30.曖昧模糊(心配をかけることしかできない)
ロレインやバレンティナが、苦労してリューネリアから騎士たちを引き剥がし、部屋に戻るとニーナが入浴の準備をしてくれていた。
今日は馬を駆って汗をかいていて、足もそろそろ痛みを訴え始めている。ゆっくりと湯船につかりたいと思っていたのだ。
部屋の外に控える二人を残して、リューネリアはニーナの手を借りて身体を綺麗にした。髪も綺麗に洗う。
「ねえ、ニーナ」
ぼんやりと立ち上がる湯気を見ながら、リューネリアの髪に香油を丁寧に馴染ませているニーナを見上げる。
「なんでしょう?」
「私が館に戻ってきてからウィルフレッド様を見た?」
ずっと気になっていたのだ。騎士たちと食事をする時も、何も言ってこなかった。確かに、館の中でなら自由にしてもいいと言う約束だったが、なんだか見放されたみたいで不安だった。
それに、馬から下りるのを手伝ってくれた時のあの表情。完全に感情を隠した顔は、何を考えているのか分からない。
ニーナは髪に布をあて、水気を取りながら頷いた。
「ええ。食事をお運びしましたよ。その時にお見かけしましたが」
「どこに?」
「ウィルフレッド殿下のお部屋です」
言われてみれば、確かに騎士たちも言っていた。ウィルフレッドは部屋を一室確保していると。
王宮では、いつも一緒に眠っていたので今では一人で眠ることに多少の違和感があるほどだ。ふと夜中に目を覚ました時に、ウィルフレッドの温もりを探してしまうことがある。そして、ああ、いないのだと思ってしまうのも事実だ。
「その部屋はどこにあるの?」
「……リューネリア様。別に夫婦だから止はしませんが、もう夜も更けております。ウィルフレッド殿下はお休みかもしれませんよ?」
言われてみれば、そうである。
食堂から部屋に戻ってきた時点で、もうすぐ日付が変わろうとしていた時刻だったのだ。入浴している間に、かなりの時間は過ぎている。いつもなら、休んでいる時刻だ。
でも、あの時の顔が気になって仕方がない。
俯いていると、気落ちしてしまったことに気づいたのか、ニーナは大きなタオルで身体を包むと、湯船から出るのに手を貸してくれた。
「仕方ありませんね、リューネリア様は……。取りあえず髪も乾かさなければなりませんし、身支度を整えてしまいましょう。その間に、殿下が起きていらっしゃるかどうか確認していただきましょう」
てきぱきと仕事をこなすニーナになされるがまま、夜着を身につけると髪を乾かされる。その間に、部屋の外で控えている二人に声をかけていた。
本当にしっかりしていて頼りになる。リューネリアにとってニーナは、むしろ侍女というより姉という存在に近かったが。
身支度が整うと、ロレインとバレンティナが部屋に入ってきた。
ニーナは入浴の後片付けのため、リューネリアは二人に託されることとなった。
「殿下の部屋の周囲は警備上、人払いがされておりません。ですから、ネリア様がこのような時刻に行かれるのは本来お勧めできないのですが」
渋い顔をするロレインとは逆に、バレンティナは何故か嬉しそうに明るい声を出す。深夜だというのに、彼女はいつも陽気だ。
「ガウンをきちんと着て下さいね。一応、私が先に行って一時的に人払いをしますから」
ウィルフレッドの部屋に行くまでは通常よりも時間がかかると言われた。
当然、ガウン姿で歩き回ることも普通なら考えられないことだ。臣下にそのような姿を見られるのも褒められたことではないことぐらい分かっている。だから、バレンティナが一時的に配備されている騎士を追っ払うと言っているのだ。
「ごめんなさい。でも、どうしても気になって」
あの時のウィルフレッドの態度を思い出して、ひどく心が痛んだ。きっと気づかない何かを仕出かして、傷つけてしまったに違いない。
ロレインが小さく息を吐き出すのが聞こえ、リューネリアは扉の方へと促された。
「確かに殿下は落ち込んでいたようです。きっとネリア様ぐらいしか元気にしてさしあげることはできないでしょう」
