牙の迷走
ここは聖都クリスタリアの流れる澄んだ水の音も届かない切り立った崖の上に築かれた「影の牙」のアジト……。
そこには今、いつものような略奪の熱気も、あるいは五代目ギンが持ち込んだ「焼きたてパンの平和な香り」も存在しなかった
。
漂っているのは、重苦しく、澱んだ、古い獣の体臭のような沈黙だ。
頭領であるギン、そして副頭領のゴウ。組織のトップ二人が揃って「極秘任務(という名の学園潜入)」でアジトを空けてから数日が経過していた。統率者不在の巨大な盗賊団内部では、押し殺されていた不満と野心が、まるで蓋がされた沸騰した鍋のように溢れ出始めていた。
───アジトの最深部、円卓の間
そこでは、影の牙を支える五人の幹部たちによる緊急会議が開かれていた。
議題は、表向きこそ『今後の影の牙の活動方針について』だが、その場の誰もが理解していた。これは、不在の五代目に対する「信任」か「背信」かを問う、静かなるクーデターの序曲であることを。
「……まどろっこしい話は抜きだ。今の影の牙は、腐りかけている」
沈黙を破ったのは、影の牙第一部隊を束ねる男、シュラだった。
彼は四代目が健在だった頃から頭角を現していた古参であり、その腕っぷしと隠密術に関しては、先代にも引けを取らないと言わしめた実力者だ。
逆立った髪に、左目を縦に貫く古い刀傷。その風貌は、まさに「盗賊」という生き様を体現していた。
「五代目が座についてからというもの、どうだ? 無駄な殺生を禁じ、あろうことか『義賊』などという、反吐が出るような呼び名を甘んじて受け入れている。俺たちは盗賊だ。闇に紛れ女子供にも容赦しねぇ、弱者からも強者からも奪う。それが俺たち影の牙のやり方だったはずだ!」
シュラがダンッという音を立てて拳を岩のテーブルに叩きつける。その振動が、円卓の端に座っていたゾルグの肩をびくりと揺らした。
ゾルグは、かつてバルカスが謀反を起こした際、ギンがそれを見事に(と彼は思っている)鎮圧した現場に居合わせた男だ。彼の脳裏には今も、返り血を浴びることなく、冷徹な無表情で裏切り者たちを「無力化」していったギンの姿が鮮明に焼き付いている。
(シュラよ……お前は見ていないからそんなことが言えるんだ……。あのお嬢の……いや、五代目お頭の底知れなさを……)
ゾルグは青ざめた顔で、滴る汗を拭った。かつては粗暴だった彼も、あの夜以来、すっかり「穏健派」に転じている。というより、ギンの逆鱗に触れることへの恐怖が、彼を大人しくさせていた。彼はギンに対して、まるで温かいパンの中から突然鋭利な刃物が飛び出してくるような、そんな得体の知れない恐怖を感じていた。
「五代目のやり方は……その、効率的だ。無駄な血を流さず、貴族や役人たちの目も逸らせる」
ゾルグが消え入るような声でフォローを入れるが、それを鼻で笑ったのは第二部隊の長、ラセツだった。
「効率的? 笑わせるな、ゾルグ。おかげで他所の連中には、今の影の牙は『泣く子にも笑われる』などと言われナメられている。昨晩も、名も知らねぇ木っ端山賊共に酒場で笑われた。六代目が誰になるにせよ、これ以上あの『お嬢ちゃん』に看板を汚させるわけにはいかねぇんだよ」
ラセツはシュラと六代目の座をかけて争い反目し合う間柄ではあったが、こと「女の頭領が気に食わない」という一点において、彼らは考えが同じだった。
───時は数日前に遡る。
シュラとラセツの二人は、深い森の中、パックスヴェイルから馬を飛ばして数時間の距離にある、ならず者たちの吹き溜まり【大蛇の顎】の酒場にいた。
ここは国の法が及ばぬ盗賊や山賊といったならず者たちが集まる聖域。冒険者たちが見たら涎をたらして討伐したくなるような各地の高額賞金首や、血の気の多い荒くれ者が集う闇の社交場だ。
「おい見ろよ、影の牙の旦那方だ。今日はパンの配達か? ヒヒヒ!」
酒場に入るなり、酔っ払った山賊がラセツの肩に手を当て声をかけてきた。
シュラは怒鳴りつけようとしたが、ラセツが次の瞬間、その男の手をナイフで斬り落とす。
「ぎゃぁぁ」という男の悲鳴にも周囲の連中は誰も反応しない。ここ【大蛇の顎】では全て自己責任、無法地帯で誰が死のうが気に留める者はいない。
隣にいた別の盗賊が追い打ちをかける。
「聞いたぜ? 今の影の牙は、盗みに入る前に『ごめんください』って挨拶するんだろ? まるで聖騎士様じゃねぇか。四代目が草葉の陰で泣いてるぜ」
「……黙れ、殺すぞ。それに四代目は隠居しているだけで死んじゃいねぇ」
ラセツが短刀の柄に手をかけるが、男たちは動じない。
「だったら、さっさとそのお飾りのお嬢様を蹴落として、マシな奴が六代目になればいいだろうが。それとも、女のケツを追いかけるのがそんなに楽しいのか? 五代目はかなりの上玉だと評判だしな。俺も一晩頼みたいぜ」
その言葉は、シュラとラセツの胸にある、くすぶっていた野心に火を点けた。
