29.真剣勝負(約束よ)
リューネリアは幼少の頃から徹底的に馬術を仕込まれていたので、少々のことでは負けるつもりはなかった。それでも領主の館まではかなりの距離があるし、道中どのような事故があるとも限らない。だから全部の力を出し切るのではなく、余力を残しながら馬で駆っていた。
風景が風をはらんで後方に流れていく。
すぐ背後に蹄の音が聞こえ、唇を噛む。
どうやらウィルフレッドも相当の腕前らしい。離れずついてきているということは、最後で勝負をかけるつもりなのだろう。思わず唇と噛みしめる。それはリューネリアと同じ考えだった。
だがそれよりも、この速度についてこられるだけでも大したものだと思う。
馬自体もいい馬なのだろう。
久々の疾走に、今まで燻っていたイラつきや焦燥がどこかへと消えていくのが分かった。
体温は徐々に上昇し、心地よい汗をかく。頬や額を撫でていく風は心地よく、傾きかけた夕日は穏やかで、エピ村ののどかな田舎風景はどこまでも優しい。これで、所々に見える略奪や放火の痕がなければ、どんなに美しい村だったことだろうと、今更ながらに悔やまれる。
すでに家路についている村人たちには、自分たちの勝負の事が伝わっているのだろうか。
疾走する二騎に手を振る子供もいる。
リューネリアは笑顔で応え、馬の状態を確認しながら速度を上げた。
体重の軽いリューネリアの馬は疲労が少ない。まして、馬に負担をかけるような乗り方をしているつもりもない。
そのまましばらく並走し、領主の館まであと残すところわずかとなった時、ウィルフレッドが勝負に出たのに気づいた。
背後にいた馬が隣に並ぶ。
ちらりと横を見ると、ウィルフレッドもこちらを見ていた。余裕、とまではいかないが、まだ余力はあるらしい。しかし、馬の状態は思ったほど良くない。
正面を向くと、驚いたことに館の門前に溢れるほどの人だかりができていた。遠目で見ても、それが騎士たちであることがわかる。
異様な盛り上がりを見せて声援を送っているところを見ると、彼らなりに楽しんでいるように見えなくはない。一体、先に戻ったエリアスたちは何を吹聴したのかと首を傾げる。
驚きながらも、手を緩めるつもりはなかった。
掛け声と共に、馬に合図を送る。途端、速度を上げた馬に心の中で応援しながらも、リューネリア自身も息が上がってくる。
身体に伝わる振動と、足に込める力に疲労を感じずにはいられなかった。久しぶりの乗馬に、腿の筋肉が悲鳴を上げている。だが、負けるわけにはいかない。村長や村人たちの期待にも応えなければならないのだから。
ただ真っ直ぐ前を見つめ、屋敷の門をくぐった。周囲の歓声が遠くに聞こえる。
手綱を引いて馬を止めると、背後を振り返った。すぐ後ろにはウィルフレッドもいる。
息が上がって、肺が痛い。胸を押さえながら息を飲み込み、エリアスを探すとこちらを見て、珍しく笑顔を見せてくれた。
「勝者はリューネリア様です」
静かに告げられた声に、空気が揺れた。騎士たちから歓声が上がる。それは悲鳴とも叫びとも分からないような雄叫びだ。
すぐに近くにいた騎士たちが駆け寄ってきて、リューネリアから手綱を受け取ってくれた。馬から降りようとしたところ、先に下馬していたウィルフレッドが来て、手を貸してくれた――が、その顔はどことなく不満げに見えなくもない。
「約束よ。館の中は自由にしてもいいでしょう?」
明日にはこの地を出発して王宮へと帰るが、それでも部屋に引きこもっていたくはなかった。
「ああ、好きにしていい」
ようやくリューネリアの満足する返事が聞けて、思わずその胸に飛びつく。途端、周囲の騎士たちから、はやす声や口笛が聞こえる。
「ありがとう」
