロとした嫌な感情をモブにぶつけて解消しようと、勝手に大陸東方面の攻略を決めた。
他のプレイヤー、特にエーギルに差をつけて優越感に浸ろうと、理屈をこねて探索を長引かせ、前衛のシウスに負担を強いた。
――それ以前に、この事態を打開すると言ってのけたこと自体が、シウスの信頼を得るためのでまかせなのである。
(仕方、ないのです……わたしは弱い人間なのだから……)
シーツにぽたり、ぽたりと水滴が落ちる。
見栄っ張りで、臆病の塊の如き自分のどうしようもない醜さに、涙が止まらない。
今すぐここから逃げ出したかった。何一つ不自由しない、現実の世界へ帰りたくてたまらなかった。
しかし、そんな本心など、誰にも話せるわけがない。凄腕の射手というメッキの剥げた自分など、誰にも構ってもらえない。どんなに確率が低かろうが、行き着く先は性の捌け口に決まっている。
「……戻らないと」
ふらふらとした足取りで、ノイエは洗面所に向かう。
冷静で、頭の切れる<狩人>に戻らなくては、このゲームを生き抜けない。
シウスと合流するまでには、ぐずぐずに煤けたこの気持ちも、きっと落ち着いているだろう。
◆
<クロスガイア>のサービス二日目。それはデスゲームの二日目でもある。
ノイエは泣き腫らした顔を洗い、身だしなみを整えると、宿屋のNPCに朝食を頼んだ。炊き立てのご飯に味噌汁、焼き魚にほうれん草の御浸しというオードソックスな和食を平らげ、食後にはしっかりと歯を磨く。
洗面所には、タオルや歯ブラシ、歯磨き粉の他、うがい薬や化粧道具まで完備されており、ノイエの度肝を抜いてくれた。
昨晩使ったすぐ隣のシャワールームも、プレイヤー達がクオリティの高い仕様で逆に困ったことにならないようにという、運営の配慮を感じたものだ。
シウスの「デスゲーム=賭博説」が完全に否定されたわけではないが、やはり不自然である。
見世物にするならば、プレイヤーの不満を煽る方が効果的だろう。
ノイエは机に着いて考えを纏め終えると、<フレンド>に登録した相手と可能な<ボイスチャット>で、シウスに連絡を入れた。
「おはようございます、シウスさん。今、よろしいですか?」
『……ノイエさん? ああ、<ボイスチャット>の使用か』
返答に少し間があったのは、連絡手段が思いがけないものだったからか。ゲーム内部でのメールのやり取りは可能なので、そちらを想定していたのかもしれない。
『おはようございます。今日の予定の話ですか?』
「はい。引き続き<アスプ古代遺跡>を探索しようと思っています。多くのプレイヤーは死亡を恐れて、拠点を出ることに消極的ですから、早期のレベリングは後々効いて来るはずです」
『……同感です。自暴自棄になった一部のプレイヤーがPKに走らないとも限りませんし、自衛のためにも、攻略のためにも、LVは上げておいた方がいいでしょうね』
シウスの「攻略」という言葉に、ちくりと心が痛むが、おくびにも出さず話し続ける。
「合流は何時にしましょう? 今が8時35分ですから……9時ではいかがですか?」
『ちょっと待って下さい』
唐突に、シウスとのフレンド間通信の後ろで甲高い金属音が連続で鳴り響いた。すわ戦闘中かと、ノイエは剣士のバトルマニアぶりに驚いてしまう。
朝から剣を振るうなど、まるで本物の武人のようだ。ダメージの衝撃は微々たるものとはいえ、HPバーがなくなれば死んでしまうというのに――
『大丈夫です。間に合いますよ』
「あまり、無理はしないでください……」
『はい? ……分かりました?』
全く分かっていない様子でシウスは<ボイスチャット>を切った。
(あの人は、死が怖くないのでしょうか?)
むしろ「殺されたら死ぬ? 現実と同じなだけですよ」くらいに思っていてもおかしくない。自分の想像が正鵠を射ているようで、ノイエは頭を抱えた。
シウスはノイエのことをパリスになぞらえたが、そう言う本人はアキレウスの如き蛮勇の戦士ではないか。
「頼る相手を間違えたのかもしれません……」
神話とは逆に、自分の方が殺されるイメージがありありと浮かぶ。
CGの大地を引きずり回され、襤褸雑巾のようになった少女と、嬉々として剣を振り回して戦い続ける青年。剣士の行く手には屍が山積し、女狩人は苦悶の声を漏らすことしかできなかった――
「――我ながら、ひどい妄想ですね」
それでは、まるでアマゾネスの女王、ペンテシレイアである。
しかし、自分が死んだとき、シウスはアキレウスのように、嘆いてくれるだろうか。
自嘲の笑みを一つ残し、自らに割り当てられた部屋を出て行く。
所持クレジットには余裕がある。アイテムショップでHPポットとMPポットを補充すべく、ノイエは宿屋の出入り口へ向かった。