そうだ。四代目がギンを指名したのは、単なる親バカの気まぐれに過ぎない。影の牙は今まで血縁者が次の頭領となってきたが、世襲制は絶対ではない。実力があれば認められる世界だったはずだ。
「……シュラ。俺とお前、どっちが頭をやるかは後で決める。だが、まずはあの女、五代目を引きずり下ろす。異存はないな?」
ラセツが酒を煽りながら低く呟いた。
シュラは無言で、自身の愛刀を磨く布を握りしめた。
「ああ。お嬢と、あの腰巾着のゴウがいない今が、最大の好機だ」
そして現在、影の牙盗賊団の会議が開かれている円卓の間。
シュラは再び声を張り上げ、他の幹部たちを見渡した。
「いいか! 五代目は今、任務だと言ってどこぞへ消えている。副頭領のゴウもだ。これは組織に対する放棄だ! 頭領がアジトを空け、パン作りの片手間に指示を出すなど、あってはならない。今こそ、俺たちの誰かが実権を握り、影の牙を元の『恐怖の象徴』に戻すべきだ!」
シュラは、ここで他の幹部たちが「異議なし!」と立ち上がるのを期待していた。
しかし、返ってきたのは、予想に反して冷ややかな沈黙だった。
三部隊、四部隊を束ねる他の幹部たちは、互いに目配せをし、やれやれといった表情でシュラを見ている。
「……シュラよ。お前が六代目の座を狙っているのは、五代目以外の全員が知っていることだぞ」
三部隊の長、フリードが呆れたように言った。
「五代目のやり方が生ぬるい、か。確かに俺も、昔のように派手に略奪をしたいと思うこともある。だがな、シュラ。五代目になってから、俺たちの取り分は増えている。無駄な抗争が減り、闇市場での『影の牙』ブランドの価値は、逆に上がっているんだ。パックスヴェイルのパン屋の情報網も馬鹿にできん。あれはただの遊びじゃない」
「……何を!」
「それにだ。お前がもし頭領になったとして、あのゴウをどう抑える? 奴がお嬢を傷つけられたと知れば、このアジトは血の海になるぞ。なにせゴウは……いや、それはいいか。とにかく俺は、あいつと殺し合いをするのは御免だね」
ゾルグもまた、何度も何度も必死に頷く。
「そうだ、そうだ……。それに、お嬢が戻ってきた時、もし不機嫌だったら……。お前、あの方の本当の『怖さ』を知らんのだ。あれは、四代目とは質の違う……何か、抗えない深淵のような……」
ゾルグの言葉には、経験した者にしかわからない真実味があった。
シュラとラセツは歯噛みした。他の幹部たちは、五代目の実力を認めているというよりは、現状の安定と、五代目の背後にチラついて見える四代目の威光に「屈して」いるように思えたのだ。
「腰抜け共が……! 牙を抜かれたのは、お頭だけじゃなくお前らもか!」
ラセツが椅子を蹴り飛ばして立ち上がる。それに続いてシュラも立ち上がり、一人、円卓の間を出て行ってしまった。
「会議は終わりだ! 好きにしろ。だが俺たちは認めん。貴様らはあの女の作った甘いパンで腹を膨らませて、そのまま眠ってろ!」
シュラに続きラセツも吐き捨てるように円卓の間を後にした。
アジトの薄暗い廊下を歩きながら、シュラの顔には隠しきれない焦燥と怒りが入り混じっていた。
「……あいつら、完全に飼い慣らされてやがる。あの女の焼いたパンとやらに、毒でも入ってたんじゃないか?」
「シュラ、どうする。幹部共の賛同が得られなきゃ、クーデターは成立しねぇ」
シュラは立ち止まり、窓の外に広がる広大な森――ルーメンやクリスタリアへと続く道を見つめた。
「……まともにやってダメなら、搦手だ。お嬢が『聖都』で何を企んでいるかは知らんが、もしそこで『不祥事』でも起こしてくれれば……あるいは、その命をあちらさんで落としてくれれば、影の牙は自然と俺たちの手に戻る」
「……ほう。何か考えがあるのか?」
シュラはニヤリと、獣のような笑みを浮かべた。
「大蛇の顎には、金さえ積めば動く暗殺者がいくらでもいる。それに、エデンの件で五代目に恨みを持っている連中もな。俺たちが直接手を下す必要はない……。お嬢には、そのままクリスタリアで溺死でもしてもらって、女神クリスタのもとに行ってもらおうじゃないか」
「ククク……。五代目の……いや、ギンの最後が水の都での『溺死』とは、なんとも風情があるな。六代目の初仕事は、盛大な葬式の準備になりそうだ」
二人の笑い声が、アジトの岩壁に不気味に反響した。
・・・・一方その頃、聖都クリスタリアのアカデミー。
ギンは、牛柄のパジャマに身を包み、ゴウを簀巻きにした達成感(?)で安眠の淵にいた。
彼女はまだ知らない。
故郷のアジトで、自身の「牙」であったはずの部下たちが、毒蛇のようにその首を狙い始めていることを。
「……むにゃ。新作のクロワッサンは……バターたっぷりの……むにゃむにゃ……」
寝言を呟くギンの枕元で、忍び寄る反逆の足音。
影の牙を巡る権力争いは、聖都の陰謀と複雑に絡み合い、ギンとゴウを更なる混沌へと導こうとしていた。




