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【幕間】西方大陸の薔薇と砕かれた牙

 ギンたち影の牙が活動している中央大陸に吹き荒れる陰謀の嵐は、海を隔てた遙か西の地、西方大陸にまでその余波を広げようとしていた。西方を統治する大国レグナント王国。その象徴たる王城レグナント城の巨大な城門の前に一人の女が立っていた。


泥の跳ねた平民の服を纏い、旅の汚れを隠そうともしないその姿は、およそ王城に相応しいものではない。


「貴様、王城に何用だ!?」


案の定、門を守る二人の兵士たちは突然現れた女を警戒し、鋭い槍の切っ先を女に向けた。彼らにとって、身分を証さず黙り込んだまま城門を見上げるこの女は不審者以外の何者でもない。


「ここは貴様のような薄汚い格好をした平民が立ち入って良い場所ではない。命が惜しければ立ち去れ!」


しかし、女は動じない。槍の穂先が喉元に届きそうな距離にあっても、その瞳には恐怖の色一つ見られない。それどころか、涼しい顔でを門番たちを眺め、まるで約束の相手を待つかのように佇んでいる。


「……貴様、ナメているのか!? 聞いているのかと言っているんだ!」


激昂した門番の一人が、女の肩を掴み、力尽くで排除しようと一歩踏み出した、そ

の時だった。


「そこまでだ!」


重厚な城門の奥から、朗々と響く老人の声がその場を制した。現れたのは、非の打ち所のない着こなしの執事服を纏った、背筋の伸びた老人だ。


「……ヴィクター様!」


門番たちは驚き、目を見開く。彼は元々平民の出でありながらレグナント王家に長年仕え、特に第二王女からは絶大な信頼を得ている筆頭執事、ヴィクターであった。


「ヴィクター様、この女が……! 警告を無視して立ち去ろうとしない怪しい女なのです。今すぐ捕縛し、処分の指示を仰ごうと――」


門番の言葉をヴィクターは静かに、しかし冷徹な眼差しで遮った。彼は門番たちを一瞥だにせず、彼らが「怪しい女」と呼んだ人物の前に歩み寄ると、汚れを厭わず石畳の上に片膝を突いた。


「――おかえりなさいませ、ベラドンナ様」


その一言に、門番の二人は凍りついた。


「……え?」

「ベ、ベラドンナ……様……?」


門番たちの顔から、一気に血の気が引いていく。レグナント王国第二王女、ベラドンナ・フォン・レグナント。聡明にして果敢、レグナント王家の薔薇と謳われる高貴なる主こそが、今、自分たちが槍を向け、罵倒した相手だったのだ。

門番二人は、弾かれたように槍を放り出すと、その場に平伏する。


「も、申し訳ございません! まさか、王女殿下であらせられるとは露知らず……!」

「万死に値する失態……! どのような処罰もお受けいたします!」


地面に額を擦りつける門番たちを見下ろし、ベラドンナはふっと柔らかく微笑んだ。


「顔を上げなさい。門番はこれくらい厳しく、不審者に毅然とした態度でいないと城は守れないわ。いつもありがとう、良い働きだったわよ。処罰なんて必要ないわ」


その声は、平民の服を着ていても隠しきれない気品と慈愛に満ちていた。安堵と恐縮で震える門番たちを背に、彼女はヴィクターを伴って懐かしき我が城へと足を踏み入れた。


城内にある王女専用の私室。ベラドンナは、ヴィクターが用意した湯浴みを済ませると、腕に貼っていた「影の牙」の構成員を装うための刺青シールを丁寧に剥がす。それから平民の粗末な服は脱ぎ捨てられ、代わりに最高級のシルクを用いたドレスが彼女の肢体を包む。鏡の中に映るのは、泥にまみれた影の牙の団員「ベラ」ではなく、誇り高きレグナントの王女の姿だった。


「……ふぅ、やはり自分の部屋は落ち着くわね」


ベラドンナはソファに深く腰掛けると、ヴィクターが淹れた香気高い紅茶を口にした。


「今回の潜入調査お疲れ様でございました。いかがでしたか? 影の牙の動向は」


ヴィクターが恭しく尋ねる。


レグナント王国は、海を隔てた隣の中央大陸を以前から警戒していた。不穏な動きを察知するため、数多のスパイを送り込んできたが、第二王女であるベラドンナが自ら潜入を買って出たのは、一人の男への危惧からだった。


中央大陸最大の大盗賊団「影の牙」、その四代目お頭。冷酷無慈悲で知られたその男が、強大な力を得て暴走すれば、いずれ中央大陸は戦火に包まれ混乱し、その火の粉はレグナントにも及ぶのではないか。


だが、ベラドンナが「ベラ」として影の牙に潜入して間もなく、彼女が予想だにしない事態が起きた。


「……ええ。驚いたわ、ヴィクター。あの恐ろしい四代目が、あんなに呆気なく隠居してしまうなんて」


ベラドンナは苦笑混じりに語り始めた。


「それに、新しくお頭になった五代目はね……血や争いを心底嫌い、将来はパン屋になりたいなんて言う、およそ盗賊には向かない少女だったのよ」


四代目が選んだ後継者、ギン。ベラドンナは当初、それを狡猾な演技か、あるいは四代目の何らかの策だと思っていた。しかし、潜入生活の中で見たのは、盗賊団のトップでありながら町のパン屋で「コハク」として、小麦粉にまみれながら目を輝かせて働く少女の姿だったのだ。


