17.不安要素(相談にのってやるから)
翌日より領主の館の一室を貸し切り、エリアスと資料を繰る。
借りた部屋は一階の書斎で、それほど大きな部屋ではなかったが、入り口を除いた全ての壁が蔵書で埋まっていた。中央に四人掛け程度の机が置いてあり、エリアスと二人で作業をするには充分な広さである。そこに必要な資料を運んでもらい、午前中はお互いに必要と思われる箇所を抜きだしいく作業にあてた。
午後からは交代で村へ行き、村人から話を聞くことを予定している。
軽めの昼食を取った後、リューネリアはロレインとバレンティナを伴って領主の館から出ようとしたところで、騎士団長のジェレマイア・エーメリーに呼び止められた。
今回の査察に、護衛として連れてきた騎士八人と従騎士一人のうち、リューネリアの素性を知っているのはこのジェレマイアとロレイン、バレンティナの三人だ。他の騎士は単なる査察官補佐としか思っていないだろう。もし、王子妃としてのリューネリアを王宮で見かけていたとしても、今は暗い茶色の髪に簡素な服なのだ。誰も王子妃だとは気づかないだろう。
「これから村へ行くのか?」
赤みの強い金髪を後ろに撫でつけてはいるものの癖が強いのか、寝ぐせのようにピョコピョコとはねている髪は、いかつい顔をどこか愛嬌のあるものに見せている。歳も三十を超えたぐらいだろうか。背も高く、リューネリアにとっては見上げるほどだが、威圧感はまったく感じさせない。むしろロドニーと同じように人懐っこささえ感じさせる。しかも、この度の査察は身分を隠しているので敬語を使わないでくれと頼むと、ニカリと笑い、仲間と話す時のような態度で接してくれていた。
「はい。村の方達にお話を聞いてきます。あの、何かありましたか?」
笑顔で尋ねると、ジェレマイアは自分の頭に手をやり、ぐしゃぐしゃと髪をかき乱した。
「いや、用ってほどのことはないが……」
言いづらそうに言い淀み、ちらりとリューネリアの背後にいる二人に視線を送る。だが、二人がその場から動かないことを見て取ると、深々とため息を落としてから口を開いた。
「ちょっと聞くが……あんた、身の回りのことは大丈夫なのか?」
さぞ言いづらいことなのだろうかと身構えていたリューネリアだったが、思いがけない問いに自然と笑み崩れる。
「その心配をしてくださったんですね」
本来、一国の王女として育ってきた姫ならば、身の回りのことはおろか、ボタン一つさえ止めることができなくてもおかしくはない。それをジェレマイアは心配していたのだろう。そして後ろの二人を見たのは、きっと彼女たちの手を煩わせているとでも思ったのだろうか。
リューネリアは可笑しくて、思わず声を出して笑った。
「ありがとうございます。大丈夫ですよ。一人で出来ます」
「そうか……。いや、もし必要ならロドニーを貸そうかと――」
そう言いかけたところで、怖いものでも見たかのようにジェレマイアは一歩下がる。
「エーメリー団長」
押し殺したような声を発したロレインが、リューネリアの一歩前へと出る。
「馬鹿なことをおっしゃらないで下さい。女性に男の小姓を付けるなど常識外ですよ」
「いや、そういうつもりで言ったんじゃ……、それにロドニーは小姓じゃなくて……」
従騎士――と声が次第に小さくなっていく。
ロレインは踵を返すと、さっさと玄関へと向けて歩き出した。
「行きましょう、リリア様。こんなところでぐずぐずしていると日が暮れてしまいます」
ちらりと振り返って、リューネリアを何気に促す。
「ロレイン。団長さんは心配して……」
あまりの態度にいさめかけた言葉を、当のジェレマイアが止めた。
「いや、いい。……あまり遅くならないうちに帰ってきてもらえるとありがたい。――二人とも、頼んだぞ」
身体の向きを変え片手を上げると、まるで逃げるように去っていった。
どうやら心配して様子を見に来てくれたようだ。多分、身の回り云々は口実に過ぎなかったのだろう。
ロレインとバレンティナも不器用なジェレマイアの配慮に気づいたのだろうか。リューネリアと視線を合わすと、思わずといったように苦笑した。
「さ、行きましょう」
リューネリアは今度こそ二人を連れて、館をあとにした。
リューネリア達と別れて報告の為に書斎へと向かっていたジェレマイアは、廊下に立ちすくみ俯いている少年を見つけ、慰めるつもりで肩を叩く。
「まあ、あれだ。ロレインも悪気があって言ったわけじゃないんだ。気にするな」
