現実の足音
闇。底知れぬ、そして粘り気のある闇がギンの意識を包み込んでいた。
先ほどまで見えていた、あの温かな「まどろみベーカリー」の幻影は、今や足元から崩れ去り、黒い泥のような飛沫となって消えていく。
「……私の夢を、安っぽい見世物小屋に変えないでくれる?」
ギンは闇の中で立ち上がり、正面の影を睨みつけた。そこに立っているのは、以前捕らえた道化師に酷似した姿。だが、放たれる威圧感は比較にならない。まるでこの空間そのものが、その男の意志で脈打っているかのようだ。
『ひどい言い草だね。ここは「エデンの揺り籠」。君たちが望み、しかし決して手に入らない「もしもの世界」を具現化してあげているんだよ。感謝されてもいいはずだ』
道化師は、顔を覆う仮面の奥で目を細めた。その声は、複数の人間が同時に喋っているかのように重なって響く。
「感謝? 冗談でしょ!? あんな冷たいパン、一口食べただけでお腹を壊すわよ。……ねぇ、ここは、エデンを飲んだ生徒たちの意識が集まっている場所なの?」
『察しがいいね。そう、ここは精神の吹き溜まり。現実で「無能」の烙印を押され、居場所を失った哀れな子羊たちが、自分だけの王国を築いている。彼らは皆、幸せだよ。君のように「冷たい」なんて不粋なことは言わず、永遠に醒めない夢の中で英雄や聖女を演じているんだから』
ギンの脳裏に、リヴィアのノートの内容が蘇る。
――寝言にしてはハッキリとした口調で言う。
――夢があまりに心地よく戻るのが苦痛だった。
「……彼らを、現実に戻すつもりはないのね」
『戻す? なぜだい? 現実に戻れば、彼らはまた「家の恥」や「落ちこぼれ」というレッテルを貼られて生きるんだ。ここで夢を見続けていた方が、本人にとっても、そして彼らを厄介払いしたい家族にとっても、最高の結果じゃないか』
「家族にとって都合がいいからって、子供を薬漬けにして眠らせるのが『最高』? まどろみベーカリーの美味しいパンも食べられない世界なんて私はお断りだわ」
ギンは拳を握りしめた。どうやらエデンが見せる夢の中に武器類は持ち込めないようだ。
この空間は、ただの幻覚ではない。エデンという薬物を通じて、人の「未練」や「欲望」を燃料にし、意識をこの異空間へと固定する魔術的な檻だ。
『おやおや、正義の味方のつもりかい? 泥棒猫の五代目が。……だが、いいだろう。君がこの夢を拒絶するなら、夢の代わりに「絶望」を与えてあげよう』
道化師が指を鳴らす。
すると、周囲の闇がうねり、形を変え始めた。
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一方で、現実世界の女子寮。
ギンの自室は、壮絶な修羅場と化していた。
「お嬢! お嬢!! しっかりしてくだせぇ!!」
ゴウは血相を変えて、ベッドに横たわるギンの肩を激しく揺さぶっていた。
ギンの肌は病的なまでに青白く、呼吸は浅い。全身から吹き出す汗がシーツを濡らしている。
「……っ、何があったの!? ……って用務員さん!? なんで用務員さんがコハクの部屋に?」
窓から滑り込むように入ってきたのは、リヴィアだった。彼女は潜入用の夜間着に身を包み、腰には真剣を帯びている。
ギンがエデンを飲むと宣言したため、心配でたまらず様子を見に来たのだ。
「アンタたしかお嬢のご学友の……いや、今はそんなことよりお嬢が、お嬢があの薬を飲みやがって……! 呼んでも叩いても、ピクリともしねぇんです!!」
ゴウの声は震えていた。
いろいろ聞きたいことはあったが、リヴィアはすぐさまギンのそばに駆け寄り、その瞳孔を確認する。
