いなくなった夜
そのコンビニの自動ドアが、初めて静かに感じたのは、中二の冬の終わりだった。
その日も、いつも通りのコースで家に帰ってた。
部活はとっくにやめてて、放課後の時間はスカスカ。どこか寄り道するほど仲いい友達もいない。
だから結局、学校と家のあいだにあるそのコンビニへ、吸い寄せられるみたいに足が向く。
――どうせ家行っても、誰もいないし。
鼻の奥が冷たくなる夜の空気の中、薄汚れたアスファルトを踏んで歩く。黄色い看板が見えると、なんとなくホッとした。
自動ドアの前に立つと、機械音声。
『いらっしゃいませー』
蛍光灯の白い光が、ガラス越しにこっちまで流れてくる。ホットスナックのケースの向こう、レジに――いつもの金髪ピアスの兄ちゃんを探す。
……いない。
代わりに、見知らぬおじさんがエプロン姿で立っていた。髪は薄くてメガネ。「店長です」って顔。
(なに、今日休み?)
そんな日もあるかと思いながら店内をぐるっと回る。肉まんの前で少し迷って、からあげ棒を一本だけレジに持っていく。
「……これ」
「はい、からあげ棒ひとつね。三百四十円になりまーす」
マニュアル通りの声。
「袋、どうする?」
「いらない」
「はいよ」
普通のやりとり。なのに、からあげ棒を受け取った瞬間、胸のどこかがスカスカしてるのに気づいた。
「中二」とか「明日」とか呼んでくる、眠そうな声がどこにもない。
レジの奥もバックヤードのドアも、一応目で追ってみる。でも、金髪もピアスも見えない。
会計を済ませて自動ドアを出る。夜の空気が、さっきより刺さる。
(まあ、たまたまシフト入ってないだけっしょ)
そう自分に言い聞かせる。
店の横の灰皿。いつもなら兄ちゃんが腰かけてタバコ吸いながら「おつかれー」とか言ってる時間。でも今日は誰もいない。
白線の剥げた駐車場が、やけに広く見えた。
からあげ棒をかじりながら、しばらく突っ立っていたけど、寒さに負けてマフラーを巻き直し、家に向かう。
その日は、それで終わった。
次の日も、その次の日も、同じ時間にコンビニに寄った。
でもレジに兄ちゃんが立ってることは、一度もなかった。いるのは店長っぽい人と、たまに入る大学生っぽい女の人だけ。茶色いパーカーも、じゃらじゃらしたピアスも、どこにもない。
三日目の夜。
さすがに気になって、からあげ棒をレジに持っていったついでに聞いてみた。
「あのさ」
「ん?」
「前まで夜いた、金髪の兄ちゃんは」
「金髪?」
店長がきょとんとする。
「ピアスいっぱいつけてて。ちょっと眠そうな目の。……いつもレジやってた人」
「ああ……あいつか」
やっと思い出したような顔になる。
「やめたよ、あいつ」
「……やめた?」
「うん。先週だっけかな。急に“今日で最後です”って。色々あったみたいでね。ま、若い子はそういうもんだろ」
「色々」のところだけ、少し声が濁る。こっちの顔色なんて気にもしてない調子で、レジは進む。
「三百四十円ね」
「……はい」
トレーに小銭を置く指先が、ちょっと震えた。
「領収書いる?」
「いらない」
「はいよ」
レシートには、兄ちゃんの乱暴な数字じゃなくて、ただの印字だけ。
「急に、なんで」
気づいたら口が勝手に動いてた。
「ん?」
「急にやめたの。……なんで」
「さあねえ。家の事情とか、そんなんじゃないの。学生のバイトなんて、そんなもんだよ」
そんなもんで片づけないでよ――と喉まで出かかった言葉を飲み込んで、からあげ棒を握りしめたまま店を出る。
外の空気が、さっきよりもっと冷たい。
