32.唯一無二(嫌わないで)
ウィルフレッドがリューネリアを見つめる視線は、熱に浮かされたように潤んで視線を外すことを許さない。無意識に身体が逃げようとするのと、ウィルフレッドが手を伸ばしてきたのは、ほぼ同時でわずかに彼の方が一歩早かった。
「ネリー」
名前をただ呼ばれただけなのに、動けなくなる。
でも敬称で――あなたと呼ばれた時よりも、心に込み上げるこの感情は何なのだろうか。
腕を滑るように手を取られると、その指先に口づけされる。触れる吐息は熱く、その一連の動作からは目が離せない。
体温が上昇する。
「ネリー……」
どこまでも甘く響く声に、リューネリアは泣きたくなった。
「好きになってくれとは言わない。でもどうか嫌わないでくれ」
その一言に、リューネリアは俯く。後半の言葉は、リューネリアが心の底でウィルフレッドに対して願っていた言葉だったのだから。
「もう二度とネリーの嫌がるようなことはしない。だから守らせてほしい。俺の手を必要ないと言わないでほしい……」
口づけは指先から手首に移動しながら何度も落とされる。ウィルフレッドの伏せられた長い睫毛が微かに揺れる。
リューネリアは、その告白を信じられない思いで聞いていた。
今思えば、ウィルフレッドが取った行動はすべてリューネリアを想うあまりのことで、本心から守ろうとしてくれていたその思いにリューネリアが取った行動といえば反発して館から抜け出し、怒りを覚えて勝負を挑み、自分の主張ばかりを通していた。
それはつまりウィルフレッドの想いを否定する行動に違いなく――。
だが、リューネリアはすんなりとその想いを受け取れない慎重な自分が嫌になる。ウィルフレッドが触れている自らの手から視線をそらす。
「あなたは……」
それでも慣れないことに緊張で声がひっくり返ってしまいそうになるのを何とか押さえながら、それでも声を出した。
「私があなたの主義を認める場合、私に独占欲が生じると問題だと言った私の言葉を否定しなかったわ」
「あなたはもう知っているだろう。俺には今、恋人と呼べる者は誰もいないと」
「でもこれから――」
他に恋人ができるかもしれない、と言おうとした先に被せるように言われた。
「ネリー以外は欲しくない」
はっきりと告げられ、リューネリアは腰が抜けそうになった。
足が震える。
未だに捕らえられた手はウィルフレッドに握られている。
いきなり突きつけられた強い想いに、リューネリアの頭の中からすべての事が弾け飛ぶ。
「あの……私は……」
「いいんだ。ネリーが俺のことを嫌ってなければ……。それともこうしているのも迷惑?」
つながれた手を力強く握られて、リューネリアは首を横に振った。
「あの、迷惑じゃない、です。……でも、今までこういう可能性を考えた事もなくて、その――混乱してるの。私もあなたに嫌われたくないと思っていたけど、あなたと同じ気持かどうかと言われると分からなくて……」
混乱しながらも、リューネリアも一つ一つ自分の感情を口にする。
そして、一番重要だと思うこともどうにか吐き出す。
「でも、私はあなたのことは嫌いじゃないし、まだ先の事は、わからないけど、多分……好き……になると思うし、その努力もする」
火照る頬を空いている片手で押さえ、自分の言った言葉がウィルフレッドを傷つけなかったか反芻する。決して、いい言葉で返せたつもりはなかったので、ガッカリしているかもしれないと思い、そっと上目づかいに窺い、すぐに白旗を掲げた。
ウィルフレッドはどんな女性をも魅惑してしまうような笑みを浮かべていた。それがただ自分一人に向けられているものだと気づき、カッと身体が熱くなる。
「……ずるい」
その笑顔は反則だ。
「ネリーが嫌ってないのなら、俺も好きになってもらえるよう努力するだけだ」
それではリューネリアが落とされるのも時間の問題だ。コーデリア達も言っていたことがある。ウィルフレッドが落とそうと思って落とせない女性はいないと。その上、ウィルフレッドにとって自覚していない人間と自覚している人間ならば、後者の方が圧倒的に有利だということにリューネリアは気づいていなかったが。
「ネリー、今日は一緒に寝よう」
手を取られたままさらりと言われ、この直後というだけあって、今までと状況が違うだけに過剰に反応してしまう。
