40.孤立無援(諦めたわけではないの)
リューネリアを呼び止めた者は、最終的に疑いを消され無罪放免となった。
身分や役職等を検分し、背後関係を洗い出し、間違いなく挨拶をする為だけに呼び止めたことが実証されたからだ。
しかも、幸か不幸か、その者が呼びとめなければ、リューネリアもバレンティナと同様に階段から落ちていた可能性を考えると、逆に呼び止めたことに対し感謝するべきなのだろう。
リューネリアが頭を下げ謝辞を述べると、酷く驚いた様子を見せていた。
しかし、バレンティナの身に起こった出来事で、憂慮すべき変化もあった。
侍女たちの態度だ。
彼女たちの気持ちも分からなくはない。自分の側にいるだけで、同じような目に合うとも限らないのだ。
今までは明るく陽気におしゃべりをしながら、それでもテキパキと仕事をこなしていた彼女たちが、話をすることもせず、わずかな物音にまでビクつくような反応を見せるその態度に、リューネリアの方がいたたまれなくなる。
ただ、彼女たちは巻き込まれただけなのに――。
考えた末、侍女たちにはバレンティナの看病を交代で行ってもらうことにした。
本当なら、少しでも早く異変に気付けるよう彼女たちを側に置いておく方がいいのは分かっている。だが、だからと言って彼女たちが傷つくこともリューネリアの本意ではない。
見えない相手は、リューネリアに精神的な打撃を与えることが狙いだとエリアスは言っていたが、それ以上の効果もあったようだ。
周囲から削られていく。
守りを失った目標へと、徐々に近づいていく。
「ニーナ」
何があっても動じないのは彼女しかいなかった。
呼ぶとすぐに来てくれる。
「お茶でございますか?」
「ええ。お願い」
本当は違うのだが、彼女も分かっていて言っているのだ。
心に巣食うのは薄ら寒い孤独だ。だが、それはニーナにもどうすることができない。
バレンティナは意識も取り戻し、酷い怪我をしたものの幸運にも後遺症が残るようなものではなかった。もうしばらく寝台から離れることを禁止されているため、今はこの東棟の一室で休んでもらっている。
騎士といわれているだけあって日頃から身体を鍛えているおかげか、咄嗟に受け身を取ることができたのだろう。あれが侍女であったらと思うと、彼女たちが怖がってしまうのも確かに頷ける。
リューネリアでさえ恐ろしく思うのだから。
お茶をいれようとしていたニーナが、浮かない顔で戻ってきた。
「申し訳ありません、リューネリア様」
「どうしたの?」
伏し目がちなニーナは、茶筒をその手に持っている。
視線をそれに向けると、ニーナは音と立てて蓋を開けた。ふわりと、お茶の香りが周囲に漂う。
「いつもと香りが少し違うのです」
言われても、微妙な変化はリューネリアには分からない。首を傾げて彼女の言いたいことを促す。
ニーナは筒を傾け、手のひらに少しだけ茶葉を取ると、少し握るようにして乾燥したそれを細かく砕いた。その匂いを嗅いで何かを確かめている。
「……調べてみないと断定できませんが、おそらく毒草を乾燥させたものが混ぜられていると思います」
「毒?」
「はい。あまり強い毒ではありませんが、飲み続けるとそのうち体調を崩すことになっていたでしょう」
告げられた内容に、冷たい何かが足元から這い上がってくるような感覚がした。
本当に、追いつめられている。
ここはリューネリアの私室だ。入室できる者も限られている。まして、最初の襲撃以来、入口の扉の側には常に護衛の騎士が見張り、入室の際は持ち物を入念に検査しているのだ。その警備の目をかいくぐって、茶筒に毒を入れるなど容易いことではない。
最初こそ稚拙な計画だと思って、すぐにでも犯人が見つかるものと思っていたが、気づいてみれば足場さえないということになりかねない。
もしかしたら、もう時間は残されていないのかもしれない。
知らずうちに呼吸が浅くなる。
脳裏に甦るのは、三年前のあの時のこと――。
リューネリアが後方支援と称して戦場にいた時、実際には軍を陰ながら動かしていた時期があった。あの当時、それがどれほど重大な――多くの兵の命を背負うことになるとも気づかず、言われるがまま、戦局もパルミディアが優勢で、知識を持っていたばかりに、いい気になっていたのかもしれない。一時期は、勝機が見えていたこともあったために。
実際、国境となるセレン=アデリーナ運河を越え、ヴェルセシュカの地にも足をつけた事がある。
だがある時、急にヴェルセシュカの動きが見えなくなったのだ。一体、何が起こっているのか分からなかった。大至急、情報を収集し、状況を把握した時にはすでに遅かった。そのほんのわずかな間に、見事に戦局を引っくり返されたと言った方がいい。
結局、相手の動きをつかんだ時には、再び運河を挟んだ地に軍を引き上げざるを得ない状況になっており、その後リューネリアは王宮へと連れ戻されることになった。
その時、初めて、どれだけの民が亡くなったのかを知った。
引き上げる道筋に重なる遺体。傷ついた人々。乞われるがまま机上で展開していた軍を動かした責任。王宮へと戻される意味。利用された立場。
そして、パルミディアが負けていたかもしれない現実。
「なんだか、あの時みたいね」
あの時も、ニーナは側にいてくれた。だから、いつと断定しなくても彼女には伝わったのだろう。手に持っていた茶筒を弄びながら頷いた。
でも、あの時はまだ逃げ道はあった。それでもまだ戦える余力が残されているほどの味方がいたのだ。
だが、冷静になって考えてみる。
果たして、今回はどうだろう。
逃げ場は用意されていない。
敵の手の中で、確実に足場を崩されていっている。
状況は、あの時よりも格段に悪い。
「撤退はなさらないのですか?」
ニーナは策があると思っているのだろうか。いつもと変わらない冷静な表情で聞いてくる。
そんな彼女を見上げ、申し訳なく思いながら笑みを向けた。
「ごめんなさい。結局あなたを危険な目にあわせてしまうのね」
あまりにも不甲斐なかった。
だが、気を落とすリューネリアとは逆に、ニーナは穏やかな笑みを浮かべる。
「謝る必要はございません。ですが最後までリューネリア様と共にいることをお許しください」
ゆっくりと頭を下げたニーナに、新しい生活の場所を用意できなかったと後悔が残る。それならば、彼女の望むようにするのもいいのかもしれないと頷いた。
「ええ。……でも、諦めたわけではないの」
まだ生きている。
それに守ってくれようとしている人もいるし、守りたい人もいる。
諦めてしまったら敵の思うつぼだ。
それも癪に障る。
死んでしまえばパルミディアがどうなってしまうのか、残される弟も心配だった。
ソファから立ち上がると、ニーナを振り返る。
「服の用意とウィルフレッド様に伝言を。少し頭を冷やしてくるわ」
たとえ周囲から見て不用心だと言われようと、リューネリアは怯えて部屋に閉じこもっているようなことはしたくなかった。強がりだと言われようと、胸を張っていたい。
追いつめられている、今だからこそ。
ニーナは一礼すると、言われたことを実行する為に下がっていった。
リューネリアは窓の外を見て、そこにいるかもしれない敵に精々不敵に見えるように笑って見せた。