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【幕間】パンの香りと歪んだ楽園

 精霊の加護厚き精都クリスタリアから遠く離れた、のどかな田舎町パックスヴェイル。この町では今、二つの大きな話題で持ちきりだった。


一つは、この地方を縄張りとする盗賊団「影の牙」の五代目お頭が、巷で流行していた新薬「エデン」の製造拠点を壊滅させたという衝撃的なニュース。


そしてもう一つは、町で一番人気のパン屋『まどろみベーカリー』の看板娘、コハクが「学問の修行」のためにしばらく店を離れたという寂しい報せである。


「なあ、救世主様⋯⋯いや、五代目さんは、なんであんなに必死になって薬の工場を潰したんだ?」


 町の広場では、男たちが首を傾げていた。彼らにとって「エデン」は、飲めば疲れが吹き飛び、三日間も元気に働ける、魔法のような栄養剤だという認識だった。


それを「悪の根源」のように扱い、血気盛んに叩き潰した五代目の行動は、一部の住民からは「商売敵を消しただけではないか」「気まぐれな暴力ではないか」と、不信の目で見る者たちも少なからずいたのだ。


 だが、そんな殺伐とした噂話も、路地を曲がって漂ってくる芳ばしいパンの匂いの前では、どこか遠い世界の出来事のように思えた。


  

         ・

         ・

         ・

         ・

         ・



 朝日が町の石畳を照らす頃、『まどろみベーカリー』の店主と妻のメアリーは、いつものように仕込みを終え、開店の準備を整えていた。


「……ねえ、あなた。やっぱり、コハクちゃんがいないと、やっぱりちょっと寂しいわね」


 メアリーが棚にパンを並べながら、ふう、と小さく溜息をつく。


   ───店の看板娘、コハク。


その正体が、町でたびたび話題になっている盗賊団の五代目お頭であることなど、この善良な夫婦は露ほども知らない。


彼らにとって彼女は、銀色の髪を揺らしながら、誰よりも熱心にパン生地と向き合い、どんな客に対しても優しく微笑みかける、愛すべき「見習い店員」であり「看板娘」なのだ。


「全くだ。あの子が編入試験に満点で受かったって聞いた時は腰が抜けたが……聖都のアカデミーなんて大層なところに行っちまって。立派なことで応援してるが⋯⋯やっぱり寂しいもんだな」


 店主も苦笑いしながら同意する。


 コハクは、このパックスヴェイルではちょっとしたアイドルだった。彼女が店先に立つようになってから、客層は明らかに変わった。

 

 朝一番、少しでも長く彼女を見つめていたいがために、不自然にパン選びに時間をかける近所の若者たち。仕事の合間に、彼女の「頑張ってくださいね」という一言を補給するためだけに列に並ぶ職人たち。そして、ただ彼女と世間話をするのが生きがいになっている老人たち。

 

 だが、当の本人であるギン(コハク)は、「自分は卑しい盗賊の娘であり盗賊団の頭領だ」という卑下、そして何よりパン作りへの異常な情熱も重なり、「お客さんがこんなに来てくれるのは、店主さんのパンがやみつきになるほど美味しいからだ!」と本気で信じ込んでいた。


たしかに『まどろみベーカリー』で作られているパンは美味しいと町でも影の牙でも評判だ。しかし、店の看板娘としてのコハクの貢献度も大きいのは間違いなかった。


 そんな彼女がいなくなった『まどろみベーカリー』だったが、彼女の帰りを待つ常連客たちの足が途絶えることはなかった。むしろ、「コハクちゃんはどうしてる?」「元気に勉強してるかい?」と尋ねる客たちとの会話が、今の店主夫妻の楽しみになっていた。


