15.用意万端(無事に帰ってこい)
五日の内に全ての準備が整えられた。
査察隊として派遣される人員は、エリアスを筆頭としてその補佐官にリューネリア、あと護衛を八名ほどで構成された。ザクスリュム領まで馬車で往復六日。調査日数を七日とし、予備日を一日とって全十四日の日程で行われる。
リューネリアがザクスリュム領へと行くことを最後まで渋っていたのは侍女のニーナだった。王子妃であるリューネリアが実は城にいないということを隠すためにも、王子妃付きの侍女であるニーナが留守番であるのは絶対の条件だ。それが一番の不満だったらしい。だが、ランス侯爵夫人であるコーデリア達の説得もあって、しぶしぶではあったが納得し、留守の間のことも彼女達に協力してもらうことになった。
査察隊の護衛には騎士団に所属するソーウェル侯爵令嬢も入ることになっている。これはウィルフレッドの手まわしだ。査察隊に女性一人、しかも実は王子妃ときては何かあったときに困ることになる。他にもう一人、女性の騎士がついたとも聞いた。
身の回りのことに関して言えば、リューネリアは自分のことは自分で出来る。一国の王女として、普通ならばやってもらうのが当たり前という育ち方をしていない。というよりも、それもすべて過去にしたある経験のおかげなのだが。
出発を翌日に控えた日の夜、寝台の上でリューネリアは一人で枕を背にして本を読んでいた。
すでに深夜だ。
ウィルフレッドはまだ私室にも戻ってきていないらしい。査察が決まってからは、査察の準備と日頃の執務で、いつも以上の仕事量になっていた。だが、準備もすでに終わったはずだし、もしかしたらエリアスと最終的な打ち合わせをしているのかもしれない。
今回の査察に行かせてもらうお礼をきちんと言いたかったリューネリアは、明かりを落とさず本を読みながら待っていた。
どれぐらい待っていただろう。ウィルフレッド側の私室への扉が静かに開き、明かりが灯っていることでまだ起きていることに気づいたらしい本人と目が合った。
「まだ起きていたのか。明日は早いんだろう」
「ええ。でもウィルフレッド様にお礼を言ってなかったから……」
本を閉じて寝台脇のテーブルに置く。
ガウンを脱いだウィルフレッドはリューネリアの隣に入り込んでくると、ちょっと驚いたようにリューネリアの頭上に視線を向ける。
「染めたのか」
「はい。一カ月ぐらいしか持ちませんけど」
胸に垂れたひと房を手にとってみると、黒かった髪は明かりを受けて暗いレンガのような色をしていた。お世辞にも綺麗とは言い難い色だが、むしろ身を隠すにはいいかもしれない。ウィルフレッドはよく黒髪を褒めてくれていたので嫌かもしれなかったが。
ぼんやりと思っていると、リューネリアが手に取っていた髪を、横から伸びてきた手がさらった。
「これでネリーの身が守れるなら、かまわない」
そっとその髪の房に口づけられ、胸の奥が温かくなる。嫌がられなかったことがなんとなくだが嬉しい。
その思いをそのまま笑みに浮かべると、リューネリアは素直にお礼を口にすることが出来た。
「ザクスリュム領へ行かせて下さってありがとうございます」
「礼を言われるほどのことはしていない」
ウィルフレッドの手からこぼれた髪が、ふわりとリューネリアのもとに戻ってくる。
「でも嬉しかったんです。皆が言うように、身の危険を思えば王宮にいることが一番だと分かってても、この国を見てみたかった。それをウィルフレッド様は止めずに逆に送り出してくれた」
そして少しためらってからリューネリアは口を開いた。最近、常に思い、反省をしていたことだ。
「……私、この国に来た時は戦争を止めるのはパルミディアの為だと言いました。でも、これは一方的すぎました。ヴェルセシュカの為を思っても、それはする必要のあることだったんですよね?」
ウィルフレッドの執務を手伝いながら、いつのまにかヴェルセシュカの国を身近に感じていた。紙の上でのことではあったが、そこにあるのはかつての敵国ではなく、確かにこの国で生活している人がいることを感じていた。そして、どうすれば民の為になっていくのかを考えていた。
