Scene 6 補佐官ヘルマン ― 視線だけの移動
補佐官ヘルマンは、晩餐会の席で一言も発しなかった。
杯を持ち上げることも、隣席と談笑することもない。ただ、そこに座り、場の流れを眺めている。
彼の前の皿は、ほとんど手つかずだった。
彼が見ているのは、料理でも人の顔でもない。
――動きだ。
若手貴族フィリップが、笑顔のまま席を立つ。その所作は自然で、誰の注意も引かない。だが、懐に触れた一瞬、ほんのわずかな引きつりがあった。
ヘルマンの視線が、そこに留まる。
フィリップは一度、周囲を見回した。王子は別の卓で笑っている。教会関係者はリリアを囲み、賛美の言葉を並べている。
安全だ、と彼は判断したのだろう。
――そして、懐の中の紙束を、より深く押し込んだ。
それだけだった。
渡さない。捨てない。
ただ、戻した。
その瞬間を、ヘルマンは見逃さなかった。
同時に、別の視線の存在も確認する。
端の席。影に近い場所。
クラウディアだ。
彼女はフィリップを見ていた。
正確には、フィリップの手の動き、その「ためらい」を。
視線が一瞬だけ、ヘルマンと交わる。
会釈も、合図もない。
だが、理解は成立していた。
――ああ、とヘルマンは思う。
記録は、もう書き換えられた。
証拠の内容ではない。
真偽でもない。
所在だ。
誰が持っているか。
誰が、それを見ていたか。
そして、誰が黙っていたか。
それだけで十分だった。
ヘルマンは視線を戻し、再び静止する。
この場で、これ以上することはない。
内心に浮かぶのは、感情ではなく、確認事項だけだ。
――記録は、すでに動いた。
晩餐会は、なおも穏やかに続いていた。
笑い声と音楽に包まれ、誰もが平和を信じている。
だがその裏で、
証拠は移動せず、
責任だけが、次の位置を決められていた。




