「どうでもいい」のくせ
外に出たら、思ったより夜風が冷たかった。
アパートの階段を下りて狭い路地に出る。さっきまで部屋にこもってたせいで、空気が急に軽くなった気がする。
ブレザーの前を引き寄せる。濃紺の生地が、ひやっとした風を少しだけ遮る。スカートの裾がふわっと揺れた。ミルクティー色のセミロングは巻きが落ちて、毛先がはねてる。根元のプリンが気になって、指で触る。
(染め直す金もヒマもねーし)
駅のほうから、居酒屋ののれんと酔っぱらいの笑い声。明日はそっちじゃない。コンビニとパチンコ屋と町工場の並ぶほう。ジムのある方向へ、スニーカーでアスファルトを鳴らして歩く。
ポケットのスマホが震えた。
「……何」
取り出すと、クラスのグループLINEがピコンピコン光っている。「明日小テストやばくね」「誰かノート貸して〜」みたいな会話とスタンプ。その少し前。
《ねえ神崎さー》《あしたカラオケ行かん?》《お前歌うまそうじゃない?》
送り主は高橋。女子グループの真ん中にいる子。
その誘いに「既読だけつけて返事してない」のが、そのまま残ってる。スクロールすると、「神崎死んでる?」「ジム?」みたいなメッセージが何個か。どれにも、ウチは何も返してない。
親指が返信欄の上で止まる。
――別に、嫌じゃない。
高橋は悪い子じゃない。授業中も「はい神崎〜」って普通に笑ってプリント渡してくるし、体育でも「神崎足長くてズル〜」とか、遠慮なく話しかけてくる。
前に「神崎ってさ、顔だけならマジでモデルいけるのにね〜」って言われたこともある。
『は? うぜ。褒めてないよね、それ』『褒めてるし〜。てかマジで顔はいいんだって。あとは中身だけなんだけどな〜』
女子グループが笑って、ウチは「はいはい」って流した。あのくらいの距離感なら、悪くない。
でも。
あの輪の中でプリクラ撮って、「うちらマジ仲良し〜」ってやってる自分を想像すると、どっかがムズムズする。
(……ウチみたいなのが、ああいう輪っか入るの、ちょっとちがくない?)
頭の中で、勝手に一歩引く。
「ごめん、今日はムリ」って打ちかけて、やめる。「ジム」って書くのも、言い訳くさくて嫌だ。そもそもジムのこと、ちゃんと話したことない。
結局何も書かず、トーク画面を閉じた。
「……どうでもいいし」
ポケットにスマホを戻す。
ほんとは、どうでもよくないのかもしれない。カラオケ行ってバカみたいに騒いで、「神崎歌うま!」「やば!」とか言われるのは、多分それなりに楽しい。家帰るより、ずっとマシ。
でも、一歩踏み出して「あの輪っかの一人になる」のが、妙に怖い。入れてもらった居場所から、いつ「やっぱナシでーす」って外に出されるか分からないから。
だったら最初から入らないほうが、傷は浅い――って、自分に言い訳してるのも分かってる。
「マジめんど……」
ため息まじりに呟いて、また歩き出す。
商店街を抜けると、人通りが減る。シャッターの閉まった店の前を通るたび、自分の足音だけがやけに響く。
角を曲がると、黄色い看板のコンビニ。ガラス越しに蛍光灯の白い光。弁当コーナーで突っ立ってるサラリーマンと、レジの女子大生っぽいバイト。
自動ドアの前で、ほんの一瞬だけ足が止まる。
中学のころの記憶が、勝手によみがえる。夜、家に帰りたくなくて、ここでだらだら時間つぶしてたとき。レジにいた金髪ピアスの兄ちゃん。外の灰皿の前でタバコ吸いながら、「お前、こんな時間まで何してんの」って、コンビニコーヒーおごってくれた。
あの兄ちゃんの顔は、まだちゃんと覚えてる。
(……あいつ、いま何してんだろ)
一瞬そう思って、すぐ頭を振る。もう、関係ない。あのとき優しくされたって、そのあとどうとか保証されるわけじゃない。あの人も黙って、ある日突然いなくなった。
ウチだけが、ここでぐるぐるしてる。
自動ドアが開いて、おばさんが袋を提げて出てくる。会釈されて、適当に返す。中には入らず、そのまま通り過ぎた。
さらに歩くとネオンが減って、建物も低くなる。自販機の明かりと、たまに走る車のライトだけが、髪の毛先を一瞬だけ照らしては通り過ぎる。
やがて、ジムの入っている雑居ビルの前。二階の窓から、ぼんやり蛍光灯の光。かすかにミットを叩く「パンッ」という音が聞こえる。
階段の下で、一呼吸おく。
ここも、べつに「ウチの居場所」ってわけじゃない。会長の好意で、掃除と引き換えに置かせてもらってるだけの仮の場所。明日、会長の気分が変われば「おう、もう来んな」って言われるかもしれない。
それでも。
家とも学校ともコンビニとも違う匂いと音が、この階段の上にはある。
ミルクティー色の髪をゴムでざっくり一つに結ぶ。プリンの根元があらわになって、夜風に冷やされる。首筋に当たる空気がひやっとして気持ちいい。ピアスが小さくカチッと鳴る。
「……よし。殴ろ」
小さく言って、鉄の階段を上がる。一段ごとに、ジムの音が近づく。ミットの音、ロープの軋む音、誰かの短い掛け声。
ドアを開けると、いつもの汗とゴムの匂いが鼻に入り込む。
「おー、ギャル。今日は早えじゃねえか」
会長がカウンターの奥から顔を出す。黒いTシャツにジャージ。相変わらず腹は出てる。リングの上ではスーツ姿のサラリーマンがへろへろでシャドー。壁際では主婦っぽい人が縄跳び。
「別に。ヒマだっただけ」
「宿題は?」
「しないって言ったじゃん」
「はいはい、反抗期反抗期」
会長の軽口に、鼻で笑って返す。
いつも荷物を置くロッカーの前でブレザーを脱いで掛ける。シャツの袖を肘までまくり、ネクタイをポケットに突っ込む。ブレザーを脱ぐと、身長一六五の体が少し軽くなった気がする。
グローブとバンテージを取り出し、座って足元に置く。前髪だけピンで留め直して、顔にかからないようにする。鏡に映った自分が、ちょっと別人みたいに見える。制服のギャルでも、家のスウェットでもない。ただ殴る準備をしてる体。
(……ま、いいや)
バンテージを巻きながら、高橋からのLINEを思い出す。「カラオケ」「プリクラ」「映え〜」の画面と、この汗臭い空気。同じ「夜」なのに、ぜんぜん違う世界。
どっちが正解とか、ないのかもしれない。でも今のウチには、こっちのほうがマシ。
サンドバッグの前に立って、軽く肩を回す。会長がちらっと見て、「やれやれ」と手で合図。
グローブをはめると、指先の感覚が少し遠くなる。それでも、さっきまで胸の中でぐちゃぐちゃに絡まってた、家と学校とコンビニとLINEと電気代とか、そういう全部が――殴るたびに、ちょっとだけ静かになる。
「……っし」
サンドバッグに向かって一歩踏み込む。
ジャブ。ワンツー。フック。
革に拳がめり込む感覚だけを、ひたすら確かめる。
あしたのことなんか、考えない。考えないでいられる時間が、ここにはある。
それで、今は十分だ。