「ええっ!」
「そんなに驚かなくても……明日からは強行軍になるし、ネリーに嫌われるようなことは何もしない」
「――え、ええ……」
本当にいいのだろうかと思いつつ、手を引かれて寝台へと引っ張られる。先ほどの告白に腰が抜けそうになっていたリューネリアは、その途端転びそうになった。
あっと思う間もなく、前から素早く差し出された手に身体を支えられ、転倒は免れる。だが、頭上から怪訝な声が降ってくる。
「どうした?」
思いがけず耳元で声がして、リューネリアはウィルフレッドの胸に手をついて身体を支えていることに気づく。
焦って立とうとして、いつの間にか足の筋肉が硬直していることに気づいた。
思い当たることは一つ。
「昼間の乗馬で……」
今思えば、あのような勝負などする必要はなかったのかもしれない。
「痛めたのか?」
問われた途端、視界が反転した。有無を言わせず身体を抱え上げられ、気づいた時はウィルフレッドの腕の中だった。
「違います!久々だったから筋肉痛になっただけです!歩けます!」
慌てて訴えたものの、ウィルフレッドは首を横に振る。
「無理はするな」
そう言って、下ろされることはなかった。
壊れ物でも扱うかのように寝台にそっと下ろされる。それだけで心臓が早鐘を打つ。
「すぐに揉み解さなかったのか?」
「はい。騎士団の方たちに囲まれてそんな時間が無かったから……」
久々に乗馬をしたのだから、本当ならその後すぐに筋肉をほぐし、冷却した方が良かったのかもしれない。だが、勝負の後はそのような間はなかったし、ウィルフレッドのことが気になってそれどころではなかった。
それに、あっという間に騎士たちに囲まれ、押しやられ、気づいた時には広間で食事を前にしていたのだ。
「まったく、あいつらは……」
そう呟くと、一度寝台から離れて――もしかして薬でもあるのだろうかと――考えていると、足元に回ったウィルフレッドは、おもむろにリューネリアの夜着の裾を膝まで上げると、ふくらはぎを揉み始める。
「きゃぁっ、って痛いっ!」
悲鳴を上げ、逃げ出そうとしても、ウィルフレッドの手はがっちりと足をつかみ放してくれない。
「今更だが、しないよりはましだろう」
そんなに力を込められているわけではないが、すでに触れられるだけで痛いのだ。
涙を浮かべながら、思わず近くにあった枕を抱き寄せる。胸元に抱きこみ、痛みを逃すために自然と身体は丸くなる。それでも身体中に力が入ってしまう。
両足の筋肉を解される頃には、逆に肩に力が入りすぎて肩が凝っていた。
「明日は立てないかもしれないな」
ようやく解放され、リューネリアは座ると目元の涙を拭う。
「馬車だから大丈夫です」
どうせ歩くことはそんなにない。多少歩く姿が無様になるかもしれないが、これは処置を怠ったリューネリアの落ち度だ。仕方がない。それに王宮に着くまでには少しは軽くなっているだろう。
ゆっくりと足をさすっていると、いつまでもウィルフレッドがその場から動く様子がないのに、どうしたものかと見上げた。
顔を背け、さらに片手で口元を覆っている。耳がわずかに赤く染まっているように見えるのは気のせいだろうか。
「ウィルフレッド様?」
何かあったのだろうかという意味を込めて呼ぶと、ウィルフレッドはゆるく首を横に振ると、深々と息を吐き出した。
「少しは警戒して欲しいな」
ちらりと向けられた視線の先が、自らの足に注がれ、夜着が膝上までたくし上げられていたことに遅まきながら気づく。
悲鳴を上げながら慌てて隠し、ついでに布団の中に隠れる。ウィルフレッドも気まずそうに視線を外した。
「無防備すぎる……」
そう呟き、息を吐き出す。
しばらく重苦しい空気が流れたが、ウィルフレッドが諦めたように髪をかき上げてリューネリアの隣に入ってきた。
いつものように身体に腕が回される。
それはいつもと同じはずなのに、ウィルフレッドの気持ちを知ってしまったからか身体に力が入る。それに、少しでも間に空間を作りたくなってしまうのは許して欲しい。
「ネリー」
呼ばれて見上げると、瞼に唇が下りてくる。
「おやすみ」
いつもの挨拶に、なぜかホッとする。
俯いてウィルフレッドの胸に額をよせると、ほどなく眠りの波に飲み込まれていった。