どうやらロレインも気づいていたようだ。
先にバレンティナが行ってしまったのを見て、時間を見計らってロレインが廊下を進む。
廊下には等間隔で燭台に灯された明かりが揺らいでいた。足元に落とす影を見つめながら物思いに耽る。
先ほど、ロレインがリューネリアにしかウィルフレッドを元気にすることが出来ないと言っていたが、それを内心で否定する。
それはない。ウィルフレッドがリューネリアの身を心配してくれているのは本心からだというのは分かる。その理由もリューネリアがヴェルセシュカにとってなくてはならない駒だからだということも理解している。だが、なぜウィルフレッドが落ち込んでいるのか、そしてそれを元気にすることができるのを、リューネリアだけだと限定してしまうことに結びつけるのか分からない。誰か他の人でもできないことはないだろう。むしろウィルフレッドを良く知っているエリアスやロレインの方がいいのではないかと思える。
それに――。
もっと違う存在になりたいと思う。
たとえ駒であろうとも、守られてばかりいる駒にはなりたくはない。それでは誰かを――ウィルフレッドを盾にして生きているということだ。もしもその盾を失ってしまったらリューネリアは完全に無防備だ。ヴェルセシュカでは生きてはいけない。自ら動き、きちんとウィルフレッドの隣に立ちたかったのだ。だから今回のことも、ヴェルセシュカの為になるはずだと思って動いた。きちんとできることを証明したかった。
だが結局は、部屋に閉じ込められていたのも、連れ戻しに来たのも、リューネリアにそれだけの価値が、力がないと思われているからだ。
しかも出来ることといえば。
「私は……ウィルフレッド様に心配をかけることしかできない……」
ポツリと呟いた言葉を、先を行っていたロレインは聞いていたのだろう。彼女はピタリと歩みを止めると、顔だけをこちらに向けて小さく首を横に振った。
「違いますよ、ネリア様。確かに殿下は心配をされています。ですが、何故殿下が心配をされているのかわかりますか?」
言われ、少し考えてから、口を開く。
「……私が無茶をするから?」
今思えば、査察に行かせてくれと言ったことには渋々承知してくれたのだろう。村がならず者たちに襲われている時に、ロレインやバレンティナを側から外したことも、館から抜け出したのも、すべてリューネリアが出した結果だ。それがウィルフレッドの目から見たら無謀な行動に見えたのかもしれない。
だがロレインはゆるく首を横に振った。
「いいえ。……ですが、それは殿下に直接お聞きになる方がよろしいかと思います」
珍しく柔らかく笑んで、ロレインは再び歩き出した。
無茶をするからではないのだろうか。
最初に、協力者であることを望んだのはリューネリアだ。ウィルフレッドはそれを受けてくれた。だから、地位と権力を手に入れるためにできることなら、どんなこともウィルフレッドに協力を惜しむつもりはなかった。執務を手伝うことも、ヴェルセシュカという国を知るには必要なことだったし、事務的なことは慣れていたので、役に立てたとは思っている。だが、王宮から出てみたら何ということもない。何ができたのだろう。役に立つどころか足を引っ張っているのではないだろうか。これでは、ヴェルセシュカでのリューネリアの立場を悪くし、さらには協力者であるウィルフレッドの立場も同時に悪くするのではないだろうか。だから、ウィルフレッドは部屋に閉じ込めていたのだろうか。これ以上、無駄な足掻きをさせないように。
気づくと溜息が出ていた。その息は重く、気分共々沈んでいく。
結局、堂々巡りだ。
暗澹たる気分に沈んでいくリューネリアだったが、気づくとロレインがある一室の前で止まっていた。
見事に誰にも出会うことなく、ウィルフレッドの部屋にたどり着いたらしい。
ロレインが扉をノックした。入室の返事が返ってきたところで、ロレインはリューネリアに一礼して下がって行った。
そしてリューネリアは扉に向き直ると、ゆっくりと開けた。