「……深い昏睡状態ね。でも、ただの毒じゃない。魔力が彼女の体内で異常な循環を起こしているわ。まるで、精神がどこか別の場所に引っ張られているような……」
その時。
寮の廊下から、微かな、しかし規則正しい金属音が響いた。
「誰か来るわ」
リヴィアが瞬時に剣の柄に手をかける。ゴウも涙を拭い、殺気を剥き出しにして立ち上がった。
深夜の女子寮に、足音を忍ばせず近づいてくる影。
バタン! と乱暴に扉が開かれる。
そこに立っていたのは、数名の「黒装束」の男たちだった。
「用務員に、騎士科の女か。……鼠が紛れ込んでいるとは聞いていたが、ここだったか」
男たちの中心にいるのは、筋骨隆々の大男。
ゴウはその男の顔、そして胸に刻まれた刺青を見て、目を見開いた。
「……シュラ!? てめぇ、なんでここにいんだ!!」
影の牙第一部隊長、シュラ。
アジトで反旗を翻したはずの男が、なぜクリスタリアのアカデミーに現れたのか。
「ククク……驚いたな。用務員かと思ったらお前かゴウ。お前らがお遊びの潜入任務にうつつを抜かしている間に、影の牙は変わったんだよ。ベルシュタインの旦那からは、『エデンの秘密を嗅ぎ回る鼠を始末しろ』と依頼を受けてな。まさかその鼠が、自分たちの頭領だったとは傑作だ」
シュラが下卑た笑いを浮かべる。
リヴィアが鋭い声を飛ばした。
「ベルシュタイン……! やっぱり、あの家が黒幕なのね」
「さあな。俺たちは金で動く。……だが、お嬢にはここで死んでもらうぜ。眠ったまま死ねるんだ、これ以上の慈悲はあるまい?」
シュラの合図で、黒装束の暗殺者たちが一斉に部屋へ踏み込む。
狭い部屋での乱戦。リヴィアの剣が閃き、一番槍の喉を突く。
ゴウは愛用の鉈を振るい、壁を壊さんばかりの勢いでシュラへ突進した。
「お嬢を……お嬢を傷つける奴は、俺が細切れにしてやるぁぁ!!」
「威勢だけはいいな、副頭領! だが、お前の相手はこの俺だ!」
現実世界での戦いが、ギンの眠るベッドのすぐ傍で火蓋を切った。
───精神の世界「エデンの揺り籠」
ギンの目の前に広がっていたのは、先ほどまでの穏やかな風景ではなかった。
それは、彼女の記憶の奥底に眠る、血と硝煙の記憶。
燃え盛る村。
逃げ惑う人々。
そして、その中心に立つ幼き日の自分と、返り血を浴びた先代――四代目。
『これが君の真実だ、ギン。パンを焼いて笑う日々なんて、ただの借り物の夢。君は「奪う側」の人間だ。この手で多くの命を散らし、闇に生きる定め。それを忘れて、幸福に浸ろうなんて虫が良すぎると思わないかい?』
道化師の言葉が、鋭い針のようにギンの心に突き刺さる。
エデンが見せる夢は、欲望だけではない。
対象が最も触れたくない「罪悪感」や「トラウマ」を引き出し、その精神を摩耗させ、屈服させるのだ。
「……そうね。私は、真っ当な人間じゃないわ。泥棒で、人殺しの娘で……たくさんの人を泣かせてきた」
ギンの声が震える。
周囲の炎が彼女を焼き、亡霊たちの恨み言が耳元で囁かれる。───意識が急速に混濁していく。
このまま、この罪の意識の中に沈んでしまえば、どんなに楽だろう。
何も考えず、何も望まず、ただ闇の一部になれれば。
『そう、それでいい。身の程を知れ、五代目。君には何も守れない。この学園の生徒たちも、パックスヴェイルの人々も、君が関われば全て不幸になる……』
道化師が勝ち誇ったように手を差し伸べる。
その手を握ろうとした、その時。
遠くから、微かな「音」が聞こえた。
──お嬢!!
──目を開けて、コハク!!
