【第9話】人前
そうして割り当てられていたロッカーに背負ってきたリュックサックを詰め込むと、ボクは控え室に戻っていき、粂田さんに「着替え終わりました」と声をかけていた。すると、粂田さんは「うん。じゃあ、そこに座って待ってて」と言っていて、ボクも昨日面接をしたときと同じ席に座る。
そして、ボクと向かい合って座った粂田さんの手には、一枚のクリアファイルが握られていた。その中には何枚かの書類が入っている。
「じゃあ、グエンくん。改めて、ここで店長をやらせてもらっている粂田です。今日からよろしくお願いね」
「は、はい。よろしくお願いします」
「うん。じゃあ、まずはグエンくんには雇用契約書を書いてもらうよ。これなんだけど、ちゃんと全文を読んでから、最後のページに今日の日付と自分の名前を記入してね」
そう言ってから、粂田さんは手に持っているクリアファイルごと、その書類をボクに渡してきた。ボクが受け取ると、一番上にはひときわ目立つ大きさで「雇用契約書」と書かれている。
きっと日本人のアルバイトに渡しているものと同じなのだろう。漢字も多くふりがなも振られていないそれは、ボクにとっては読むのも一苦労で、正直まだ読めないような漢字もいくつかあったものの、それでも大まかにだが内容は把握できる。
アルバイトをする上で守らなければならない事項や約束事など。その全てにボクは目を通そうとする。時給も一一八〇円と悪くはない。
だから、ボクも一言一句全てを読むことができたわけではないけれど、それでも書類の最終ページにある署名欄に今日の日付と自分の名前を書くことに、ためらいはなかった。ハンコを押す欄もあって、「押さなくても大丈夫ですか?」と訊くと、粂田さんも「うん、大丈夫だよ」と答えてくれて、それは自分のハンコを持っていないボクにはありがたかった。
「うん、ありがと。じゃあ、次はウチの店舗のルールや各業務のマニュアルを書いた書類を渡すから。これから俺も説明するけど、一度じゃ覚えきれないと思うから、また休憩時間にでも確認しておいてね」
「はい!」と頷いてから、ボクは粂田さんから書類を受け取る。それは二〇ページほどもあって、確かに一度で全てを覚えるのは難しそうだ。
そして、ボクは一ページ目から粂田さんのもと説明を受ける。休憩時間の取り方や廃棄される商品は持ち帰ってはいけないといったルールを、一つずつ教えられる。当然そうだろうと思えるようなものの一方で、そうだったのかと初めて知るようなものもあって、これらすべてのルールを守らなければならないと思うと、ボクは改めて気が引き締まるようだ。
レジや品出し、店内外の清掃などといった一通りの業務の仕方も教えてもらうと、机上での研修の後半はコンプライアンスについて割かれていた。
衛生のために休憩から戻るときなどは手洗いを徹底し、個人情報保護のために店内は撮影禁止であることなどを知らされる。それは言われてみればそうだとボクにも納得できるもので、気をつけなければという意識もより高まっていく。重大なコンプライアンス違反があれば、解雇の対象にもなり得るようだった。
一通りルールやマニュアルについての研修を終えたときには、早くも一時間が経って、時刻は午後の六時を過ぎていた。「じゃあ次は、実際に店頭に出てレジのやり方を教えるから」と粂田さんに言われ、いよいよ本格的に仕事が始まることに、ボクはさらなる緊張を覚える。
そして、粂田さんに続いてボクが店頭に出ると、レジには粂田さんよりは少し若く見える男性店員が立っていた。ボクはひとまず「今日からアルバイトに入ることになりました、グエンです」と挨拶をするも、その男性、胸ポケットの名札から名前が「堺谷」であることが分かる、はボクに軽く一瞥を向けただけで、挨拶を返すことはなかった。
あまり他人に関心がないのかもしれないが、それでもその態度は仮にもこれから一緒に働く同僚に対してどうなんだろうとは、ボクはつい思ってしまう。
でも、堺谷さんはお客さんがやってきたときには、そつなく接客をしてレジを打っていた。人見知りではなさそうなことに、ボクは少しモヤモヤしたけれど、それでも粂田さんに言われて、もう一つの空いているレジで、ボクはレジのやり方を教わる。
まずレジ画面の見方や基本的なボタン操作を教わり、バーコードリーダーの使い方も知ったボクは、何回か粂田さんが持ってきた商品で、レジの操作を勉強した。
ホットスナックに代表される商品の値段や、現金やクレジットカード、さらには多種多様な電子マネーでの決済方法など、レジ一つとっても覚えなければならないことは想像以上に多くて、一度に大量の情報を教えられてボクの頭は少しこんがらがるようでさえあった。何とかメモも取りながら、粂田さんに教えられたことを整理しようと試みる。
