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最凶の英才教育の間違った使い方

 いつもの酒場の片隅で、ゴウがエールを飲み干し、口元を乱暴に拭った。この酒場のマスターと影の牙はちょっとした縁があり影の牙の団員たちは正体を隠しよくこの酒場を利用している。


そんな酒場で、号外を握りしめたまま呆然としているギンを心配そうに見つめている。


「お、お嬢……落ち着いてください。その号外は、どう見ても領主の奴らが市民を煽るためのデマですぜ!『義賊』だなんて、ありえねぇ!」

「デマ? デマにしては、市民の熱気がすごすぎるわ。ほら、見てよ」


ギンは居酒屋の窓の外を指さした。外では町人たちがその号外を掲げ、口々に「五代目!五代目!!」と歓声を上げている。彼らの目は、恐怖ではなく、どこか期待と喜びの色を帯びていた。


「私はただ、血を見るのが嫌で一番楽な方法を選んだだけなのに……!」


ギンはテーブルに突っ伏した。チーズの匂いが鼻につく。彼女の心は、世間の評価と自分の本性の乖離が大きすぎて激しく揺さぶられていた。


「まぁ、結果的に悪税を潰したんですから、悪くはないでしょう。四代目お頭だったら、役人たちを皆殺しにして奪った金を全部懐に入れていたでしょうからね。お嬢のやり方は、世間には『義賊』に見えたってことですよ」


ゴウの言葉は、ギンにとって慰めにはならなかった。彼女の頭の中を駆け巡るのは、ただ一つ。


(パン屋……。平和で、温かくて、血の匂いがしない、あのパン屋……)


その夢は、遠い過去、彼女が盗賊団の冷たい日常の中で見つけた、唯一の希望の光だった。


 ギンの過去は、琥珀色のエールのような穏やかさとは無縁だった。

彼女は、物心ついた時から「影の牙」の人間ではなかったのだ。彼女の記憶の始まりは、森の奥深く、獣の唸り声と、四代目お頭である父の低く響く声だけだった。


「拾った」


そう言って、父は森の中で拾ってきたギンを盗賊団の仲間に紹介した。血まみれの包帯にくるまれ捨てられた、小さな赤子。父の冷酷な目には、その小さな命はただ「将来的に使える道具」としか映っていなかったのだろう。ギンという名前も、昔、四代目が飼っていたシルバーウルフという魔物につけた名前から貰ったものだそうだ。


そんな四代目が率いる「影の牙」のアジトは、切り立った崖の上にあった。そこでは常に湿気と獣の臭いが充満し、盗賊たちの吐く粗野な言葉と暴力が日常だった。

父は、ギンが物心つくか否かの頃から、彼女に「影の牙」の血を流し込もうとした。


「泣くな、ギン。泣く暇があるなら、強くなれ。この世界で生き残るには、やられる前にやるしかないんだ」


ギンを一人前の盗賊にするための父の修行は、想像を絶するものだった。


最初に課せられたのは、滝行だった。

まだ幼児だったギンは、冬の凍てつく朝、真水の滝の下に立たされた。水圧で息もできず、皮膚が焼けるような冷たさに、何度も意識を失いかけた。


「水ごときに負けてどうする!お前は影の牙の娘だ!何事にも喰らいつく牙を持て!」


父は、滝の上から常に監視し、少しでも弱音を吐けば、容赦なく鞭を振るった。


「こんなこと、何の役に立つの!」


泣き叫ぶギンに、父は冷酷に言い放った。


「強くなる。そして歯向かう相手をねじ伏せられる。それが、お前の生きた証になるのだ」


滝行が終わると、次なる修行が待っていた。切り立った崖の上から、父と荒くれ者たちが、大きな岩をいくつも転がしてくる。ギンは、ただひたすら、その岩を躱し、時には砕かなければならない。

まだ幼いギンに大岩を砕くことなどできるはずもなく、ギンは躱すことに全神経を注ぐ。岩は彼女の体を掠め轟音を立てて谷底に落ちていく。わずかな判断の遅れが、即座に死を意味した。