それは、現実で自分を守るために戦っている、仲間の声。
さらに、鼻先を微かになでる香りがした。
道化師の作った「冷たいパン」の匂いではない。
もっと泥臭くて、温かくて……
昨日、カイルが「君の健やかな眠りを」と願って渡してくれた、あの不器用な善意。
リヴィアが「危険よ」と真っ直ぐに心配してくれた、あの熱い友情。
そして、ゴウが毎日磨き上げている、あのバカ正直な忠誠心。
「……ふふ。やっぱり、あんたの作る夢は二流ね」
ギンの瞳に、再び強い光が宿った。
「罪悪感? 過去? そんなの、パンを捏ねる時の『塩』みたいなものよ。覚えておくといいわ。それだけじゃ辛いけど、隠し味の工夫が無きゃ美味しいパンなんては焼けないのよ」
『何……!?』
ギンは炎の中に手を突っ込み、亡霊たちの声を振り払った。
「私は影の牙の五代目。そして、まどろみベーカリーの見習い店員、ギン! 奪った分だけ、これからは誰かを温めるものを焼くって決めたのよ! あんたみたいな、人の心を冷やすだけの安物の魔法使いに、私の居場所は決めさせない!!」
ギンの全身から、これまで抑え込んでいた膨大な魔力が溢れ出した。
それは、父から継いだ「破壊の力」ではない。
自分自身で掴み取った、現実を肯定する「生の意志」。
バキィィィィィィィン!!
精神世界に亀裂が入る。
それと同時に道化師の仮面が割れ、その奥にある驚愕の表情が露わになった。
『馬鹿な……エデンの呪縛を、内側から破壊するだと!? 人間にそんな芸当が……!』
「悪いわね。エデンの呪縛なんて美味しいパンを作る苦労に比べればどうってことなかったわ」
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「……はぁっ!!」
ギンの目が、カッと見開かれた。
上半身を勢いよく起こすと、まず視界に入ったのは、自分を庇うようにして暗殺者の剣を腕で受け止めているゴウの背中だった。
「ゴウ!!」
「……お、おじょ……! 起きたんですかい……!?」
ゴウが血塗れの顔で、しかし最高の笑顔で振り返る。
部屋はめちゃくちゃに荒れ、リヴィアも肩で息をしながら、三人の敵を同時に相手取っていた。
「コハク! 良かった……!」
「リヴィア、ゴウ。……交代よ。たっぷり『悪い夢』を見たから、今は最高に機嫌が悪いの」
ギンはベッドから飛び起きると、枕元に隠していたレイピアを手に取った。
パジャマ姿のまま、彼女の周囲に立ち昇る殺気は、先ほどまでの「可憐な生徒」の面影など微塵も残っていない。
「シュラ。部下の教育がなってないわね。頭領の寝込みを襲うなんて、影の牙の掟を忘れたの?」
「……エデンを飲んでこれほど早く覚醒するとは。だが、所詮は女。テメェの首を獲って俺が影の牙六代目だ!!」
シュラが不気味な笑みを浮かべ、大剣を構え直す。
だが、ギンは動じない。
彼女は今、エデンの精神世界で「自分の中の闇」と対峙し、それを乗り越えた。
今の彼女には、迷いも、躊躇もない。
「アナタごときに時間はかけない。三分よ。三分以内に片付けるわ。……パンを作るより早く終わりそうね」
ギンの体が、銀色の閃光となって室内に弾けた。
それは、騎士の剣術でも、盗賊の暗殺術でもない。
ただ、愛する日常を守るための、最強の「五代目」の力。
クリスタリアの長い夜は、まだ明けない。
だが、絶望の眠りは終わり、反撃の火蓋は切って落とされた。
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───同じ頃、ベルシュタイン家の屋敷。
一人の男が、暗い部屋でチェスの駒を動かしていた。
カイルの父であり、王国の財政を牛耳る男。
「……ふむ。エデンの揺り籠に穴が開いたか。面白い。やはり、あの銀髪の娘は『特異点』だったか」
彼は不敵な笑みを浮かべ、盤上の「クイーン」を倒した。
「カイル。お前が連れてきたその『風』が、我が家を壊すか、あるいは更なる高みへ運ぶか……見せてもらおう」
陰謀は、アカデミーの壁を超え、国家の中枢へとその根を伸ばしていた。




