42.本末転倒(離縁して)
リューネリアは仰向けに寝転んだまま、なぜこんなことになってしまったのだろうと頭の片隅で考えた。
視線を目の前に固定し、取りあえず牽制はしているが。
場所は寝室。時刻は深夜である。
当然、目の前にいるのは夫であるウィルフレッドだ。
なぜこのような事になったのか――。
もとを糺せばすべて己に非があるのだが、あえて言うなら、昼間の遠乗りで護衛である騎士たちを撒いたことだ。
いつもなら寝室に入るのは大抵リューネリアの方が先だ。ウィルフレッドが仕事で遅くなる時は、先に休むように言われている。それでも目覚めは必ず彼の腕の中なのだが。
しかし今日は違っていた。寝る支度をして寝室への扉を開けると、いつものあの優しげな雰囲気などどこに行ってしまったのか、まるでザクスリュム領の領主の館にいた時のウィルフレッドが、まるで待ち構えるかのように――いや、事実待ち構えていたのだろう。開けた扉の先に立っていた。
瞬間的に、これは逃げた方がいいと思った。
思わず一歩下がって、扉を閉めようとした。
が、当然力で敵うことなく、扉を閉める直前に押し開けられた。そのまま腕を引っ張られ、背後で無情にも扉の閉まる音が聞こえる。侍女たちも当然、誰も何も言ってこない。
ニーナに関しては呼べば来てくれるのだろうが、これぐらいのことで彼女の手を煩わせるわけにはいかない。
「ウィ、ウィルフレッド様?」
多分、昼間の件だろうと予測はついた。
一応、ロレインには何もなかったのだから報告はしなくてもいいと言っておいたのだが、彼女も相当怒っていたようだ。この調子だと残念ながら、聞き入れてもらえなかったらしい。しかも、最悪、口止めしたことまで聞き及んでいるのかもしれない。
有無を言わさず、寝台に座らされる。
……非常に居心地が悪い。
そっと上目づかいで見上げると、じろりと見下ろされる。
こうして見ると、顔立ちが綺麗な分、かなり迫力がある。それに、もともと王族だ。人の上に立つ風格もそれなりに備わっている。リューネリアが一瞬怯んだ隙に、お説教が始まってしまった。
「ロレインから聞いた。どうして無茶をするんだ」
「無茶はしてません」
「だったら、心配をかけさせないでくれ」
「ごめんなさい」
直視できなくて、両手を膝の上に揃えて身を縮める。取りあえず、謝っておいた方がいい。そんな気がする。
「大体、どうして今この時期に遠乗りなんかするんだ」
「……気分が塞いでたから」
正直に言ってみた。それに加えて、運が良ければ敵も出てくるかもしれないと思っていたことは、黙っておく。だが、リューネリアの本心を分かっているのかどうか、疑い深い眼差しを向けられる。
「だからって急に決めないでくれ。警備上の問題も――」
「でも、急な方が相手も襲撃の用意ができないかもと……」
不意をつくなら味方も騙すぐらいの方がちょうどいいし、実際、何もなかったのは出来なかったからではないかと思っている。
リューネリアの言い分に、深々と溜息をついたウィルフレッドは呆れたように再確認してきた。
「命を狙われている自覚はある?」
「それは、十分にあります。茶葉にまで毒草を入れられましたから」
昼間の出来事を思い出し、リューネリアも深々と溜息をついた。
いくら考えても、どうやって私室にまで入り込んだのか、未だに分からない。
だがウィルフレッドの息を飲む音に、思考を遮られる。
「……なんだ、それは?」
驚き、眉を顰める彼に、逆にリューネリアの方が首を傾げた。もしかしてニーナは報告をしていなかったのだろうか。
「聞いてませんか?」
密かにニーナは気を利かせてくれたのだろうか。自分がこれ以上、ウィルフレッドに心配をかけないようにしていること知って。
だが、すでに話してしまったからには言わなければならないだろう。失敗したなと思いながら件のことを口にした。
すると、ウィルフレッドは目を吊り上げた。
「そこまで狙われているのを知っていて、どうして大人しくしていないんだ!?」
「大人しく震えているのは趣味ではないです」
もしも、大人しくしていてすべてが解決するならそうすることも考えただろう。だけど――。
