38.茫然自失(一秒でも早く)
※痛々しい描写あり。ご注意ください。
午後は通常通り、ウィルフレッドの執務の手伝いをする予定になっていた。
部屋にいるよりも何かをしていた方が気分も紛れるし、警備の面から言っても執務室の方が警護しやすい事と、ウィルフレッドの側にいた方が――リューネリアを狙っている誰かとしても――襲撃しにくいのでは、ということを考えた上で、特にその行き帰りの道筋さえ気をつければ問題ないだろういうことになった。
ロレインとバレンティナ、他二名の騎士、ニーナと二人の侍女に周りを囲まれての移動に大仰過ぎると言ってみたが、ウィルフレッドに言わせれば、それでも現在の状況を考えるなら、王子妃という立場上少ないとのことだった。
だが、あえてこれだけの人数で押さえてもらっている。
何よりも怖気づいていると思われたくなかったし、敵を誘き寄せるにしてもこれ以上の人数だと相手も警戒する。
リューネリアたちの私室は王宮の東棟の一階にあり、ウィルフレッドの執務室は中央棟の二階にある。
歩くだけでも、かなり移動距離があるが、その上、警戒すべき場所もそれだけ多い。
襲撃される危険性を考えると、自ずと人気の少ない場所よりは多い場所の方を選ぶようになり、道行も遠回りすることになる。
まず、東棟と中央棟を二階部分でつなぐ渡り廊下を通る。東棟は人の出入りが制限された区画であり、王族と一部の貴族にのみが立ち入ることが許されている。
比較的そういう理由で、中央棟とつながった辺りは人気が少ない。そのまま二階を突っ切れば、執務室へは近いのだが、やはり中央棟の二階も出入りできる人間は限られている。やはり人気が少ないということで、遠回りになるが一度すぐに一階に下り、誰でも利用できる開放された公共の場である廊下を通ってから、中央棟のまさに中央にある二階へと続く階段に向かう。
人気が多いということは、つまり出会う人も多くなるということで、リューネリアは執務室にたどり着くまでに、数多くの貴族たちに足止めをくうことになる。
その日最初に声をかけてきた者は珍しくも、中央棟に渡ってすぐにある階段を下りようとしている時だった。
執務室には本来、階段を下りることはせず、反対にわずかばかり上がることにより中央棟の二階に着く。だから、東棟とつながっている場所は、中央棟から言えば本来、踊り場といった方がいいだろう。
人気の少ない中央棟二階から呼び止められる声がして、リューネリアは一瞬身体を強張らせる。
が――。
すでに下りる階段に向かっていたバレンティナが小さな悲鳴を上げたことに振り返った。
一瞬、何が起こったのか分からなかった。
ロレインや他の騎士たちも瞬間、身構える。
「――バレンティナ!」
最も近くにいたリューネリアは思わず手を伸ばした。
しかし――。
反対の腕をニーナに引っ張られ、あいた片手は空をつかむ。
目の前でバレンティナの身体が吸い込まれるように階段の下へと向かっていく。まるで自ら飛び込んだように。
その光景は、時間が引き延ばされたかのようにゆっくりと流れていく。
驚きに見開かれた目。何が起こったのか彼女もきっと理解していなかったに違いない。束ねられていた茶色の髪が、ゆっくりと宙に浮く。だが、すぐに次に来る衝撃を受け止めるためか、彼女は目を閉じて――。
長いようだが、実際には一瞬の出来事で勢いよく転がり落ちていくバレンティナを誰も止めることは出来なかった。
息をすることも忘れて、階下で止まった彼女を見つめる。
「っ放して!――バレンティナ!」
身体ごと押しとどめられ、すぐに周囲を囲まれたリューネリアは、ニーナを振り返る。視線を向けると、ニーナは腕から手を離してくれたが、ロレインや周りを囲んだ騎士たちは譲ってくれない。
階段下で倒れているバレンティナはピクリとも動かない。瞼も閉ざされているようで、リューネリアの悲鳴のような声を聞いても反応がない。
ニーナは階段の最上段手前で、床に膝をついた。
「リューネリア様、これを」
淡々と静かな声音で言われ、リューネリアは訝しむ。それどころではないとは思いつつ、彼女が指し示したものに視線を投げ、目を見張った。そして、次の瞬間には血の気が引いた。
指し示された場所には、細い、だが頑丈な紐が張られていた。しかも丁寧なことに、階段に敷かれている絨毯と同じ色の紐だ。
そこに悪意を感じて、リューネリアは階段下に倒れているバレンティナを見た。
「――退きなさい」
震える声で、だがどこまでも有無を言わせない声で命じる。
周囲の騎士も一瞬躊躇ったが、リューネリアの表情を見てゆっくりと道を開けた。
「ネリア様……」
青ざめたロレインを見て、きっと自分も同じような顔をしているに違いないと思う。
だが、リューネリアは覚悟を決めると手すりを握り、張られた紐を見下ろす。
証拠だから紐を切ることは出来ない。
躊躇いなくドレスを手繰り上げると、出来るだけ紐に当たらないように跨ぐ。そしてすぐに階段下へと向かう。
「バレンティナ!」
再度の呼びかけに、彼女の瞼が微かに動いたように見える。
一秒でも早く側に行きたい気持ちを抑え足を止めると、まだ踊り場に留まっている侍女を振り仰ぎ、素早く指示を出す。
「すぐに医師を呼びなさい!」
リューネリアに声をかけてきた者は、騎士の一人によって拘束されている。だが、彼が声をかけてこなければ、リューネリアも同じ運命だったのだろうか。
だが今はそんなことを考えている余裕などなかった。
横たわるバレンティナの側に跪き、震える手をそっと彼女の口元にかざす。息があることにホッとする。
力なく無造作に投げ出されている手を取ると、バレンティナは痛みに耐えるように呻き声を上げた。
「っ、バレンティナ!――バレンティナ!」
頭を打っている可能性がある為、むやみに動かせない。
せめて意識だけでも戻ればと、リューネリアは必死に呼びかけた。
人気の少ない場所とはいえ、リューネリアの声に次第に人が集まり始める。ロレインがすでに側に来ていたが、リューネリアの警護をするには人が少なすぎる。
「ネリア様、あなたは階上へ」
「馬鹿なことを言わないで」
自分の身代わりとも言えるかたちでバレンティナの身に起こったことに少なからず罪悪感があった。先ほど、手を取った時にうめき声を上げられたため、リューネリアはただ側にいることしか出来ない。それが腹立たしい。
「どうか、ネリア様」
ロレインが懇願の眼差しを向けてくる。
分かっている。むしろバレンティナが身代わりになったのだから、むやみに命を狙われやすい状態にいることが得策ではないことぐらい。
一度、ぎゅっと目を閉じると、ロレインと場所を代わる。そして、階段を上る。
途中までニーナが迎えに来てくれていたが、気持ちは階下に向かう。
何度も立ち止まってしまうリューネリアにニーナが痺れを切らしたのか、腕を引っ張るようにして階段を上り始めた。今は安全が第一だと思っての行動だから、誰もニーナを咎めない。
リューネリアも促され、ゆっくりと階段を上る。
だが、その足は重石をつけたように重たかった。