過酷な環境で育ってきた幼いギンは、反射的に体が動き、岩のわずかな軌道変化を読み取っていた。彼女の引き締まった細い体つきは、この過酷な回避訓練によって鍛え上げられたものだ。


そんな修行の日々を数年続け、ギンが十二歳になった頃、父の修行は、より血生臭いものとなった。


父は、ギンを盗賊団の「格闘場」に立たせた。そこは、凶暴な魔物や、盗賊団の荒くれ者たちが、力の証明のために戦う場所だ。


「今日は初の実戦だ!」


そう言って父が指さした檻の中には、怒り狂った大きなツノを持つ巨大な熊の魔物がいた。体毛はゴツゴツとした岩のように硬く、爪は短剣のように鋭い。


「相手はオーガベアだ。今のお前ならやれるだろう。さあ、やれ!」


ギンは震えた。彼女の心は、闘争本能なんかよりも恐怖で満たされていた。

彼女は剣を握りしめながら、頭の中で考える。


(こんな巨大な魔物に、どうやって勝つというの?殺さなきゃ、私が殺される。でも血を流すのも流させるのも嫌だ……)


ギンは、剣をかまえながらオーガベアの猛攻を躱し続けた。父に教え込まれた「影の牙」の剣術は、殺傷力に特化していたが、ギンはその剣術を使わず「防御」と「回避」だけに集中したのだ。


結局、その日の勝負は、ギンがただひたすら疲れ果てるまで躱し続けることで、時間切れとなると、オーガベアは父の一撃を受け気を失い倒れた。


当然、父は激怒した。


「なぜ殺さない!お前は殺すためにそこに立っているんだ!」

「……血を見るのが、嫌なの」


震える声で答えたギンに、父は容赦なく拳骨を落とした。しかし、その時、ギンをかばうように前に出た者がいた。


「四代目!勘弁してください。お嬢はまだ子供です!」


ギンと同じ年のゴウだった。ギンとしては同じ年のゴウに「まだ子供」などと言われ「あなただって子供じゃない」と言い返してやりたい気持ちになったが、下手なことを口にして父に「まだまだ元気がありそうだな」と修行を再開されても困るので黙っておく。


ゴウは子供でありながら、その頃からすでに盗賊団の中で一目置かれる存在だった。彼は四代目の信奉者であり、その忠誠心は厚い。しかし、彼は、四代目の冷酷さとは裏腹に、ギンに対してはどこか優しさを見せていた。


「ゴウ。お前は甘い」


父はそう言い放ち、ゴウを一瞥すると、その場を去った。

修行が終わったことを理解し、その場に座りこんだギンに父の一撃を受け気絶していたはずのオーガベアが襲いかかる。


疲れ果てて動けないギンに代わり、ゴウが素早くオーガベアとの間合いを詰め手刀でオーガベアの首を斬り落とすと、オーガベアは絶命した。


「危ないとこでしたね、お嬢」


そう言って微笑むゴウの大きな手は温かかった。しかし、首を斬り落とされたオーガベアの姿はギンの心に深く冷たい影を落とした。



 過酷な修行の日々で血と泥にまみれたギンの心は、次第に閉ざされていった。彼女にとって、盗賊団での生活は、常に「死」と隣り合わせの息苦しい日々だった。


彼女は、いつもアジトの隅っこで静かに町を眺めていた。このアジトの外の世界。そこには、血の匂いがしない、穏やかな生活があるのだろうか?

ある日、修行の「休息日」が与えられた。それは滅多にない機会だ。


「たまには、町を見てこい。牙を研ぐには、見聞を広げることも必要だ」


父の許しを得て、ギンは、ボロボロの服を隠すようにマントを羽織り、生まれて初めて一人で町へと降り立った。


町は、盗賊団の本拠地とは比べ物にならないほど、明るく、活気に満ちていた。

人々は笑い、歌い、そして……おいしそうな匂いがした。


ギンは、匂いの元を辿った。そこにあったのは、石造りの小さな店。

店の看板には、『焼きたてパンとハーブティーの店 【まどろみベーカリー】 』と書かれていた。


店の前には、焼きたてのパンが並べられており、その温かい香りが、ギンの冷え切った心を、まるで包み込むようだった。

ギンは、恐る恐る店の中に入る。

そこは、優しそうな老夫婦が経営している小さな店だった。ショーケースの中には、色々な種類のパンが並んでいたが、ひときわ目を引いたのは、「焼きたてチーズパン」だった。


