誰もいない家
アパートのドアを開けた瞬間、空気がよどむ。ジムの汗とも学校の埃とも違う、湿った匂い。カーテンは片方だけ閉まってて、もう片方はレールから外れたまま床をひきずっている。玄関にはコンビニのビニール袋と、折れ曲がった特売チラシ。
「……ただいまー」
一応、声だけ出す。返事はない。
靴を脱いで、揃えるふりだけして廊下に上がる。二DKって言っても、実質ひと部屋と物置とキッチンのくっついた箱みたいなもんだ。誰かがいたら、すぐわかる。
シンクには、朝洗わずに出た自分の茶碗と箸。横には、いつのだか分からないコンビニ弁当の黒い容器が重なっていて、その上にレシートとポケットティッシュと、未開封の請求書。白い封筒には「電気料金のお知らせ」「至急開封してください」の赤文字。
「……はいはい。あとでねー」
誰に向かってか分からない軽口を吐いて、ビニール紐で縛ったゴミ袋を足で押しやる。中で空き缶が鳴った。
冷蔵庫を開ける。ペットボトルの水、半分残ったマヨネーズ、一キロ入りの冷凍うどん、正体不明の漬物のタッパー。
「……うどん、ね」
体は帰りに買ったカップ麺を欲しがってた気がするけど、こっちのがまだマシだ。鍋に水を張り、ガスコンロの前に立つ。このくらいは、もう「めんどい」とも思わない。
ふと、視界の端。冷蔵庫のドアにマグネットで留められたメモ。
『電気 とめられる 〇月〇日まで 〇〇〇〇円』
数字の部分が一度消されて書き直されている。眠かったか、酔ってたか。下の方に、小さく「ごめん」。
「……別にいいから」
反射みたいに、口の中で言葉がこぼれる。別に。今さら。こういうの、見慣れてる。
ウチが高校通ってるのも、ジム行ってるのも、この「〇〇〇〇円」とか「ごめん」には関係ない。卒業証書があろうがなかろうが、電気は払わなきゃ止まるし、家賃払わなきゃ追い出される。そこだけは、分かってる。
沸騰する音に我に返って、冷凍うどんを袋ごと割って鍋に落とす。泡が立ち、麺がほぐれる。戸棚から安物のめんつゆを出して、適当に入れる。ネギも卵もないし、あっても切るのがだるい。白くぬるい湯気が天井に昇っていく。
どんぶりにうどんを移し、ちゃぶ台みたいなローテーブルに置く。テレビのリモコンを探り当てて電源を入れる。深夜のバラエティ。芸人がテンション高く笑い、派手なテロップが飛び交う。
「うっさい……」
ボリュームを下げる。でも、消しはしない。真っ暗で無音の部屋は、多分無理だ。
うどんをすする。伸びてるけど、味はそこそこ。熱さより先にしょっぱさがくる。
さっきの「ごめん」が、頭の隅にへばりつく。あの字を書いたときの母親の顔が、うまく思い出せない。最近、ちゃんと顔見て話した覚えがないから。
帰ってきたときの「あーつかれたー」って声、そのあとシャワー、コンビニ弁当、缶チューハイ、テレビつけっぱなしで寝るまでの流れ。パターンなら知ってる。
でも、そこでウチに向けられる目線や言葉は、あんまない。
『ちゃんと学校行きなよ』『また電話かかってきてたよ』『もうちょいマトモにできないの』
たまに飛んでくるのは、そのへん。聞くたび、胸の奥でなにかがぐしゃっと潰れる音がするから、なるべく聞かないように、会わないように、時間をずらして生きてる。
ウチがジム行くのは、ボクシングが好きだからだけじゃない。夜、帰る時間をずらしたいからでもある。
箸をどんぶりに立てかけ、スマホを見る。ロック画面には、生活指導からの不在着信。通話時間「0秒」。その履歴を消す。
学校に呼び出されて、母親が「すみません」って頭を下げて、ウチは「まただ」とうんざりして。それでもウチは変わらない。変われない。
