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冒頭

西暦2350年。


人類は、不安からほぼ完全に解放されていた。

食事も、住まいも、移動も、すべてが自動で与えられ、エネルギーは使っても減らない。

誰もが必要なものを持ち、誰もが不満を言わない。

空はいつも晴れていて、乗り物は宙に浮き、町には笑顔が満ちている。

それが、いまの世界だった。

全ての人に、最低限の暮らしが保障されている。

服も、住まいも、教育も、医療も、エネルギーも、無料。

働かなくても、死ぬことはない。

けれど、人々は働いている。


なぜか?

「好きなことをしたいから」だ。


レアなガジェットを集めたい人。

昔の映画を再現したい人。

空に浮かぶ別荘に住みたい人。

音楽を自作して宇宙に配信したい人。


そんなちょっとした欲を叶えるために、人々は楽しそうに仕事をしている。

稼ぐ理由は、競争じゃない。

ただのワクワク。

それだけが、この時代のお金の役割だった。

人々は基本的に、明るくて、優しくて、ポジティブだ。

怒ったり、落ち込んだり、大声で泣いたりする人は、ほとんどいない。

みんなフラットで、笑顔で、ちょっとテンション高め。

「うれしい」か「たのしい」か「まあまあかな」のどれかしかないような世界。


でも、それは不自然ではない。

それがこの時代では“普通”なのだ。


ノイ・マコトは、そんな未来に生きる19歳の男子だった。

彼もまた、明るくて、優しくて、ポジティブ――に見える。

けれど、たまに変な感覚がある。

涙の感触。

何かを強く願う感情。

目を閉じた時、たまにその感覚。

それだけが残っている。


彼は「観測官」と呼ばれる仕事をしていた。

昔の時代を見ることができる人間。

リングと脳波を使って、過去の世界に意識を接続する。

彼はそこに、説明できない何かを感じていた。

それが何なのかは、まだわからなかった。


核融合エネルギーの誕生と世界の変化。

けれど、ここに来るまで人類は、ずっと不安定だった。地球のあちこちで争いがあり、環境は破壊され、エネルギーは「限りあるもの」として奪い合われていた。


2030年代。

世界中の国々は、気候変動と資源問題に追い詰められていた。

エネルギーが足りない。

水が足りない。

土地が足りない。

人の心にも余裕がなくなっていった。


だが、その流れを変えたのが、核融合エネルギーだった。


きっかけは、2036年。

日本のとある大学と国際チームが共同で行った実験で、安定した核融合炉の常温制御が、偶然に近い形で成功した。


最初は誰も信じなかった。

けれど、それが本物だと証明されたとき、世界の勢力地図が、一気に塗り替えられた。

エネルギーを「作る」ことができる。

しかも、太陽のように尽きることなく。

二酸化炭素も出さずに、汚染もなく。

この技術は、全人類の未来を変えた。

それは、もはや発明ではなく、転生だった。


やがて核融合技術は、全世界に広まり、共有されるようになった。

そこには、強制的な共有の契約があった。

どの国も、どの組織も、これを独占してはいけない――

そんなルールが、奇跡的に機能したのだ。


なぜか?


多くの人が、もう疲れていた。

限りあるものを奪い合うのに。

戦争も、競争も、勝ち負けのゲームも。

それよりも、みんなで余裕を分け合うほうがいい。

そう思えるようになった時代だったのかもしれない。


そして、エネルギーは無償になった。

空を飛ぶ車も、空調も、巨大なAI施設も、個人の移動体も、すべてに供給されている。

働かなくても、エネルギーは来る。

水も出る。

住まいも壊れない。

こうして、世界は平和になった。


無理やりでも、理屈でもなく、ただ自然に。

明るくて、便利で、フラットで、そこそこ楽しくて。

何も起きない、何も足りないこともない、そんな日々が続いている。


でも、ノイは思うことがある。

「本当に、何も足りてないことはないのだろうか?」


それが何なのかは、まだ言葉にはならない。

けれど、彼の中には、なにかが、うずいていた。


エネルギーが満たされた世界で、人類は次に「老い」と「死」を手放そうとした。

もともと、エモリー化技術の原点は医療だった。

神経障害や記憶障害、意識の損傷――

これらを救うために、意識を外に逃がすという考えが生まれたのだ。

そこから始まった国家主導の大型研究プロジェクト。


その名は、EMORYプロジェクト。

Electro-Mind Output & Recording Yield――


意識を外部に出力し、記録・管理・再生するための試み。

やがて人類は、「継がせる意識」によって生きる術を手にした。


エモリー化の第一歩は、脳波出力装置の埋め込み手術である。

これは出生直後に行われ、ほとんどの子どもが頭部に小型チップを埋め込まれて育つ。

この装置は意識の情報を微弱な電波に変換し、リングと呼ばれる外部装置と常に通信している。

リングは、社会インフラへのアクセスを司る装置だ。

教育、医療、交通、住居、ネットワーク、そして個人認証――

すべてがリングを通して管理されている。

つまりリングは、「未来社会に参加するための鍵」だ。


ただし、このチップを埋め込まれていない人々もいる。

ナチュラルヒューマン。


彼らは、継身はもちろん出来ない、社会インフラとも繋がらず、「過去の人間」に近い在り方で生きている。

一部には、あえてそれを選ぶ人もいる。


やがて、一定の年齢に達し条件を満たすと、個人はエモリー化を選択できる。

意識は人工の身体、エモリーボディへと移行され、その瞬間をセカンドウェイクと呼ぶ。

以降の1ヶ月間は、チュートリアル期間として扱われ、オリジナルの意識とエモリーボディの完全同期が行われる。

この間、脳波のやり取りは逐次バックアップされ、1ヶ月を過ぎると、オリジナルの意識は切り離され、チュートリアル期間の記録データだけで人格が再構成される。ここからが継身の完成である。


ただし、ひとつ問題があった。

継身した意識は、成長しない。

つまり、それ以降の心の変化は生まれない。


継身後に起こる感情の揺れや葛藤、未熟な反応は、デフォルト安定データによってシステム的に上書きされる。

これにより、外から見ると人格は常に整っており、精神的にも品格ある大人として振る舞える。

だがそれは、内側の変化や気づきによって得た成熟ではない。

継身した意識は変わらないままで、ただ整えられていくのだ。

エモリーボディは睡眠も食事も、基本的には不要とされている。

ただ、完全な無消費ではない。

その高度な処理と感覚の維持には、実際にはかなりのエネルギーを消費する。

それを可能にしているのが、ボディ内部に埋め込まれた、超小型の核融合バッテリーである。

この装置が常に安定した出力を保ち、継身者は人間以上の身体機能を維持できる。

エモリーボディにはリングの機能が完全に内蔵されているため、継身するとリングは不要となる。

リングを着けているかどうかが、その人がまだオリジナルであるかのサインになっている。


ノイ・マコトは、まだリングを着けていた。

彼は、オリジナルボディのまま、観測官として過去の人間たちを見つめていた。

なぜ継身しないのか。

その理由を、彼自身まだ言葉にできていない。

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