Scene 3 王子の白紙命令 ― 最も危うい善意
王子の言葉を、私は何度も思い返していた。
記録に残るものは、何一つない。
書面もない。
署名もない。
命令書など、最初から存在しなかった。
それでも――
剣は動いた。
騎士たちは動き、
私の周囲は制限され、
名のない「配慮」が、私の行動を縛った。
誰の責任かと問えば、
誰の名前も出てこない。
殿下は、ただ“心配した”だけ。
騎士は、“察した”だけ。
周囲は、“空気を読んだ”だけ。
そして結果だけが、残る。
王子は、自分を無垢だと信じている。
誰かを傷つける意図はなかった。
血は流れていない。
混乱も起きていない。
だから彼の中では、
すべてが正しく終わっている。
責任は、常に他者に落ちる構造だ。
彼は命じていない。
だから、撤回するものもない。
剣を抜いたのは自分ではない、
そう信じていられる位置に、彼は立っている。
強大だが、単純。
感情で動き、
結果だけを見る。
私は一つの選択肢を思い浮かべ、
そして静かに却下した。
――直接、訴える。
理屈を並べ、
誤解を解き、
善意の行き先が間違っていると説明する。
王子は、納得するだろう。
それは疑っていない。
だが――
撤回はしない。
彼の正義は、すでに完了している。
彼にとってこの件は、
「守った」という結果で閉じられた物語だ。
今さら書き換えれば、
自分が誰かを傷つけたことを
認めなければならなくなる。
それを、彼は選ばない。
私は目を閉じた。
王子は敵ではない。
だが、最も危うい。
剣を持たず、
命令も出さず、
それでも人を切る。
白紙のまま振るわれる正義ほど、
厄介なものはない。
だから私は、まだ動かない。
この善意は、
自分で自分を裏切るまで、
止まらない。




