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あした  作者: 秦江湖


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序章:夜の明日

殴るたびに、世界がちょっとだけ静かになる。


 ぶ厚い革に包まれたサンドバッグが、ドスッ、と鈍い音を立てて揺れた。


汗で張りついた前髪が視界にかかる。吐き出した息が、生ぬるい夜の空気に混ざって消えていく。


 ボクシングジムの空気は、いつだって汗とゴムと、古くなったマットの匂いがする。


外のコンビニの明かりも、向かいのカラオケのネオンも、ここまで来るとちょっと遠くなる。


 グローブを握った指が、じんじんとしびれている。痛い。でも、この痛みは自分で選んだやつだ。


 ドスッ。ドスッ。


「おい、そこだけ穴あけんじゃねえよ。サンドバッグにも寿命ってもんがあんだ」


 背中の方から、だみ声が飛んでくる。


 振り向かなくても、誰の声かはわかってる。ジムのオヤジ――会員はみんな「会長」って呼んでるけど――は、いつだって同じ声で文句を言う。


「……別に。穴あくほど殴ってないし」


 ゼエゼエ言いながらも、口だけはしっかり悪く返した。


 鏡に映った自分の顔が、ヘアアイロンで巻いたハイトーンの髪と、落ちかけたアイラインと、汗でテカった額でぐちゃぐちゃだ。


ギャルっぽくメイクに時間かけても、ジム来たら全部台無し。わかってて来てるから、ほんとは文句なんてない。


 会長が、古びた丸椅子に腰かけて、あぐらをかいていた。Tシャツは色あせて、腹は出てる。だけど一度グローブをつけたら、今でもたぶん、そこらの高校男子くらいなら簡単にぶっ倒せるんだろうなって雰囲気がある。


「十ラウンド目だぞ。もういいだろ。バテる前にやめとけ。お前、帰って宿題でも――」


「しないから。宿題とか。意味わかんないし」


 言葉の途中でぶった切る。


 ドスッ。


 サンドバッグが揺れるたび、チェーンがぎしぎし鳴る。その音を聞いてると、時間のこととか、明日のこととか、全部どうでもよくなっていく。

 学校のことも、家のことも、ぜんぶ。


「お前なあ……」


 会長が、呆れたようにため息をつく。何回も見た顔だ。


 でも、そのあとのひと言だけは、いまだに慣れない。


「――高校、ちゃんと通っとけよ。お前、もったいねえんだから」


「は? なにが」


 思わず、手が止まる。

 もったいない、ってなに。誰目線。


 サンドバッグに額を押しつける。汗で冷たくなった革が、ひやっとして気持ちいい。


「筋がいいって言ってんだよ。前も言っただろ。高校でボクシング部あるとこ、探しゃよかったのに。試合出りゃ、そこそこやれる」


「やだ。ダサい。ウチ、そういう“ちゃんとしたやつ”とか無理だし」


「ちゃんとしてねえとボクシングできねえぞ」


「ここでできてるし」


 すかさず言い返すと、会長が「へいへい」と肩をすくめた。


 こういうとこだけ、ちょっとムカつく。ほんとに怒ってるわけじゃないのがわかるから、余計に。


「ここはなあ、“町道場”なんだよ。ガキもオッサンも女も、ダイエットの姉ちゃんも来る場所だ。リングの上とは違う。……お前、ほんとはさ、もっとちゃんと殴れる場所、欲しがってんじゃねえの」