「趣味ではないって……」
あきれた様にウィルフレッドは閉口してしまった。
言いながら、なんて反抗的なのだろうと思う。こんな可愛げのない女なんか放っておけばいいのにと思う。
ずっと不思議に思っていたことがある。
今までは、剣で襲われたことも、階段に紐が張ってあったことも、リューネリアを狙ってのことだ。
だが、今日の昼間、茶葉に混ぜられた毒草を見て思ったのだ。
ニーナから毒は強いものではないと言われた。一度や二度、口にしたからと言って身体にすぐに影響が出るようなものではない、と。だとしたら、確かにそのお茶を口にする頻度は自分が一番高くなるだろう。しかし、いつも側にいるウィルフレッドが口にする機会も次いで高い。つまり、敵はリューネリアを守ろうとしているウィルフレッドも邪魔だと思い始めているのかもしれない。
――それだけは駄目だ。
一瞬で心は決まる。
だとしたら、取るべき道は一つしかない。
自らが離れるしかない。守られている場所から出るのは怖い。地位も権力もない。まして敵地にただの小娘一人でどうやって身を守ればいいのか分からない。
だが、駄目だった。自分のせいでウィルフレッドが敵の手に落ちてしまうのは考えただけで目の前が暗くなる。震えがくる。味方のいない場所に一人でいるよりも、なお恐ろしかった。
スッと息を吸うと、目の前の夫を見上げる。
「お話は終わりですか?」
背筋を伸ばしてウィルフレッドを見上げた。そして告げる。
「私もお話があります」
胡乱な眼差しを向けられ、リューネリアはそれでも湖のような瞳をひたりと見つめる。
「しばらく別室で休ませていただきます」
「寝室を別にすると?」
確認を取るように聞かれ、素直に頷く。
「はい」
寝室だけではない。近いうちに私室も移動させてもらわなければ。ウィルフレッドから離れなければ。そう思うと心は逸る。
「必要ない」
あっさりと言い捨てられ、リューネリアは食らいつく。引くわけにはいかないのだ。
「必要はあります」
「なぜ?」
「では聞きますが、どうして寝室を同じにする必要がありますか?」
「それは夫婦だから当然だろう」
面食らったように告げられ、リューネリアは笑った。心の中に苦いものが広がる。傷つけると分かっていながら、口にすべきでない言葉を勢いに任せて口にした。
「私達は書面上では夫婦ですが、実際の夫婦ではありません」
本来、必要ないでしょうと続ける。
感情と理性を遮断して、頭だけで考える。ウィルフレッドを守ることを考えれば必要なことなのだ。
もともと協力関係だったのだ。人前で仲のいいフリをすればいいだけで、なにも寝室まで同じにする必要は本来ないのだ。
それだけを告げ、寝台から立ち上がった。
そして、言い忘れていたことを添える。
「明日の朝から、朝食も別々にしましょう」
二人で食事をするなどもっての外だ。同じ器から取り分けられるのだから、毒を入れられたらそれこそウィルフレッドの命に関わることだ。
部屋に戻ったらニーナに早速別室の準備をしてもらおうと、考えながら寝室の扉を開けようとした時だった。
取っ手に伸ばした手が空をつかむ。
何が起こったのか一瞬分からなかった。
身体が宙に浮いたと思ったら、目の前にウィルフレッドの整った顔が見え、彼に抱えられていることに気づく。その瞳はすごく真剣で、怒っているようにも見える。
いや、事実怒っているのだろう。
何かを言う間も与えられず、寝台の上にやや乱暴に下ろされ、驚いて見上げるウィルフレッドに肩を押さえつけられ起き上がれなくなる。そのことに、心臓が一つ大きく脈打った。
「ウィルフレッド様、何をっ」
漸く非難を口にし、肩を押さえる腕を除けようと試みたが、突如激しく唇を塞がれ、リューネリアは悲鳴を飲み込んだ。
そこには思いやりも何もなかった。
ただ、想いだけをぶつけられ、リューネリアは困惑する。
わずかな隙をついて抵抗するが、ウィルフレッドの怒りは消えない。そればかりか余計に油を注いだとリューネリアは気づきもしない。
「本当の夫婦なら、寝室を別にする必要はないんだろう?」
言われてリューネリアは眉を顰めた。