その為に自分は何ができるか。
知識の上だけでヴェルセシュカを知るのではなく、実際に知らなければならないのだ。目で見て、彼らと会話をして、触れ合わなければその先には進めない。
ウィルフレッドを見上げると、その静かな湖面のような瞳と視線が合う。頬を優しく撫でられて、間違っていないことを知らされる。
「ネリー」
名を呼ばれ、自然と笑みが浮かぶ。
理解してくれることが嬉しい。
ウィルフレッドはふと、自分の指に嵌っていた指輪を抜き取るとリューネリアに差し出してきた。
それは、ヴェルセシュカの王位継承権を持つ者のみが与えられる指輪。現在、この国には二人しかその指輪を持つ者はいない。
金で出来た指輪は部屋の明かりをうけて鈍い光を放っている。
リューネリアは手を取られると、それを握らされた。
「何かあればそれで身を守れ」
それがどれほど重要なものかリューネリアも王族の一人として知っている。ウィルフレッドのその気持ちは嬉しい。だが、それはあまりにも庇護が大きすぎる。
たかが査察に行くだけのことなのだ。
「いけません。これを預かることなど出来ません!」
指輪の意味を知らない者はいない。この指輪を持つ者は持ち主と同等の権力を得る。そしてもし過ちを犯しても、裁けるのは本来の持ち主と上位の者のみ。この場合、王と王太子がそれにあたるだろう。
しかし何かあっとしても、この指輪を持っていたところで相手が権力に弱い相手ならいい。リューネリアを守る即効性はある。だが、どうにかしてリューネリアを亡き者にしようとしている人間だとこれは意味がない。むしろそうなった時、無くしてしまう方が恐ろしい。持ち主に与えられる権力は絶大なものだ。
返そうとウィルフレッドの手を取ったが、そのまま手首を取られる。
「無事に帰ってこい」
その声はひどく真剣で。
リューネリアに反論を許さず、頷くことしか出来なかった。
指輪を握った方の手首を引き寄せられ、ゆっくりと近づいてくるウィルフレッドの口づけを目を閉じて静かに受けた。
慣れとは恐ろしいもので、これぐらいならとリューネリアも感謝の気持ちがあったため油断した。
最初こそ軽く啄ばむようないつもの口づけだったが、再び押しつけられた唇はいつもより強く、そして長く、すぐに息苦しさを感じる。やっと解放されたと思うと、今度は角度をかえて今までになく深く……。
「ウィル……っ」
わずかな隙をついて止めようと名を呼ぶ。
だが、いつの間にか片手を背中に回され、お互いの距離がもうないほど密着していた。
口内に感じる自分のものではない存在に、意識ごと絡め取られる。
ウィルフレッドの身体を押しやろうにも、すでに腕に力が入らない。
ようやく解放され、上がった息で見上げた視線の先は、寝台の天蓋が張られた天井だった。
心臓が早鐘を打っている。上がる息づかいが耳に煩い。
その心臓の真上に温かい感触を感じて、ふと視線を下げた。
肌蹴た夜着から白い肌がのぞき、二つの膨らみのちょうど中央辺りに、ウィルフレッドが口付けていた。
「あ、のっ」
息をのみ、慌てて身をよじってウィルフレッドの下から抜け出すと、肌蹴た夜着の前をかき合す。
「あの……」
何か言わなければと思いつつも、言葉が出てこない。真っ赤になって口ごもると、ウィルフレッドは息を吐くように笑った。
「それもお守りだ」
それ、と言われ、一瞬なんのことか分からなかったが、すぐに思い当たり、前をかき抱く腕に力がこもる。
「――……」
どうしていいか分からず、かといって視線を合わせられずに座っていると、ずいっと足を引っ張られて、バランスを崩したリューネリアはウィルフレッドのいつもの定位置、つまり腕の中に戻っていた。
身を固くし、勇気を振り絞ってそっと視線を上げると、いつものように瞼に口づけが落とされる。
「おやすみ」
まるで何事もなかったかのように、欠伸を一つするとウィルフレッドは目を閉じた。
リューネリアはいまだ手の中に握ったままだった指輪を無くさないよう、少し考えた後枕の下に入れると、ゆっくりと目を閉じた。とても眠れそうになかったが、それでも明日のことを考えていると、いつの間にか眠りは訪れていた。