14.即断即決(行かせて下さい)
「エリアスっ、助けなさい!」
扉が完全に閉まる直前に何とか呼び止めると、エリアスは入ってくるなりウィルフレッドを引き剥がしてくれた。正確にはウィフルレッドの後頭部を容赦なく叩いたのだが。
「いちゃつくのは夜にして下さい」
「邪魔をするな」
ウィルフレッドは叩かれた頭を撫でながら、それでもリューネリアから離れてソファに座りなおす。リューネリアも腕を取られ、起こしてもらいながらもエリアスの小言を受け止める。
「妃殿下もきっちりと教育なさることをお勧めします」
「……はい」
乱れかかった髪を直し、小さくなってどこか納得いかないまま頷く。
もともとウィルフレッドの教育係だったのはエリアスだ。ウィルフレッドが仕事をこなすようになってからは執務補佐官となったらしいが、本来ならそのあたりの教育もエリアスの仕事の範疇だったのではないだろうか。
それにエリアスは、リューネリアとウィルフレッドが仮面夫婦であることを知っている人間だ。どうしていちゃつくという言葉が出てくるのか不思議だった。
リューネリアはエリアスにお茶を入れる為に、そそくさと立ち上がって、それで、と促す。
エリアスはいつもの場所に腰を下ろすと、いくつかのメモ書きを見ながら報告を始めた。
「結論から言うと、昨年、市場に出まわったザクスリュム産の新酒の葡萄酒の数は、平年とそれほど変わらなかったとのことです。天候不順もなく、害虫の発生も報告されていませんでした」
「では、不作と言うのは偽りか?」
「一概に嘘だと結論づけるのは早計ですが……妃殿下はどうお考えですか?」
新たに入れたお茶をカップに注ぎ、エリアスの前に置く。
こうしてエリアスはリューネリアを試すことがよくあるので気が抜けない。こちらがどこまで理解しているのかを知るためなのだろうが、不意打ちで試験を受けさせられている気分になる。今回もそうだ。
だが、先程の報告からいくつか考えられることはある。エリアスからメモ書きを受け取り、考えをまとめるためにも口を開いた。
「昨年の生産高を平年と比べるわけにはいかないのでは?それ以前は長く戦争が続いていたから収穫は決して豊富ではなかったでしょうし、昨年は働き手である男性たちが兵役を終えて帰ってきたにしては、前年度と比べると確かに生産高は少ないのではないかと思いますけど……」
数字上のことだけで判断するのは難しい。現実は、いくつもの複雑な事情が絡み合って思いがけないことが起こっている場合がある。
こういう場合、本来なら取るべき行動は一つしかない。現地へと調査に行くべきなのだ。だが、リューネリアがそれを言うわけにはいかない。調査に行くにはある程度の人出と資金も必要になってくる。だがそれに以上に、気づいてしまったからにはリューネリア自身が赴きたいと口に出してしまいそうで言えなかった。それにウィルフレッドやコーデリア達の側を離れるということは、命を狙って下さいと言っているようなものだ。
喉元まで出かかった言葉をぐっと我慢してウィルフレッドを見る。
「調査に行った方がいいです」
必要以外の言葉を省く。
「……ザクスリュムへか?」
事が大きくなりそうな話に、ウィルフレッドは難しい顔をした。
一概に調査と言っても、いきなり国の上層部が動くわけにはいかない。まずは官僚でも地方査察を兼ねたものから始めるので、実際にウィルフレッドのところまで調査の結果が来るまでに時間はかかる。それにもし、官僚たちが見落としなどしようものなら再びこの案件がリューネリア達の目に触れることはなくなる可能性も出てくるのだ。
しかし――。
「ま、行かなければならないでしょうね」
当然のごとくエリアスはいうと、カップを持ち上げてからチラリとリューネリアを見た。
「まあ一般的に考えるなら不作というのは嘘なのでしょうが……。妃殿下は行きたそうですね」
エリアスには、調べてきたものの結果を見た時点で分かっていたようだった。リューネリアが調査の必要性を言いだすことも。
無理だと思いながらも頷く。
「行きたいとは思います。けど……」
無理ですよね、と口にしようとした先をエリアスによって遮られる。
「行かれますか?」
軽く言われ、思わずまじまじとエリアスを見つめる。
そんなに簡単なことではないはずだ。もしリューネリアが行くことになれば警備の面からして、いやそれ以前にザクスリュム領に行くべき正当な理由が見つからない。リューネリアは王子妃であり、王子の執務を手伝いっていることでさえ特異なことであり、本来なら調査をするべき人間ではないのだから。
「ちょっと待て。ネリーが行くのは危険だ」
それまで黙っていたウィルフレッドがエリアスを止めた。
「誰が表立って妃殿下が行くと言いました?」
ウィルフレッドの言をさらりとかわし、ニヤリとリューネリアに笑ってみせる。
「妃殿下には当然、身分を偽って調査に行ってもらいます。その間の妃殿下の身代わりも必要でしょう。その上、警護もある程度は省きますので危険は承知して頂かなければなりませんが」
エリアスの提案は、リューネリアとって身に危険が迫るかもしれないという部分を差し引いても魅力的なものだった。だから答えなど決まっていた。
「かまいません。行かせて下さい」
身を乗り出すようにして言っていた。
横から危惧の念を混ぜたような視線を感じたが、止める気配はなかった。だから、引かなかった。
「この目でヴェルセシュカを見たいのです」
嫁いできてからずっと、王宮から一歩も外に出ていない。かつての敵国だったパルミディアに、身内を殺された者もこのヴェルセシュカには数多くいるのだ。そのパルミディアの王女であるリューネリアが、治安が良いと言われている王都ライルの街にさえ、もしものことがあってはならないと行かせてもらえなかったのだ。この機会を逃せば、次はいつ出られるか分からない。
それに、ヴェルセシュカという国を見たかったのは嘘ではない。今現在、リューネリアの手伝っている仕事が直接影響を与えてしまうのはヴェルセシュカの民なのだ。彼らの暮らしぶりを直接見てみなければ、細かなところまで気づくことも配慮すること出来ない。その判断一つで彼らの生活は変わってしまうのだから、その責任の一端をリューネリアも担わなければならないはずだ。
「殿下、どういたしましょう?」
自らが煽っておきながら、エリアスは当然のように主命を仰ぐ。
リューネリアも隣の夫を見つめる。
その湖のような瞳が一瞬揺らいだように見えたが、すぐにウィルフレッドはエリアスを見て首を縦に振った。
「いいだろう。だが、おまえも行くことが条件だ」
「わかりました。お任せ下さい。……良かったですね、妃殿下」
エリアスににっこりと微笑して言われ、リューネリアは思わず隣にいたウィルフレッドの手を取ると、両手で握って感謝を込めて額につけた。
「ありがとう!嬉しい……」
この時、ウィルフレッドがどのような顔をしていたかリューネリアは知らなかった。当然、エリアスがそんな主君の顔を見て、吹き出しそうになっていることも知らなかったのだが。