 しかし、その平和は、あまりにも唐突に、そして無残に引き裂かれることになる。


 それは、一日の営業を終えようとしていた薄暗い夕暮れ時のことだった。

 店主が表の看板を下げ、メアリーが店内にあるイートインコーナーの椅子を整えていた時、店のドアが、蝶番が悲鳴を上げるほどの勢いで蹴り開けられた。


「……おい、よこせ……! 全部だ! うがるぁぁぁぁぁぁぁ」


 押し入ってきたのは、三人組の男たちだった。

 彼らの手には、およそパンを買いに来る格好には似つかわしくない、血に汚れたなたや、無骨な斧が握られていた。


「ちょ、ちょっと! 何なのよあなたたち、もう閉店……」


 メアリーの言葉は、男が振り下ろした斧によって遮られた。イートインの木製テーブルが、凄まじい音を立てて真っ二つに割れる。


「ひっ……!」


コハクがいつも丁寧に磨いていたショーケースが粉々に砕け散り、今日焼き上げたばかりの黄金色のパンが、泥と血にまみれて踏みにじられる。


「メアリー、下がれ!」


 店主が咄嗟に妻をかばうように前に出た。だが、男たちの動きは異常だった。


 通常、人間には恐怖や躊躇いがある。だが、目の前の三人の瞳は、焦点が全く合っておらず、瞳孔が不自然に開ききっている。それは理性を失い、怒り狂ったような「獣」の目だった。


「邪魔だぁぁぁ!」


 真ん中の男が鉈を横に薙いだ。店主はメアリーを突き飛ばして避けたが、間に合わなかった。鋭い刃が店主の背中を深く切り裂く。


「ああっ!」

「あなた!」


 血が店内に飛び散り、香ばしいパンの香りに鉄の匂いが混ざり合う。メアリーは悲鳴を上げそうになる口を抑え、目の前の凶行に絶望した。だが、その恐怖以上に、彼女の心を凍りつかせたのは、男たちの「顔」だった。


「……マルコ? そんな、嘘でしょ……?」


 一人目の男、マルコ。彼は町の若き鍛冶師見習いだった。コハクに密かに思いを寄せ、毎日照れくさそうにチーズパンを買いに来ていた、真面目な青年だったはずだ。それが今、口から泡を吹き、鉈を振り回している。


「ジャンさん……あなたまで、どうして……!」


 二人目は、王都から派遣されていた駐屯兵のジャン。彼は「酒の飲めない自分は食事をするためとはいえ、酒場に入るのは相応しくない」と言って酒場に入らず、夕飯をまどろみベーカリーのパンで済ませるような生真面目な男だった。コハクとも気軽に「今日の焼き上がりはどうだい?」などと、笑い合って話すような仲で、町で最も信頼される兵士の一人だった。


その彼が、今は斧を握りしめ、自分たちに向けたこともないような殺意を撒き散らしている。


「ゲルトさん! 落ち着いて、ゲルトさん!」


 三人目は、少し前に町で宿屋を営んでいた「ご隠居さん」ことゲルトだ。彼は息子夫婦に譲った宿屋の経営が上手くいっていないのを見かねて再建のために奔走し、その合間に店にやって来ては孫のように可愛がっていたコハクと世間話をするのが唯一の楽しみだと言っていた温和な老人だ。


そんなゲルトが、今は髪を振り乱し、狂ったように棚のパンを掴んでは握り潰していた。


「あ、あああ……! 眠れないんだ……! 働かなきゃいけないのに……ああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ⋯⋯」


 ゲルトが叫ぶ。その声は、かつての温和な彼のものとは程遠い、地獄の底からの叫びのようだった。


「あなた、しっかりして!」


 メアリーは負傷した店主を必死に肩に抱え、隙を突いてバックヤードへと続くドアへと飛び込んだ。内側から震える手で鍵をかける。ドアの向こうからは、ドンドンと激しい打撃音と、かつての「良き隣人たち」による呪詛のような叫びが聞こえてくる。


「助けて……誰か、助けて!!」


 メアリーは裏口から外へ飛び出し、夜の町に響き渡るほどの声で叫ぶと、幸いなことに、異常事態を察知した町の兵士たちがすぐに駆けつけてくれた。


 暴れ狂うマルコ、ジャン、ゲルトの三人は、数人がかりで取り押さえられ、即座に連行された。彼らは拘束された後も、白目を剥いて痙攣し、わけのわからない何かを求めて叫び続けていたという。


