虚飾の楽園
───放課後の訓練場。
オレンジ色の夕刻が、長く伸びた影を石畳に刻んでいる。リヴィアは周囲に誰もいないことを確認すると、使い込まれた一冊の革表紙のノートをギンへと差し出した。
「……これを。私が独自に調べてきた、この学園の『闇』の記録よ」
ギンはそれを受け取り、パラパラとページをめくった。そこには、騎士らしい質実剛健な、しかしどこか繊細な筆致で、驚くべき情報が記されていた。
【リヴィアの調査手帳】より……
①特性の変質:現在学園で出回っているものは、世間の『三日間眠らずに動ける』というエデンとは真逆だ。服用者は即座に深い眠りに落ち、二度と目を覚まさない。
②標的の共通点:被害者は全員、成績不振や素行不良など、家門にとって「不名誉」とされる生徒たち。
③背後の影:大貴族の関与が濃厚。特にベルシュタイン家が疑わしい。だが、嫡男カイルは「ただの栄養剤だろう」と無邪気に信じ込んでおり、核心からは遠ざけられている様子。
④異常な寝言:眠りについた生徒たちは、時折、現実の会話と遜色ないほどハッキリとした口調で喋る。まるで、眠りの中でもう一つの「現実」を生きているかのように。
⑤唯一の帰還者:一人だけ目覚めた者がいる。進級ができるかどうかの当落線上にいた彼は、眠ることができずにいたようだ。そんな彼がエデンを服用すると一瞬で深い眠りにつくことができたようだ。彼曰く、「自分が国の英雄になる夢を見ていた」と語っていた。夢があまりに心地よく、戻るのが苦痛だったとも……。
「……なるほどね」
ギンの瞳に、盗賊としての鋭い光が宿る。
リヴィアノートにある①から③までは、ゴウや「影の牙」の情報網で掴んでいたことと一致する。しかし、④の「ハッキリとした寝言」、そして⑤の「起きるのが苦痛に思えるほどの都合のいい夢を見せる」という点は初耳だった。
「リヴィア。この薬、ただの毒薬じゃないわ」
「ええ。単に殺すならもっと別の方法があるはず。これはまるで、魂を別の場所に閉じ込めているような……。ねぇコハク、これ以上は危険よ。騎士団に報告すべきだわ」
だが、ギンは静かに首を振った。
「ダメよ。騎士団が公に動けば、尻尾を切られて終わり。製造元を叩かなきゃ仲間や家族が、この『悪夢』に飲み込まれる。……ねぇ、リヴィア。このエデン、手に入らないかしら?」
「正気なの!?」リヴィアが声を荒らげた。「あれを飲んだら、あなただって目覚めないかもしれないのよ!」
「大丈夫。私、こう見えて毒に耐性があるの。それに、目覚めた人が一人いるなら、その『鍵』が何かも突き止められるはず。……手がかりは、やっぱりあのお坊ちゃまね」
ギンはノートを閉じると、夕闇の中に白く浮かび上がる男子寮を見上げた。
翌日。ギンは昼食の時間、一人で中庭のベンチに座っていたカイルに、あえて自分から歩み寄った。
「コハクさん! まさか君から来てくれるなんて……! 今日は太陽が二つ出ているのかと思ったよ!」
相変わらずのテンションで立ち上がるカイル。ギンは少しだけ罪悪感を覚えながらも、しおらしい態度で切り出した。
「ねぇ、カイルくん。昨日見せてくれた……お家からの薬、まだ持ってる?」
「え? ああ、あの栄養剤かい? もちろんあるよ。でも、君には必要ない。君の剣はあんなものに頼らなくても完璧だ」
「……実は、最近少し眠れなくて。慣れない学園生活で、夜になると不安になっちゃうの。カイルくんの言っていた『疲れが取れる薬』、少しだけ分けてもらえないかな?」
「不安!?」───カイルの胸に雷が落ちた。
守るべき可憐な花が、自分に助けを求めている。この状況で拒むベルシュタインの男がいるだろうか。
「待っていてくれ! すぐに持ってくる!」
カイルは全速力で寮へと走り、数分後、息を切らしながら戻ってきた。その手には、昨日の琥珀色の液体が入った小瓶が握られていた。
「これだよ。父上は『寝る前に一滴』と言っていた。君の健やかな眠りを守れるなら、僕にとってこれ以上の喜びはない」
