第10話 「全員の敗北」 Scene 1 静かな始動 ― クラウディアが動く
夜明け前の王都は、まだ音を持たない。
遠くで鐘楼の影だけが薄く伸び、空気は夜と朝の境目で静止していた。
クラウディアはすでに起きていた。
化粧はしていない。
髪もまとめていない。
社交の場に立つための彼女ではなく、ただの一人の人間として、机に向かっている。
書斎の灯りは低く、揺れない。
照らされているのは、積み重ねられた紙の束だった。
どれも新しいものではない。
過去の決裁文書。
一度は読まれ、理解され、そして棚に戻された記録。
封を切られていない「整理案」。
署名欄だけが、奇妙な空白を保っている。
彼女は一枚ずつ、指先で紙を揃えていく。
日付の前後。
文言の齟齬。
同じ事実を別の言葉で書いた痕跡。
赤い線も引かない。
訂正印も押さない。
ただ、不要な重複を外し、順序を正し、矛盾が生まれない配置に戻す。
それだけだ。
新しい事実は、どこにもない。
暴くべき秘密も、ここにはない。
すでに誰もが知っていたこと。
だが、誰も一つに並べなかったこと。
それを、彼女は並べている。
(これは攻撃ではない)
ペンを持つ手は、迷わない。
(清算でもない)
署名欄の前で、呼吸を整える。
(ただの整理)
彼女は自分が、何かを壊そうとしていないことを知っていた。
同時に、これが終わりであることも。
剣を抜く必要はない。
声を上げる必要もない。
帳簿を閉じるだけでいい。
クラウディアは署名をした。
その文字は小さく、端正で、感情を含まない。
外では、王都が目を覚まし始めている。
人々はまだ、この日が特別な日になることを知らない。
だがこの瞬間、
いくつかの名前は、もう未来に進めなくなっていた。