上げ足を取られる形でこの状態に持ち込まれるとは。しかも、ウィルフレッドの為を思って寝室を別にと言ったのに、これでは言い含められてしまう。
「駄目よ」
震えそうになる声をかろうじて強く出した。意思を貫く強さが伝わるように。
これ以上はウィルフレッドも自分自身も傷ついてしまう。想っている自覚も想われている自覚もある。だから無理矢理奪ったことをウィルフレッドは後悔するだろう。そしてリューネリアも一方的な行為は望んでいない。
「駄目……」
牽制の意味を込めて見つめ、ゆっくりとウィルフレッドの頬に手を伸ばす。
これ以上、衝動的な行動をしないよう、視線だけで押し留める。
「どうして――」
苦しげに吐き出すウィルフレッドに、リューネリアも泣きたくなる。
「あなたを死なせたくないの」
頬に伸ばした手で、そろりとその頬を撫でる。これ以上にないという愛しさを込めて。分かって欲しいという願いも込めて。
「私の側にいると、いずれあなたの命も脅かされてしまうかもしれないの」
「だからと言って、一人になってどうするっていうんだ?」
問われ、ゆるく首を横に振る。
「出来る限り、やれることはやってみるつもりよ」
そうなったら、なりふりなどかまっているつもりはない。どんなに醜かろうとも足掻いて、敵の尻尾をつかんで、目の前に引きずり出してやる。せめて、相打ちぐらいにでも持ち込めれば上等だろう。
「でもそれは」
「――そうね。先は見えているわ」
多分、もう時間は無い。それさえ出来るだけの時間が本当にあるのか分からない。
「だったら駄目だ」
すぐに拒絶の言葉を口に乗せたウィルフレッドに、ためらい、胸が切り裂かれるような痛みを感じながら一つだけ、と告げる。
「本当は、一つだけ方法があるの」
おそらく、一番いい方法なのだろう。最後に残された唯一の逃げ道。
だがリューネリアはこの方法だけは取りたくなかった。たとえどんなことがあっても、口にしたくなかったし、ウィルフレッドも同じ気持ちであればいいと思う。
だから、次の言葉がなかなか出なかった。
「どんな方法なんだ?」
驚いたように問われ、困ってしまった。彼は、思いつかなかったのだ。エリアスあたりは考えていたかもしれないが、ウィルフレッドには言えなかったのだろう。
苦笑して、一息に告げる。
「離縁して、私がパルミディアに帰るのよ」
事実上、逃げるのだ。
逃げたくはない。だが、ウィルフレッドも狙われるのであれば問題外だ。そのような矜持など捨ててしまえる。
それに死にたくなければ逃げるしかない。それによって再び開戦される可能性もある。もしかしたら二大国であるルーヴェルフェルトとゴードヴェルクの顔に泥を塗ったとして、戦争の規模自体が大きくなるかもしれない。
懸念をすべてウィルフレッドに伝えた。
それほどのことと、たかがヴェルセシュカの第二王子の王子妃ごときの命の一つを比べることが出来るだろうか。
「ネリー……。離縁は出来ない」
しばらくしてウィルフレッドは応えた。
リューネリアの肩に顔を埋めて何かに耐えるようにしている。
「もちろんよ」
その金色の髪を梳きながら、安堵する。
戦争で失われるかもしれない多くの命と、リューネリアの命一つなら、断然後者だ。だから、自分はヴェルセシュカに残る。そしてウィルフレッドの命も守る。それだけだった。
しかし、ウィルフレッドは首を横に振る。その柔らかい髪が頬を撫で、くすぐったい。
「違う。俺には何よりもネリーが大切だ。だから離縁などもっての他だ。離れるなんて我慢ならない」
その気持ちだけで十分だった。
「でも――」
「俺は守ると言った」
強く言われ、リューネリは口を噤む。
その真剣な眼差しを見つめる。
「絶対に守るから……。側にいてくれ」
縋りつくように乞われ、血を吐くような悲痛の中に延ばされた手を果たして振り払えるだろうか。
リューネリアはウィルフレッドの頭を胸に抱きしめると頷いた。理由が正しいとはどうしても思えなかったが、答えが同じなら結果も同じだ。
「守って……」
呟いた言葉は、願いだったのだろうか。祈りだったのだろうか。それはリューネリアにも分からなかった。