こんがりと焼けた表面には、塩気のあるチーズが溶け、香ばしい匂いを放っていた。


「いらっしゃい。おや、お嬢ちゃん。何かお探しかな?」


老婦人が優しく声をかけてきた。


ギンは、持っていたわずかな銅貨を握りしめ、どもりながら言った。


「あの……。これ、ください」


彼女が指さしたのは、焼きたてのチーズパンだった。

銅貨を渡し、パンを受け取った。まだ温かい。

ギンは、町の片隅のベンチに座り、そのパンを一口齧った。


「……っ!」


サクッ。外は香ばしく。

フワッ。中は柔らかい。

そして、ジュワッ。口の中に広がるチーズの塩気と、小麦の甘さ。


それは、彼女がこれまでの人生で味わったことのない、「温もり」の味だった。

血生臭い修行の日々、父の冷酷さ、野蛮な盗賊団。すべてを忘れさせてくれるような、優しい味だった。


ギンは、パンを一つ食べ終わると、そっと目を閉じた。


(……私、こんなものが作りたい)


その瞬間、ギンの心に、一つの夢が生まれた。


「血の匂いのしない、温かいパン屋になりたい」


それは、彼女にとって盗賊団の血と暴力から逃れ、人間として生きる唯一の逃げ道のようにも思えた。


 パン屋の夢を抱いてからも、もちろんギンの辛い修行は続いた。しかし、彼女は考え方を変えた。


彼女は、父の求める「冷酷な牙」になることを拒否し、「平和なパン屋」になるための力を、密かに養い始めたのだ。


父が教える殺傷のための剣術は、パン屋を守る「防御術」として。

崖からの回避術は、生地をこねるための「体幹」として。

オーガベアとの格闘(避けて躱して逃げ回る)は、重い小麦粉の袋を運ぶための「体力作り」として考え、彼女は、すべての修行を、「パン屋になるための試練」として捉え直した。



   ───そして、現在。



 居酒屋の片隅で、ギンは琥珀色のエールを飲み干した。号外は、テーブルの上に広げられている。


「義賊……」


ギンは、もう一度その言葉を呟いた。


「世間は私に『義賊』を求めている。でも、私は、ただの盗賊……。強いて言うならパン屋になりたい盗賊なのに」


ゴウは、ギンの苦悩を理解していた。だからこそ、彼は四代目のやり方を貫こうとした。それが、荒くれ者の盗賊団の中で、ギンが生き残る唯一の方法だと信じていたからだ。


しかし、今回の「ねばねばトラップ作戦」。

血を流すことなく、(不本意ながら)悪を打ち砕き、(これまた不本意ながら)市民に感謝される。


これは、父の冷酷非道なやり方では、決して成し得なかった結果だった。


「お嬢」


ゴウが、真剣な眼差しでギンを見つめた。


「次の仕事が舞い込んできましたぜ。今度は、北の山脈を越える商人の護衛団を襲え、と」


ゴウは、四代目の教え通り、その商人を皆殺しにして、全てを奪う計画を立てていた。


「どうしますか。今回も、血を流さず、義賊として……?」


ギンは、テーブルから身を起こした。彼女の目は、優しげだが、その奥には、これまで修行で培ってきた「影の牙」の鋭い光が宿っていた。


「ええ、もちろんよ。ゴウ」


ギンは、薫製チーズを一口食べ、エールで流し込んだ。


「今度の作戦は、誰も傷つけず、さらに平和な、とびきりスマートな強奪を計画するわ。だって……」

「だって?」

「だって、汚れた手で作ったパンなんて誰も食べたいと思わないもの」


そう言って席を立った彼女の心の中には、血の匂いの代わりに、焼きたてチーズパンの温かい香りが満ちていた。

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