机の端には、学校からのプリントがぐちゃっと積まれている。修学旅行、進路希望調査、期末テストの日程。その中の一枚、『保護者各位』の赤い字。裏に「三者面談のお知らせ」。
「……マジで、どうでもいい」
口に出すと、少しだけ落ち着く。ほんとは「どうでもよくない」から、何度も言い直してるのかもしれないけど。
うどんを食べ終え、どんぶりをシンクに運んで洗う。小さいころからやってきた家事は、もはや体に染みついてる。
ふと、シンクの上のカレンダーに目がいく。店のロゴ入りの、安っぽい花の写真。今月のところに、赤ペンで丸がついている。給料日か家賃の引き落とし日か。その上に小さく「がんばる」。
「……」
何も言えない。「がんばる」って書いてる人間に、「がんばれ」も「がんばらなくていい」も言えない。だから結局、「別に」「どうでもいい」しか残らない。
テレビでは芸人が「明日も見てねー!」と笑っている。『またあした!』のテロップ。番組が終わる。
リモコンを手に取り、電源ボタンの上で親指を止める。
――また、あした。
「……いらないし」
ボタンを押して、画面を真っ暗にする。
この部屋に、「あした」とか「また」とか、続き物の時間なんてない。毎日がコピペみたいに並んでるだけ。違うのは、請求書の数字が少しずつ増えてくくらい。
スマホには今日の日付と時間。誰からも来てない通知。
布団にばんっと倒れ込む。スウェットを足で蹴り上げて、体勢を変える。天井の染みが、薄暗い中でぼんやり浮かぶ。
中学のころ、一応日記を書こうとしたことがある。「きょうは○○した」とか「テストで何点」とか。三日でやめた。作文で「将来の夢」「十年後の自分」を書かされて、「とくにありません」と書いたら怒られた。
なんでもいいなら、「ない」でもよくない?
あのころから、変わってない。二十歳の自分、二十五歳の自分なんて想像つかない。二十歳まで生きてるかどうかも、よく分からない。
それでも、「あした」は勝手に来る。ジムの会長みたいに「起きて、飯食って、風呂入って、寝て、また起きろ」とか簡単そうに言うけどさ。その「また」の一個一個が、ウチにはめちゃくちゃ重いって、誰も知らない。
「……ジム、行こ」
天井に向かってつぶやく。
どうでもいいって何回言っても、体のどっかは、まだ「どこか」に行きたがってる。家でも学校でもない場所に。
布団から起きて、また制服に袖を通す。さっきまで学校、今は家、これからジム。会長に「宿題でもしろ」って言われたのを思い出して、鼻で笑う。宿題より、サンドバッグ殴ってたほうがマシ。
玄関でスニーカーのかかとを踏んで足を突っ込み、ドアノブに手をかけた瞬間、リビングを振り返る。
テーブルの上のどんぶり、冷蔵庫の『電気』のメモ、消えたテレビの黒い画面。どこにも、ウチの「居場所」みたいな窪みはない。
何も言わずにドアを開ける。廊下の蛍光灯の白い光がやけにまぶしい。外の空気は、部屋の中より少し冷たくて、それだけでほっとする。
鍵をかけてスマホをポケットに突っ込み、階段を下りる。行き先は決まってる。家でも学校でもない、殴るためだけの場所。
そこにいるあいだだけは、「電気代」とか「三者面談」とか、「ごめん」とか「またあした」とかを、ジムの外に置いてこれる。どうでもいいって言い続けないと崩れそうな自分を、そのあいだだけ誤魔化しておける。
階段を降りながら、ポケットのスマホを一瞬だけ見る。小さく今日の日付が光っている。それを見なかったことにして、すぐ画面を暗くする。
あしたのことなんか、考えない。今からジム行って、サンドバッグ殴って、河川敷でちょっと風に当たって、今日は終わり。それ以上の予定なんか、いらない。
いらない、はずだ。
そう言い聞かせるみたいに、夜の街に足を踏み出した。