「……別に」


 即答した。


 胸のあたりの、サンドバッグよりやわいところを、いきなり殴られたみたいにズキッと痛む。


 欲しがってる。かもしんない。そういう“ちゃんとしたリング”とか、“ちゃんとしたチームメイト”とか、“ちゃんとした将来”とか。


 でも、それは、ウチみたいな奴が持っていいもんじゃない。


 わかってるから。


「てか、ウチ金ないし。ここも、掃除とか手伝わせて、タダで使わせてくれてんじゃん。ありがとーございます、会長さま」


 わざと軽く、ふざけた調子で言う。


 会長が鼻で笑った。


「タダじゃねえ。ちゃんと働いてんだろ。床拭きもトイレ掃除も、立派なバイトだ。……それに、金ねえならなおさらだ。余計、卒業証書くらいは持っとけ」


「――だから、それが意味わかんないって」


 グローブをしたまま後頭部をガシガシかいた。髪がぐしゃぐしゃになる。さっきセットした意味、マジでない。


 卒業証書。あの紙切れ一枚で、なんか変わんの? お父さん帰ってくるわけじゃないし。電気代の請求書が安くなるわけでもない。母親が夜の仕事やめるわけでもない。


 ――“普通”の子たちが持ってるもんを、今さら欲しがったってしょうがない。


「……まあ、勝手にしろ」


 会長はそれ以上は何も言わなかった。


 そのかわり、壁際のホワイトボードに貼ってあるカレンダーを、じっと眺める。


 試合予定が手書きでびっしり書き込まれてるやつ。隅っこには、誰かが落書きしたスマイルマークと、「減量がんば」が雑に書いてある。


 その中に、ウチの名前はどこにもない。

 ウチは、ここでも正式な選手じゃない。ただの、夜の居場所を借りてるだけの、邪魔にならない程度の客だ。


「ラスト一ラウンドやったら、ミットやってやるから。それで終わりな」


「え、マジ? やっさし」


「はいはい。とっとと構えろ、ギャル」


 ギャル、って単語に、ちょっとだけ笑いそうになるのをこらえる。


 リングの上で、会長がミットを構える。大きな手のひらみたいな黒いミット。そこに向かって、ジャブ、ワンツー、フック。言われたとおりに打ち込む。


 パンッ。パスッ。ビシッ。


 ミットの音は、サンドバッグと違って、切れがいい。


「おら、もっと腰! 肩で打つな!」

「うっさい。わかってるし!」


 わかってるつもりで、わかってない。

 でも、何度も何度も打ってるうちに、さっきまで胸の中ぐちゃぐちゃだったのが、ちょっとずつ整理されていく気がする。


 痛みと、呼吸と、汗の匂いと。ここにいる間だけは、「あした」とか「これから」とか、そういう単語を考えなくていい。


 今ここで殴る。それだけ。


 ラウンド終了のタイマーが、ジリリリと鳴る。腕が棒みたいになって、足がガクガクしてる。ゼエゼエと息を吐いてると、会長がミットを外しながら、ぼそっと言った。


「……それでも、お前には“あした”があるんだよ」


「は? なに急にポエム?」


「ポエムじゃねえ。現実だ。こっから帰って、メシ食って、風呂入って、寝て、また起きる。それで“あした”だ。簡単だろ」


「簡単じゃないし。めんどいし」


 そう言い捨てて、ロープをくぐってリングを降りる。


 簡単だったら、とっくにやってる。


 あしたを信じるのも、あしたを待つのも、ウチにはぜんぜん簡単じゃない。



 片づけと掃除を一通り終えて、ジムの鍵を閉めるのは、だいたい最後に残った明里の役目だ。シャッターを半分まで下ろしたところで、会長が「鍵はポスト入れとけよー」と奥から声を飛ばしてくる。


