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まどろみベーカリーの見習い店員

   ───ある休日の早朝。



 夜明け前の闇がまだ濃く街を覆い、切り立った崖の上の盗賊団「影の牙」のアジトも、深い静寂に包まれていた。荒くれ者の団員たちが発するいびきだけが、湿気と獣の臭いが混じった空気に響いている。


五代目お頭ギンは、そのいびきが作り出す音の波を縫うように、音もなく自室の窓辺に立っていた。


彼女は全身を動きやすい黒い服に包み、腰には父から受け継いだ殺傷力に特化した細身の剣を差している。だが、その背中には、凶器ではなく町で買った薄手の生成りの布袋を背負っていた。


中には、エプロンと少々の銅貨が入っている。


「パン屋を開いた際、近所迷惑にならないように静かに作業をこなす」──それは、プロの暗殺者すら凌駕するギンの修行の賜物だった。


彼女は、アジトがある崖の上から谷底へと伸びる岩肌を、影が影を捉えるように滑り降りていく。父の地獄のような修行で鍛えられた体幹とバランス感覚をもってすれば、この程度造作もない。わずかな足場の小石の振動さえも殺し、彼女はアジトから静かに遠ざかる。


「……ふぅ」


崖を下りきり、森の小道を抜け、町の裏通りへとたどり着いたとき、ギンは初めて息を吐いた。ここに来るまでに、誰にも気づかれてはいないはずだ。特に、幼なじみであり、副頭領となったゴウには。ゴウは四代目の忠実な信奉者であり、ギンの「パン屋の夢」を「甘さ」と捉え、常に厳しい目を向けている。


町は、完全に眠っていた。通りは石畳の冷たさだけが広がり、酒場の喧騒も、商人の活気も、今は遠い夢の中だ。辺りには、夜明け前の冷たい空気と、焚き火の煙のような薄い霧が漂っている。


そんな静寂の中、町の一角に、琥珀色の温かい灯りが漏れる場所があった。


『焼きたてパンとハーブティーの店 【まどろみベーカリー】』。


ギンの人生で、冷たい血の匂いと泥にまみれた日々に、唯一の温もりを与えてくれた希望の光。


ギンは、マントのフードを深く被り、店の入口に立った。鉄の仮面は付けていない。代わりに、普段アジトで見せる鋭い眼差しを、できる限り優しく、穏やかなものに変えるよう努めた。


「よし」


周りを再度キョロキョロ見回し、誰もいないことを確認すると、彼女はそそくさと店内へ滑り込んだ。


店内に入っても客の気配はない。日中はパンが並ぶガラスケースもこの時間は空っぽだ。奥からは、ほんのりと発酵したパン生地と古い木の匂いが混ざった、どこか懐かしくもあり温かい香りがする。


「コハク」それが、ここでのギンの名前だ。


盗賊団のお頭「ギン」では、町の人は皆怖がって逃げ出してしまうだろう。まどろみベーカリーの優しいご夫妻にも迷惑をかけてしまうかもしれない。


なにより、「影の牙」の冷たい銀の光ではなく、温かい太陽の光を浴びた平和な町に溶け込めるようになりたいという、ささやかな願望を込め考えた偽名だった。


足音を立てないよう盗賊には必須のスキル、忍び足で、店の奥へと続くドアへ向かう。ギンの体は、どんな状況でも音を立てることを許さないように訓練されている。ドアに手をかけた、その瞬間。


「あら、コハクちゃん。おはようさん」


ドアが開くよりも早く、温かい声がギンの背後からかけられた。

ギンの肩がビクッと跳ねた。


「あ、奥様……お、おはようございます!」


振り返ると、そこに立っていたのは『まどろみベーカリー』の副店主であり店主夫人でもあるメアリーだった。


彼女は白いエプロン姿で、手には湯気の立つハーブティーのカップを持っていた。その穏やかで、どこか気品のある笑顔はギンの緊張を一瞬で解きほぐした。


「おや、今日は一段と早いねぇ。まだ空も白みかけてないよ」

「は、はい!今日はたくさん仕込みをしなきゃと思いまして!」


ギンは咄嗟に理由をでっち上げた。まさか「パン屋の仕事が楽しくて早起きしてしまいました」などとは、ピクニックが楽しみで早起きしてしまった子供のようで恥ずかしくて言えなかった。