ヴィクターも五代目お頭となったギンのことは、影からベラドンナを護衛している者たちから聞いており知っていた。


「彼女がお頭になってから、影の牙は変わったわ。無駄な殺生を禁じ、貧しい者たちや善良な者たちからの略奪もしない。今や町の人々からは『義賊』なんて呼ばれて、挙句の果てには『救世主』や『救国の聖女』なんて呼ぶ者たちもいるくらい。でもギン本人は、そう呼ばれるたびに嫌そうな顔をしているけれどね……ふふっ」


ベラドンナの口調には、敵国の脅威を語る冷徹さはなく、どこか親愛の情が滲んでいた。


「そんな彼女が今、ある薬の調査のために、副頭領のゴウと共に聖都クリスタリアのアカデミーに潜入しているわ。……『エデン』一度は製造拠点を潰したはずなのに、その根は想像以上に深く、広範囲に広がっているみたい」


ベラドンナは、ヴィクターにアカデミーでの状況を詳述した。大貴族ベルシュタイン家の影、そして薬によって「夢」の中に囚われていく生徒たちの惨状。


「……四代目の頃までは、盗賊など害虫と同じ、根絶やしにすべきだと考えていました。しかし、その五代目に就任した少女の話を聞く限り……我々の考えも改めねばならぬかもしれませんな」とはヴィクター。


ヴィクターもまた、ベラドンナや彼女の護衛たちの話すギンの人柄に好感を示していた。


「そうね……。皮肉なものだわ。身分を隠し、彼女を欺いて潜入していることが、最近では少し私自身心苦しくすらあるのだから……。彼女は、裏表のない純粋な心で、仲間にパンを焼いてくれるのよ。あのギンの……いや、『コハク』と呼ぶべきかしらね。コハクの焼くクロワッサン……本当においしかったわ」


ベラドンナはお茶を飲み干し静かに目を閉じる。もし自分が王女でなければ、もし彼女が盗賊でなければ、悩みを相談し合い喜びや悲しみを分かち合える親友になれたかもしれない。そんな叶わぬ空想を抱くほどに、ベラドンナはギンの真っ直ぐな生き方に惹かれていたのだ。


だが、そんな安らぎの時間は長くは続かなかった。部屋の扉の外から、控えめだが切迫した声が響く。


「失礼いたします。第二王女殿下、緊急のご報告がございます」


ベラドンナの世話係である使用人の声だ。彼女たちは、王女が着替えや休息の際は決して部屋に入らないよう教育されているが、扉越しに聞こえるその声は、かつてないほど震えていた。


「言いなさい。何があったの?」


ベラドンナの問いに対し、使用人は息を呑み、衝撃的な事実を告げた。


「……先ほど、中央大陸の協力者より知らせが入りました。……大盗賊団『影の牙』の本拠地が、正体不明の勢力によって襲撃を受け――壊滅したとのことです。生存者の確認も困難なほどの、凄惨な跡だったと……!」


その瞬間、ベラドンナの手からティーカップが滑り落ち、厚い絨毯の上で鈍い音を立てた。


「……なんですって!?」


ヴィクターの顔からも余裕が消え、幽鬼のように青ざめる。


「壊、、、滅……? 嘘よ。あのアジトには、幹部たちや、まだ多くの構成員がいたはずだわ。それに、引退したとはいえ四代目だって健在な影の牙が落ちるなんて……!」


ベラドンナはソファから立ち上がったが、膝が震えていた。


ギンがアカデミーで命を懸けて戦っている最中、彼女が帰るべき場所であり、彼女が守ろうとしていた「家族」たちの住処が、無残に踏みにじられたというのか。


「……エデンの黒幕か、あるいは別の勢力か……」     

      ───ヴィクターが低く唸る。


その脳裏には、かつて最強と謳われた盗賊団が内側から、あるいは未知の外敵によって崩壊していく様が現実味を帯びて浮かんでいた。ベラドンナの脳裏には最後に見たギンの笑顔が過る。


『ベラ! 次に会う時は、私が考案したオリジナル新作のパンを焼いてあげるからね!』


あの約束が果たされることは、もうないのかもしれない。そう思うと恐ろしくなり、ベラドンナは震える身体を誤魔化すため拳を強く握る。


平和なパン屋を目指した少女の背後に、今、全ての希望を焼き尽くすほどの、巨大で黒い終焉の影が間違いなく迫っている。


「ヴィクター……すぐに、もっと詳しい情報を集めて。それから、中央大陸への直通便の用意を」

「ベラドンナ様、まさか……!」

「――行くわよ。ギンの『牙』が本当に折られたのか、この目で確かめなければならないわ」


西方大陸の薔薇は、友の危機に、再び嵐の中へと飛び込む決意を固める。久しぶりに帰って来たはずの故郷の静かな夜は、今はひどく冷たく感じられた。


ベラドンナは、まだ熱を帯びたままのティーカップを握りしめ、水平線の向こうで独り戦う少女と、彼女の大切な仲間たちの無事を祈るように願い続けていた。

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