50.泡沫夢幻(あなたの望むままに)
予想外のことを告げられ、目を見張ってウィルフレッド見上げた。
どうして、そこまでのことを――。
「本当のことを言うと、どうして兄上がネリーの命を狙ったのか……賭けだと軽々しく口にしたのか、俺には分からない。昔から優しかった兄上が、個人的な理由で戦争の時のことを持ち出してきて、このような非道な真似をするとは、どうしても俺には信じられないんだ」
揺らぐ湖面のような瞳の中に葛藤を見つけて、リューネリアは思わず目を逸らした。
彼に無用な痛みを与えたのは自分だ。そのような顔をさせてしまったことが申し訳なくて、直視できなかった。
俯き、目を伏せたが、頬を挟まれると、無理に顔を向き合される。まだ話は終わっていないと、こちらの心の中を見とおすように。
胸が塞がるように苦しかったが、彼が聞けと言うなら聞かないわけにはいかない。
伏せていた目を上げると、ウィルフレッドは続けた。
「俺の中には未だ兄上を信用している部分がある。兄上を側で支えていきたいという思いもある。だが、ネリーが側にいることが許されないというのであれば、俺は――」
額をこつりと合わせると、間近に目を閉じたウィルフレッドが見える。それはとても辛そうに見えて、彼に何を捨てさせようとしているのかを思い知る。
「……はじめからこうしておけば良かったんだ。俺にはこの国よりもネリーが大切だ。それは俺の立場であれば抱いてはならない感情だと言うことは分かっている。だが、ネリーをパルミディアに帰すことなど出来ない。何をおいてもできないんだ。だとしたら、俺にはここにいる意味はない。だからネリー。どうか、帰るとは言わないくれ。ずっと俺の側にいてくれ」
頬に添えられた手がするりと背中にまわり抱きしめられ、リューネリアは目を瞬き、こぼれ落ちそうになる滴を堪える。
ウィルフレッドはなおも続ける。
「明日にでも陛下に願い出よう。幸いにも、ネリーとの婚姻の折に賜った領地がある。そこで静かに暮らそう」
それは、淡い夢のような話だった。
現実問題として、何も解決はしていない。
だけど、悪くないかもしれない。離縁するのではないのなら、休戦の約定を破ることにもならない。それで彼の側にいられるなら、何もかも考えずに側にいていいなら。いつか思った願いが叶うかもしれない――。
「ウィルフレッド様……」
彼はいつも、リューネリアにとって欲しいものをくれる。自分の犠牲を厭わず守ろうとしてくれる。
彼を守りたいと思う。せめて、彼が生まれた国を守りたいと思っていたが、今はそんな大それたことなど言えるような身ではない。
だから、この人の心だけでも守りたいと思った。望まれているのなら、この心ごとすべてを差し出してもいい。
こぼれ落ちる涙と共に、胸の中の靄が溶け出ていくようだった。
リューネリアはそっとウィルフレッドから身を離すと、決意を込めて見上げる。
「――はい。ずっとあなたの側に……」
手を伸ばし、ウィルフレッドの頬にそっと触れた。
そして告げる。湖のような瞳をひたりと見つめて。
「私のすべてをあなたに。――あなたの望むままに」
すべてが上手くいくとは思わない。
でも、いつか時間をかければ、もっといい解決方法が見つかるのかもしれない。だけど、今は――。
そっと頬を撫でられ、顎を持ち上げられる。リューネリアはその手の持ち主を見つめる。
「ネリー……」
ウィルフレッドに名前を呼ばれるのは好きだった。その声が心地いい。そう言えば、いつから照れなくなったのだろう、と思いながら瞼を閉じた。
優しく唇を啄ばまれる。
「ネリー、いつか言っていたお願いを聞いてくれるか?」
一度、目を開けてからゆっくりと頷く。笑みを浮かべたウィルフレッドの手に頬をすり寄せる。
「名前を呼んでくれ」
何を言われたのか分からず、目で問う。最初から名前で呼ばせてもらっていたはずなのに、と思っているとウィルフレッドは苦笑した。
「様を付けずに。……様をつけられると、距離を取られているみたいで嫌なんだ」
今更だけど、と付け加えられて、リューネリアは思い出した。
リューネリアの愛称を最初にコーデリアが呼んだ為に、ウィルフレッドが拗ねてしまったことがあった。その為、彼は仕事を放り出し、宥めるのが大変だったのだが、今では彼だけがリューネリアのことをネリーと呼ぶ。それは誰よりも甘く、心に響く。
「ウィルフレッド」
名前を呼び、自ら身を近づける。
唇を軽く合わせると、後頭部を支えられ、次第にお互いの息さえ欲するよう深く深く口づける。吐く息は熱く、意識を混濁させる。求めているのか、求められているのか。
ウィルフレッドの手が、身体の線を夜着の上からたどっていく。
寝台に仰向けにされ、首筋や鎖骨に、柔らかく熱いものが幾度も押しつけられる。
肌蹴た夜着から肩はむき出しになり、ウィルフレッドはそこにも口づけを落とす。
「ウィルフレッド……」
名を呼べば、唇を求められる。手を伸ばせば、手を握ってくれる。
息が上がってきた時、いつかされたように心臓の上に、口づけが落とされた。
軽い痛みと共に鮮やかさを取り戻した赤い痣に、リューネリアは頬を赤くする。
その痣に手を当てたウィルフレッドは告げる。
「この痣は決して消さない。もちろん俺以外に付けさすことも許さない」
ゆるぎのない強い眼差しに、息をのみ、どこまでも強い独占欲に心が震える。必要だと、求められていると思い知る。だが、浮かんでくるのは嬉しさだ。
手を伸ばして返事の代わりに再び口づけようとした時、あり得ない勢いで扉が叩かれた。
思わず二人とも見つめ合って固まる。
「殿下!大変です!出てきて下さい!殿下!」
それはエリアスの声だった。
叫びながらもなおも扉を破らんばかりに叩いている。
思いがけない邪魔に、止まっていた時はウィルフレッドによって破られた。眉根を寄せ、深々と息を吐き出す。そして、リューネリアの肌蹴た夜着を直すと、扉に向かって告げた。
「何事だ!」
「いいから出てきて下さい!陛下がいらっしゃいます!」
陛下、の言葉にリューネリアは寝台から身を起こした。
どうやらエリアスは先触れで来たらしい。
しかし、どうしたことだろう。用があるなら国王はウィルフレッドを呼べばいいだけなのに、わざわざ北棟から東棟まで自ら足を運ぶなど、どういう魂胆なのか。
「ネリーはここにいろ。大丈夫だ」
そう言って頬に口づけを落とす。
「私もご一緒します」
「いいと言っても無駄なんだろうな。……わかった。ニーナに支度を手伝ってもらって、間に合えば来てくれ」
「はい」
ウィルフレッドを見送ると、入れ違いにドレスや化粧道具一式を持って侍女たちが入ってくる。エリアスの騒ぎに、急遽用意したのだろう。
ニーナは水を張った盥を持ってやってきた。
どうやら泣いていた事はニーナには分かっていたらしい。素直に顔を洗うと、侍女たちに寄ってたかって身支度を整えられた。彼女たちの腕前の確かさ日頃から知っていたが、急いでもその腕は落ちない。むしろ磨きがかかると言った方がいい。
そうして、リューネリアの支度が整ったのは王がやってきて間もなくのことだった。