それでも、店内にお客さんは思っていたほど多くなくて、レジにも行列はできてはいなかった。
「じゃあ、レジの操作方法の説明は、大体これくらいかな」
粂田さんがそう言って、ボクが一瞬でも胸をなでおろしたのは、ボクたちが店頭に出始めてから三〇分以上経ってからだった。でも、それはようやくスタートラインに立ったにすぎなくて、ボクは一息つけたかと思うとすぐに「じゃあ、いよいよ実際にお客様への接客をやってみようか」と言われてしまう。
ボクとしても「は、はい」と頷く他はなく、実際にお客さんを相手にすると思うと、緊張で心臓が縮み上がっていくようだ。
粂田さんはちょうどレジが空いたタイミングで堺谷さんに声をかけていて、ボクはまず堺谷さんの補助のもと、レジ業務を行うことになった。「まずは堺谷くんの接客の仕方を見て学んで、それで少ししたら実際にレジを打ってみてね」とボクたちに言い残して、粂田さんはバックヤードに戻っていく。
店内には他にも品出しをしている女性店員の入江さんがいたけれど、二人でレジに取り残されて、ボクは気まずさを感じずにはいられない。
改めて「よ、よろしくお願いします」と声をかけるも、それでも堺谷さんの反応はそっけない。それはまるでボクと一緒に仕事をするのを面倒くさがっているようでもあって、ボクは本格的に仕事を始める前から気が引けてしまっていた。
それでも、ボクはまずは邪魔にならない程度に堺谷さんの側について、堺谷さんの仕事を確認する。商品の読み込み方やレジの操作といった基本的な方法はもちろん、チケットの発券の仕方やホットスナックの取り扱い方、年齢確認の仕方や多種多様な決済方法まで、ボクは粂田さんに一通り教えられたことを、改めて頭に染み込ませるように試みる。
堺谷さんの接客やレジの操作はとても澱みなく行われていて、どれくらいかは分からないけれど、長い間ここで働いているようだ。接客するときの表情も穏やかで、お客さんに不快感を与えている様子は見られず、それはボクにも大いに参考になった。
「お前さ、グエンっていったっけ?」
堺谷さんが初めて自分から声をかけてきたのは、ボクたちがレジに二人になって十数分が経って、店内の時計が夜の七時を指したときだった。入江さんが隣のレジに入って、少し余裕ができたと考えたのだろう。
ボクは「は、はい」と恐縮しながら返事をする。顔を合わせて間もない人に、いきなり「お前」呼ばわりされたことへの不満も、感じている余裕はなかった。
「一回さ、自分でもレジやってみろよ」
「は、はい。分かりました」と返事をして、ボクは堺谷さんと入れ替わるように、レジの前に立った。
初めてレジから店内を見渡すと、陳列されている商品の一つ一つが鮮明に目に入ってくる。堺谷さんが側で見てくれているのは心強いが、その反面プレッシャーも感じて、息を呑まずにはいられない。
レジを見ながら操作方法を頭の中で思い起こしていると、最初のお客さんはボクがレジに立ってから、一分もしないうちにやってきた。ボクは精いっぱいの笑顔を作って、「いらっしゃいませ」と挨拶をしたが、それでもその男性のお客さんの表情は少しも変わらず、笑顔が表面を滑り落ちていったような虚しさをボクは感じてしまう。
そのお客さんがレジに置いたのは、ハンバーグ弁当と三五〇ミリリットルの缶ビールだった。ボクは緊張で震えそうな手をどうにか動かし、バーコードリーダーで商品を読み込む。レジを操作し、画面に表示させた年齢確認をお客さんに承認してもらう。
そして、努めて落ち着いて「お会計、九一一円になります」と告げた。
そのお客さんは、まずこのコンビニエンスストアで使えるポイントカードを提示してきて、それだけでボクの頭は軽くこんがらがりそうになってしまう。それでも一つずつ手順を思い出しながら端末を操作し、千円札を預かり、お釣りを渡す。
どうにか全ての工程を終えて、ボクが「ありがとうございました」と言ったとき、そのお客さんは少し物珍しそうな目を、ボクに向けてきた。それはたぶん、ボクが外国人だからだろう。
それでも、ボクはたとえ束の間でも、その目に射抜かれるような感覚を抱いてしまう。
会計が済んだ商品を持ってそのお客さんが店を後にしていって、ボクはようやく一息つくことができた。まだたった一人だというのに、早くも一仕事を終えたような気分だ。
そして、ボクは堺谷さんがどう思ったのか気になって、思わず振り向く。だけれど、堺谷さんは「何こっち見てんだよ。前向け、前」と相変わらずつれなかった。
(続く)