どのように感謝をしたらいいのか分からず、先程までの苛立ちも忘れ、その背に腕を回す。しかし、その身体がわずかに強張ったのに気づき、リューネリアは顔を上げた。
そこにはいつものウィルフレッドがいた。
勝負に負けたにもかかわらず、思ったよりも涼しい顔をしている。自分を見下ろす眼差しは優しい。
だが、リューネリアはその顔に見覚えがあった。この顔は、王子の顔だ。綺麗に自分の感情を隠してしまえる仮面をつけている。ハッとして、ゆっくりとウィルフレッドから離れる。
何を浮かれていたのだろう。もしかして、彼を酷く傷つけてしまったのかもしれない。
しかもその上、この館のどこかに女性を囲っているのだった。ならば、このような衆人環視の中で抱きつくなど言語道断だ。誤解をされてしまう。
あまりの気まずさに視線を逸らしたまま固まるリューネリアの周囲に、騎士たちが勝者を称えるために集まってきていた。彼らの高い背に阻まれて、すぐにウィルフレッドの姿が見えなくなる。
人波に押されるように、リューネリアとウィルフレッドはその距離を広げていった。
その日の夕食は、なぜか大広間で騎士たちと席を共にしていた。王宮ならば絶対に有り得ないことだが、日常と違う場所にいると、騎士たちも常識が当てはまらなくなるらしい。ロレインやバレンティナの制止も、彼女らの同僚には右から左に通り抜けていくらしく、リューネリア自身もウィルフレッドの様子にそれどころではなかったので、言われるがままになっていた。
食事自体は聞くところによると、エピ村の村人たちが協力してくれたおかげで、質素ではあったが日頃から量は充分にあったようだ。近隣の村からや、ヴァーノン子爵夫人の実家からも何度も差し入れがあったようで、肉体労働である騎士たちが飢えを知らずにいられたのも、背後にそういう働きがあったからだ。
「最初からリューネリア様ではないかと見当はついていたんですよ」
騎士たちと話しているうちに、ロドニーから聞いた噂の話になり、リューネリアは真相を知ることになった。
リューネリアが領主の館にいるというのは、当初、騎士たちの間でも話題になっていたらしい。恐らく、最初に査察官の警護としてやってきていた騎士と、後からやって来た騎士たちが合流した時点で、予測はついていたのだろう。しかも、立ち入り禁止区域まで設けられているから違いないと思われていたが、その夫であるはずのウィルフレッドが別に部屋を一室確保して休んでいることから、王子妃がいるという話は嘘で、実は別の女性を囲っているという噂が今度は上った。
それは騎士たちの間では、単に面白がって言っていたに過ぎなかったのだが、皮肉にもジェレマイアの緘口令によって真実味が増してしまったらしい。騎士たちも最後の方は自分たちがしていた噂に踊らされていたと言って笑っていた。
確かに、リューネリアはずっと一人で夜を過ごしていた。ウィルフレッドが同じ部屋で休まないのも事後処理が忙しいためだろうと思っていたし、せめて夜ぐらいは話し相手になってくれと我儘を言って手を煩わすのも申し訳なかった。
しかも、騎士たちから聞いて噂の真相がわかり、リューネリアはドッと疲れた。いるはずもない女性を気にかけていたとは……。感情に任せて、変なことを口走らなくて良かったと、少しだけ安心する。
だが、気にかかるのはウィルフレッドの先ほどの態度だ。王子の仮面をつけた顔を向けられたのは、まだ協力関係を結ぶ前の頃だ。
ざわりと心の中で何かが蠢く。
「リューネリア様?」
怪訝な声に、ハッとする。
気をゆるめると意識がすぐにそちらへと向かってしまう。今は、騎士たちが祝杯を上げてくれているというのに。
リューネリアは気を取り直して、騎士たちへと向き直る。ここ数日、本当に話す相手が限られていたので、騎士たちとの会話は純粋に嬉しかった。
そして、気づくと夜も更けていた。