夫人は優しく微笑み、ギンの緊張を察したように言った。


「あらあら、無理しなくていいのよ。でも、その熱意は嬉しいね。さあ、奥へ。旦那はもう生地を仕込んでいるよ」


こうして始まったギンの秘密のアルバイト。パン屋の一日は、驚くほど体力を使う仕事だった。


まず、小麦粉の袋運び。


「コハクちゃん、重いだろうから、無理しないでね」と夫人は言うが、ギンにとっては崖から転がってくる大岩をかわす訓練や怒り狂ったオーガベアと戦わされることに比べれば、多少重たい小麦粉の袋を運ぶことなどどうということもない。


「へ、平気です!全然重くないですよ!」


小麦粉が入った大袋を一度に何個も肩に担ぎ上げ、軽々と運ぶギンの姿を見て店主夫婦はいつも目を丸くしていた。


そして、生地をこねる作業。


大きな木製の台の上で、何キロもの生地を、手のひらと腕の力で叩き、伸ばし、折り込む。この作業は、全身の体幹が要求される。


だが、四代目である父の過酷な修業をやり抜いたギンの強靭な体幹をもってすれば、ここでも最高のパフォーマンスを発揮した。


(父さんの修行は、パン屋になるための体幹トレーニングだったんだ……!)


ギンは、毎日逃げ出したいと思いながら取り組んでいた血と汗にまみれた過去の修業が、今、温かいパンを作るために役立っているという事実に、内心で涙ぐんだ。


パン生地の匂いが、ギンの周りを優しく包み込む。この温かい香りは、血の匂いがしない、平和の匂いだ。盗賊として略奪した金品よりも、人が丹精込めて作った「温もり」の価値を理解してしまうギンの心が、この場所『まどろみベーカリー』こそが自分の居場所なのだと訴える。


「コハクちゃん、その生地のこね方、力強いのに優しいねぇ。きっと美味しいパンになるよ」


  ──夫人の一言が、ギンの心に深く響く。


日が昇り始めた頃、パンが焼き上がり店が開く時間になった。


まどろみベーカリーは、焼きたてのパンの香りで満たされる。ギンは、額に汗をかきながら、夫人と共にガラスケースにパンを並べ、ハーブティーの準備をした。


まどろみベーカリーは店内での飲食もできるため、買ったパンを店内で食べていくお客さんのためにサービスとしてハーブティーを無料で提供している。


「さあ、コハクちゃん。今日は初めてお客さんの応対もしてみるかい?」

「はい!」


ギンは、少し緊張しながらも、笑顔で返事をした。


そして、午前九時。最初の客が来た。

カランコロン、とドアベルが鳴り、一人の男が店に入ってきた。


その男は、全身を鼠色の安っぽい布で包み、頭には農夫が被るような麦藁帽子を深々とかぶっている。だが、その肩幅と分厚い胸板は、薄手の服でも隠しきれないほど強靱だった。


さらに、顔の半分を覆うように、不自然なほど濃い髭が描き込まれている。


ギンは、その特徴的な体格と雑に描き込まれた髭、そして何より人を威圧する太い声で、その男が誰であるかを即座に悟った。


五代目の右腕であり幼なじみでもあるゴウだ。


「い、いらっしゃいませ!」


ギンは動揺を隠し、声を震わせながらも笑顔を作る。


「お、おう……」


男、すなわちゴウは、不器用なほどぎこちない足取りでパンが並ぶガラスケースの前までやってくると棒立ちになっている。


(ゴウ……なんでここに!? しかもその変装、誰にもバレてないと思ってるの!?)


ゴウは、声色を普段のものから数段低く、そして野太いものに変えようと努力しているようだったが、その声は町中の誰もが振り返りそうなほど異様で逆に目立ってしまっていた。

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