「ありがとう、カイルくん。大切に使うわね」
ギンの微笑みに、カイルは天にも昇る心地で去っていった。その後ろ姿を見送りながら、ギンの表情から笑みが消える。
「……悪いわね、カイルくん。あなたの『善意』、有効活用させてもらうわ」
───その夜
女子寮の一室ではギンはパジャマ姿でベッドの上に胡坐をかき、手元の小瓶を見つめていた。
扉の隙間からは、用務員服に着替えたゴウが顔を出し、今にも泣き出しそうな形相で反対していた。
「お、お嬢……頼みますからやめてくだせぇ。もしお嬢が起きなかったら、俺はどうすればいいんですかい。四代目になんて報告すれば……!」
「しつこいわよ、ゴウ。あなたはドアの前で見張ってて。万が一、私がうなされたり、変な寝言を言ったら記録する。いいわね?」
「……本気にやるんですかい?」
「ええ。エデンを根絶するには、その『中』を知るのが一番早いのよ。それに、私は運がいいから大丈夫」
ギンは小瓶の栓を抜いた。瞬間、鼻を突くのは甘ったるい、腐った果実のような香り。だが、その奥に微かに「魔力」の残滓を感じる。
「……いくわよ」
ギンは躊躇なく、小瓶の中身を一気に飲み干した。
「お嬢!!」
ゴウの叫びが遠のいていく。
視界が急激に歪み、足元から奈落の底へ引きずり込まれるような感覚。強烈な睡魔というよりは、物理的な「重圧」が脳を押し潰す。
(……これが、新型エデン……)
ギンの意識は、深い、深い闇へと溶けていった。
眩しい光に目を細める。
「……ん……?」
ギンが顔を上げると、そこはカビ臭い女子寮の部屋ではなかった。
香ばしい、幸せな匂い。
焼きたてのパン。小麦の香りとバターの芳醇な余韻が鼻腔をくすぐる。
「おーい、ギン! 焼き上がったぞ、早く並べてくれ!」
聞き覚えのある明るい声。振り返れば、そこには「まどろみベーカリー」の店主夫妻が、満面の笑みでこちらを呼んでいる。
店先には、かつて見たことがないほど大勢の客が並び、みんながギンの作ったパンを手に取り、「美味しい」「魔法のパンだ」と絶賛している。
「……あ、あはは。そうか、私、店を持てたんだ」
そこは、ギンの夢が全て叶った世界だった。
盗賊であることも、エデンの脅威も、影の牙の重圧もない。
ただの「パン屋のギン」として、人々に愛され、平穏な日々を過ごす場所。
(……なんて素敵なの。ここにいれば、誰も傷つかなくていい。リヴィアも、ゴウも、みんなでパンを食べて……)
あまりの幸福感に、ギンの心がふわりと浮き上がる。しかし、その多幸感の波の中で、ギンの「盗賊としての魂」が微かに警鐘を鳴らした。
(待って。……このパン、匂いは完璧だけど……『温度』がない)
ギンは、目の前のトレイに乗ったクロワッサンを手に取った。
見た目は完璧。黄金色の層が美しく重なっている。
だが、触れた感触が、まるで冷たい石のように生命力を欠いている。
視線を上げると、笑っている店主夫妻の瞳が、一点を見つめたまま動いていないことに気づく。
「……偽物。これ、全部偽物ね」
その瞬間、幸福だったパン屋の景色が、墨を流したようにドロドロと崩れ始めた。壁が剥がれ落ち、店主たちが虚空に溶けていく。
後に残ったのは、終わりなき闇と、その奥から響く不気味な笑い声。
『……おや。夢に溺れず、自ら殻を割るとは。やはり君は、他の不良品共とは違うようだね』
闇の中から現れたのは、かつてギンたちが捕らえたはずの「道化師」によく似た、しかし遥かに巨大な禍々しさを纏った影だった。
『ようこそ、エデンの揺り籠へ。五代目影の牙……いや、今はパン屋の看板娘、コハクさん……だったかな?』
ギンの「現実」での身体は、冷たい汗を流しながら、ベッドの上で激しく震え始めていた。
ゴウが必死に肩を揺さぶるが、ギンの瞳は開かない。
潜入捜査は、最悪の局面を迎えていた。
ギンは今、物理的な学園の闇ではなく、薬物によって生成された「精神の牢獄」の中に、独り取り残されたのだ。