先程のロレインの声が聞こえていたのだろう。小姓と言われたことに衝撃をうけ、落ち込んでいると思ったのだが。
「僕……リリアさんに小姓だと思われてるんですか?」
「は?」
思いがけない言葉に、ジェレマイアはまじまじとロドニーを見下ろす。
この少年がまだ自分の腰ぐらいまでしか背がなかった頃からよく知っていて、まだまだ子供だと思っていたが、今の言葉から推測するに今頃になって色気づいたのか。
ここは喜ぶべきなのだろうが、先程ロドニーが言った名前に素直に喜べないものをおぼえる。
彼女の素性はたとえどんな事情があろうとも明かせるものではない。もしも何かあろうものなら、自分の命一つで償えるようなものでないことも承知している。
だが、ここで少年に初めて芽生えただろう恋心をいきなりぽっきり折ってしまうのも気が引けて、思わず唸る。
「いや、おまえが従騎士であることは知ってると思うぞ?」
小声になりつつ、控え目な慰め方しかできない。
「でも僕は雑用しかまだ出来ないし、それに年下だし……」
言いながら次第に落ち込んでいく少年に、ジェレマイアは天を仰いで片手で顔を覆った。
そんなことは問題にもならない。
彼女は王族で、雲の上の人間で、しかもなにより人妻だ。
最初からロドニーは失恋決定なのだ。
ジェレマイアの脳裏に、ふと第二王子の顔を浮かぶ。こういう時、あの王子がいればとも思う。この手のことに関しては、まず間違いなく上手く助言してやれる。しかし、今回はその王子の奥方がロドニーの初恋相手となるのか……。
髪をぐしゃぐしゃとかき回し、心中で悪態を吐く。なぜよりにもよって彼女なのか。
そもそも、ウィルフレッドは王族のくせに、エリート意識の高い近衛兵を警護につけたがらなくて――要は女性遊びをいさめられることが多かったと記憶している――気さくな騎士団との付き合いを好んでいたところがある。パルミディアの王女との婚姻が決まった時でさえ、気楽に考えていたふしがあってジェレマイアでさえ心配になったほどだ。が、ここ数カ月の噂は一体どうしたものだろう。本当に第二王子自身の噂なのかと疑ってしまったほどだった。
その第二王子を骨抜きにした相手が一体どれほどの美女なのかと期待して、好奇心半分で今回の査察の護衛に願い出たのだが。
確かに清楚な雰囲気を持った人だと思った。今までの王子の趣味からはかけ離れた勤勉さも持っている。まだ十七だというのに、会話を正確に理解しようとする慎重さも持ち合わせている。正直、あの第二王子には勿体ないほどの女性だ。しかも時々見せる、瞳に宿る強い光にジェレマイアでさえゾクリとするものを感じさせた。それは王族でも一握りの人間が持つ、何か、だ。思わず膝を折りたくなる。
彼女は普通の王侯貴族の女性と同等と考えてはならない。それを、ウィルフレッドが気づいたというのなら、入れ込んでいるという噂が本当だというのも頷けるものがある。あれはまるで稀少な宝石の原石だ。あの時折見せる清廉な輝きに心を絡め取られてしまう。手放すと二度と手に入れることは出来ないだろう。
それを考えると、絶対に相談できないし、してはならない。するべきではない。
深々と溜息をつくと、ジェレマイアは頷く。それでも一つだけ言えることがある。
「何にしろ、おまえが騎士になる努力を人一倍すれば、彼女に認めてもらえるんじゃないか?」
これだけは確実だ。
たとえロドニーの恋心を叶えてやることは出来なくても、騎士として彼女に忠誠を誓うことは出来る。その忠誠を彼女が受け取ってくれれば、ロドニーの望む形とは違えど、騎士としての本望は叶えられるだろう。
「そう、なのでしょうか?」
子犬のような眼差しを向けられ、ジェレマイアの良心が痛む。だが、ここはもう、首を縦に振るしかない。
「そうそう」
まるで棒読みのようだった。
「そう、ですよね」
それでも次第に本来の明るさを取り戻していくロドニーに、自分の無責任さを心の中で詫びる。
そして忘れてはならないことを一つだけ告げる。
「あまり早まった真似はするなよ。何かあれば相談にのってやるからな」
自覚したのが昨今なら、まあおかしなことはしないだろうが、念のためだ。釘を差しておかなければならないだろう。相手は人妻で、王子妃だ。そんな相手に何かしようものなら、知らなかったで済む話ではない。
ジェレマイアは、もう一度ロドニーの肩を叩くと、今度こそ書斎へと向かった。報告事項が一つ増えたなと思いながら。