駐車場の端っこで、看板を見上げる。黄色いネオンは何事もなかったみたいに光っている。店内BGMも、からあげ棒の湯気も、全部いつも通り。
違うのは、「お前さ」とか「明日」とか呼んでくる声が、どこにもないってことだけ。
(……なんで、なんも言わないでいなくなんの)
店長の「そんなもんだよ」が、頭の中で何度もリピートされる。
そんなもん、ってなに。
ウチには、「そんなもん」で済ませられるほど軽くなかったのに。家でも学校でもない場所が、やっとちょっとだけ見つかった気がしてたのに。
からあげ棒にかじりつく。いつもより味が薄い。油の匂いだけがやたら強くて、胃がむかむかする。
家までの道が、やけに長い。マンションの窓の明かりがバラバラに灯っている。どの窓の向こうにも「ただいま」とか「おかえり」があるんだろうなと思うと、ムカついた。
(どーせみんな、勝手にいなくなんでしょ)
父親だってそうだった。ある日突然、荷物が消えてた夜。「お父さんは?」って聞いたら、母親が「知らない」とだけ言って、テレビの音だけがやたらでかかった。
あのときからウチの中では、「大人は説明しないで消える生き物」になってる。コンビニの兄ちゃんも、そのカテゴリにきれいに収まっただけ。
……そういうことにしようとした。
家に着いて、暗い部屋の電気をつける。テーブルのコンビニ袋、洗ってない茶碗、電気代の封筒。いつもの光景。
ジャージのまま床に座り込み、スマホを取り出す。連絡先アプリをスクロールする。当然、兄ちゃんの名前なんてない。そもそも本名も、年齢も、住んでる場所も知らない。
知ってるのは、金髪でピアスじゃらじゃらで、「からあげ棒、あついから気ぃつけろよ」って言ってたコンビニ店員だったことだけ。
そんなの、「いなかった」のとほぼ同じじゃん、って思う。それでも確かにそこにいた時間が体のどこかに残ってるから、余計タチが悪い。
布団に倒れ込んで、天井をにらむ。蛍光灯のカバーに、小さな虫が一匹、潰れてへばりついている。
(バイトやめるくらい、別に、言うほどのことじゃないし)
頭の中で、もう一人の自分が淡々と言う。
(ウチ、ただの客だし)
「常連」って言われたことはあっても、「友達」とか「仲間」なんて言われたことはない。兄ちゃんにとってウチは、百何人いる客の中の一人。たまたまよく来る中坊の女。
そんなもん。
そんなもんだって言い聞かせれば言い聞かせるほど、胸の奥がチリチリ焼ける。
「……どうでもいいし」
天井に向かって呟く。その言葉を吐くときだけ、少し楽になる。本当はどうでもよくないって、ちゃんと分かってるのに。
次の日から、コンビニに行く回数を少しずつ減らした。行っても必要なものだけ買って、さっさと出る。からあげ棒もあんまり買わなくなった。レジの奥を探す癖も、だんだん薄れていく。
黄色い看板は、ただの「通り道の目印」に戻った。家と学校のあいだにあった三つ目の場所は、静かに消えた。
――人ってさ、なんか言ってくれる前に、勝手にいなくなる。
その認識が、あの冬にウチの中で、ほぼ完成した。先輩《あの兄ちゃん》が、ちゃんと「いなくなります」って言わなかったから。
でも、このときのウチはまだ知らない。何も言わないで消えた、って決めつけてるだけで、本当はあっちにもあっちの事情があったことを。
それを知るのは、ずっと先。黒髪になったあいつと、また夜の灯りの下で向き合う頃の話だ。
今はまだ、中二のウチが布団の中で天井をにらみながら、何回も同じ言葉を繰り返してるだけ。
――どうでもいい。どうでもいい。どうでもいい。
そうやって、自分の傷に、薄いガムテープを雑に貼っているだけだ。