 翌日、町に衝撃的な事実が公表された。


 調べによれば、襲撃した三人は全員、あの「エデン」を常用していたことが判明したのである。


 マルコは、一日でも早く一人前の鍛冶師になり、想い人であるコハクに相応しい男になろうと、寝る間も惜しんで修行するために。


 ジャンは、激務の中で兵士としての誇りを保ち、疲れを見せずに町の平和を守り続けるための、ただの栄養剤として。


 ゲルトは、経営難に苦しむ息子夫婦の宿屋を支えるため、老体に鞭打って二十四時間働き続けるための支えとして。


 彼らは決して悪人ではなかった。むしろ、誰よりも真面目で、誰かのために尽くそうとした無辜の民だったのだ。


 だが、エデンという薬は、その「善意」につけ入る。


 三日間眠らずに動けるという効果は、神経を無理やり昂ぶらせ、脳の安全装置を破壊することで成り立っていた。薬が切れた時、あるいは過剰に摂取した時、待っているのは「元気」の利息――すなわち、精神の完全な崩壊と、暴走する衝動だったのである。


 町の人々は震え上がった。


 彼らが「ただの栄養剤」だと思い、時には自分たちの子供にさえ「疲れが取れるよ」と勧めていたその薬が、あんなにも温厚だった三人を怒り狂った獣のように変えてしまう猛毒だったとは。


 この事件を重く見た駐屯兵たちは、直ちに王都へ緊急報告を送った。それからすぐに、王命により町中にエデンの危険性を知らせる布告が出されエデンの使用は禁止された。


「……五代目は、これを知っていたのか」


 広場に集まった町人たちは、自分たちの無知を恥じ、また、自分たちのためにエデンを食い止めようとしてくれていた五代目を疑ってしまったことを恥た。


 影の牙の五代目、ギン。彼女が、命がけでエデンの製造拠点を叩き潰したのは、単なる盗賊の気まぐれでも、商売敵の排除でもなかったのだ。

 

 彼女は、このパックスヴェイルの人々が、薬の偽りの輝きに魅入られ、自分自身を失ってしまうことを予見し食い止めようとしたのだ。


 大切な「常連客」たちが、歪んだ楽園に堕ちてしまう前に。そして何よりも、自分を温かく受け入れてくれたこの町の平和が、内側から腐り果ててしまう前に。


「救国の聖女だ……」


 誰かがぽつりと呟いた言葉は、瞬く間に町中に広がった。


 凶悪な盗賊団の長という肩書きは、いつしか「闇の中から自分たちを守ってくれる守護者」という色を帯び、人々は敬意を込めて彼女をそう呼ぶようになった。


 一方、聖都クリスタリアのアカデミー。


 ギンは、届けられた影の牙からの便りを読み、頭を抱えていた。


「な、なによこれ……。『救国の聖女』!? 私、ただの盗賊なんだけど! いや、そんなことより、まどろみベーカリーの店主さんが怪我をしたなんて……!」


 彼女は、自分がいない間に起きた悲劇に胸を痛め、同時に、自分が勝手に「聖女」として祭り上げられている現状に、猛烈な拒否感を覚えていた。


「うぅ⋯⋯私はただ、平和にパンを焼きたいだけなのに。あのおじいちゃんも、兵士さんも、若い職人さんも……美味しいパンを食べて笑っていてほしかっただけなのに……」


 ギンの瞳には、怒りと悲しみが混ざり合っていた。


 エデン。その毒は、彼女の愛するパン屋の日常さえも汚した。


「許さない。この薬を作っている黒幕を、絶対に引きずり出してやる」


 彼女は、牛柄のパジャマを脱ぎ捨て、再び凛とした「コハク」としての表情を作った。


 汚れた手では美味しいパンは焼けない。


 だが、大好きなパックスヴェイルを汚すこの元凶は全て砕かなければならない───たとえそれが自分の手を汚すことになったとしても。


 パックスヴェイルの風は、今も微かにパンの香りを運んでいる。

 傷ついた店主を看病するメアリーは、窓の外の空を見上げ、確信していた。

 

 いつかまた、あの銀髪の少女が戻ってきて、エプロンを締め、世界で一番温かく優しいパンを焼き上げてくれる日が来ることを。

 

 その日まで、まどろみベーカリーの灯は消さない。


 エデンとかそういう難しい話は「聖女様」や町の兵士たちに任せればいい。


自分たちの役目は「大切なコハクちゃん」が帰ってきたときのために『まどろみベーカリー』を続け、彼女をまた笑顔で迎えることなのだから。

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