「はいはい。おつかれー」


 適当に返して、外に出る。


 夜の空気は、ジムの中よりちょっとだけ冷たかった。自販機の光がやたら眩しい。道路を走るトラックの音が、遠くでゴオッと鳴る。



 スマホを取り出して、時間を確認する。二十三時過ぎ。


 家に帰っても、どうせ誰もいない。

 たまに母親がいるときはいるけど、そのときはそれで、空気が重くなる。

 そういうの、見たくない。見せたくもない。

 だから、帰らない。



 スニーカーの底で、アスファルトをトントン鳴らしながら歩き出した。川に向かう道は、もう何回も何回も通ったから、目つぶってても歩ける。


 コンビニの前を通り過ぎたとき、一瞬だけ立ち止まる。


 中学生のとき、ここで――

 ……やめた。

 思い出しかけた記憶を、ぐっと飲み込む。


 もういない人のことを、今さら考えてもしょうがない。あの人がなんでいなくなったのかも、どこに行ったのかも、結局誰も教えてくれなかった。


 ウチのこと、ちゃんと見てくれた大人なんて、あのときも、そのあとも、ひとりもいない。


 そう思っといた方が、楽だ。


 ネオンが減っていく。住宅街を抜けると、急に暗くなる。街灯がぽつぽつと続いて、その先に、川沿いの土手が黒く横たわっている。


 河川敷に降りる階段を、てきとうに二段飛ばしで下りる。スニーカーの中で、さっきの練習で疲れた足が文句言ってる。


 川の水は、真っ暗でよく見えない。でも、流れの音だけはちゃんと聞こえる。その向こう岸のマンション群の窓に、バラバラに灯りがついてる。


 誰かの家族の、誰かの部屋の、誰かの“普通”。


 しゃがみこんで、スマホをポケットから出す。画面を見つめても、通知はたいして来ていない。グループラインでクラスの誰かがスタンプ送りあってるのが、延々と流れてるだけだ。


 「明日あかりさー」「神崎マジウケた」って、自分の名前が出てくることもある。


 神崎明日。

 明日と書いて「あかり」。



 でも、名前が出るのは、教室の中だけの話で。ここの暗い河川敷まで、誰も追いかけてはこない。


 いいよ。来なくて。

 こっちのウチを見られる方が、よっぽどイヤだ。


 草むらから虫の声がする。車の音が、さっきより遠くなる。川の流れが、ひたすら一定のリズムで耳に入ってくる。


 ジムで使った手首がズキズキする。包帯の上から指で押してみると、鈍い痛みが走る。その痛みを、ちょっとだけ安心するみたいに確かめる。


 ――まだ、ちゃんと殴れた。ウチは、ちゃんとここにいる。


 そんな証拠みたいなもん。


 家にいるときは、逆に、自分が透明になる気がするんだ。


 電気代の督促の紙と、テーブルの上で煙草の匂いを吸い込んだレシートと、空になった缶チューハイ。冷蔵庫の中の、賞味期限ギリギリの半額シールの肉。


 ああいうのに囲まれてると、“いらないもの”っていうのが、ウチ自身みたいに思えてくる。


 学校にいるときは、ウチがノイズ。


 ちゃんとした制服着て、ちゃんとしたノート取って、ちゃんとした友達と笑ってる子たちの中で、ハイトーンの髪とピアスと、下書きもしてない落書きみたいな内申点だけが、はみ出してる。


 どこ行っても、ここにいていいって顔、誰もしてくれない。


 だから、殴る。ジムでサンドバッグを、ここでは空気を。


 殴ってる間だけは、何も考えなくていいから。



「……マジで、“あした”とかいらないし」


 ぽつりと、声が漏れた。


 自分の名前を、ぞんざいに踏みにじるみたいに。


 明日あしたなんか来なくていい。どうせロクなもんじゃない。


 今日を、今を、ここで殴り切れたら、それでいい。



 スマホの画面に映った時間が、日付を跨ぎそうになってる。数字が「23:59」から「0:00」に変わる、その一瞬だけ、指先が固まった。


 新しい一日が勝手に始まる。

 誰にも頼んでないのに。


 川の流れは、昨日と同じように音を立てている。向こう岸のマンションのいくつかの窓の灯りが消えて、また別のどこかがつく。


 世界は勝手に、“あした”に進んでいく。

 ウチを置いて。


「……うざ」


 小さく吐き捨てて、スマホの画面を真っ暗にした。


 画面に映っていた自分の顔も、いっしょに消えた。


 闇の中で、名もない虫の声と、川の流れだけが、淡々と続いている。

 明里は、その音を聞きながら、膝を抱えて座り込む。



 心の中で、もう一度だけ、呟く。

 ――明日なんか、マジいらね。


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