【第5話】空疎
モノレールに乗って再びターミナル駅で降りたボクたちは、今日の参加者全員で、打ち上げが行われる居酒屋チェーンへと向かった。そこは駅から歩いて一〇分ほど離れていて、暖かかった昼間とは違い、歩きながらボクは少し肌寒さを感じてしまう。他の人たちは歩きながらでも話していたけれど、ボクはそこにも混ざれない。
そうして、到着した居酒屋チェーンは三階建てのビルの地下にあった。階段を下っていったボクたちは店内に入ると、一番奥の畳が敷かれている席に通される。居酒屋にも日本に来てから初めて入るボクは、どのテーブルでも座っている人たちが賑やかに話していることにも、少し面食らってしまう。
それでも、座敷席というらしい席のやや端の方に腰を下ろすと、隣に座る木更津さんが、「グエンくん、ビール飲む?」と訊いてきた。
ボクはベトナムでもお酒は呑んだことはなかったし、そもそも日本ではお酒を呑めるのは二〇歳からのはずだ。
それでも、「いいんですか……?」と尋ねたボクに、木更津さんは「いいのいいの。みんなやってることだから」と返事をしていた。「みんなやってる」ことは、ボクも同じようにする理由にはならないと思ったけれど、気がつけば周りの新入生たちもみんなビールを頼んでいる。この状況で一人だけ「遠慮します」とは言えるはずもなく、ボクは「じゃ、じゃあ、お願いします」と言ってしまう。
やってきた店員に加賀さんが人数分のビールを頼んでいて、了承した店員が去っていくと、ボクはもう後には退けないことを思い知らされた。
店員が何回かに分けて中くらいのジョッキを持ってきて、ボクたち全員の手にビールが行き渡る。ただ持っているだけなのに、冷たさがひしひしと伝わってくる。
そして、加賀さんが「では、今日はお疲れ様でした! 乾杯!」と音頭を取ると、ボクたちは近くの相手とそれぞれジョッキを突き合わせた。小気味いい音が、浮かんでは消えていく。
そして、ボクは思い切ってビールを一口呑んだ。それは炭酸飲料が嫌いでないボクにも想像していた以上の刺激があり、思わず顔をしかめてしまいそうになるほど苦い。頑張って吞み込んでも、何か良からぬものを身体に入れている気になる。初めて呑んだビールの味は、正直美味しいとは言えなかった。
それでも、加賀さんや木更津さんは美味しそうに呑んでいて、こういった打ち上げの場にも慣れているようだった。
「ねぇ、グエンくんはベトナムからやってきたんだよね?」
それまで別の学生と話していた木更津さんがボクに話しかけてきたのは、打ち上げが始まって三〇分ほどが経った頃だった。もしかしたら誰ともあまり話せずに、枝豆やフライドポテトをちびちび食べていたボクを不憫に思ったのかもしれない。テーブルを挟んで正面に座っている町屋さんも、関心を持っているかのようにボクを見ている。
でも、ボクは「は、はい、そうですね」としか答えられなかった。まだビールはジョッキ半分ほどしか呑んでいないのに、頭には既にアルコールが回り始めている。
「じゃあさ、ベトナムの中でもどの辺の出身なの?」
「あ、あの、ロンアンってとこなんですけど、知ってますか?」
おそるおそるというように言ったボクにも、木更津さんは「ごめん、今初めて聞いた」と正直だ。町屋さんも小さく首を横に振っている。
そりゃ外国にも知られているようなメジャーな街ではないから予想できた反応ではあったけれど、ボクの出身地をここでは誰も知らないような思いがして、ボクはひそかに傷つく。
「ねぇ、そのロンアンって、ベトナムのどの辺りにあるの?」
「南の方で、ホーチミンの隣の街ですね」
「ああ、ホーチミンならちょっと聞いたことがあるかも。有名な観光スポットなんでしょ?」
「は、はい。それはまあ」
「なぁ、そのロンアンって場所は何が名物なんだよ? 何か有名な物でもあるのか?」
ふと言葉を挟んできた町屋さんに、ボクは少しびくっとしてしまう。確かに名物はいくつかあるけれど、何を答えたら伝わるのか、ボクは少し考えてしまう。
だけれど、その間にも木更津さんはすかさず、「いや、やっぱりベトナムって言ったら、フォーとか生春巻きでしょ。そうだよね、グエンくん?」と尋ねてきていて、ボクはますます返事に困ってしまう。
「そ、そうですね。生春巻きはボクもよく食べてました」
「だよね! 私も昔ベトナム料理店で食べたことあるけど、美味しいよね! なんかエキゾチックな味がしてさ」
「そうですか。ありがとうございます」
「じゃあさ、フォーはどうなんだよ? グエンもベトナムにいた頃はよく食ってたんだろ?」
何気なく訊いてくる町屋さんにも、ボクは「は、はい。そうですね」としか答えられない。
本当はフォーはベトナムでもハノイをはじめとした北部でよく食べられている料理で、南部に住んでいたボクたちは、どちらかといえばフーティウの方をよく食べていた。原料はフォーと同じ米粉だが、フーティウの方が弾力やコシがある。
だけれど、ボクはそれを町屋さんたちに伝えることはしなかった。それはボクが、それだけの説明ができるほどの日本語をまだ身に着けていないからでもあったけれど、それ以上にせっかくボクに歩み寄ろうとしてくれている町屋さんたちを否定してはいけないと思ったからだ。こんな重箱の隅を突くようなことを言って、細かい奴だと思われたら後々面倒なことになる。
町屋さんたちも「だよな。やっぱベトナムと言えばフォーだよな」と言っていて、間違った答えを返したわけではないと分かっても、それでも実際のところは少し違うのにと、ボクはきまりの悪い思いも抱いてしまっていた。
「それで訊きたいんだけど、グエンくんはどうして日本に留学してきたの?」
それからも少し今日の感想や大学の話をした後に、木更津さんがおもむろに訊いてくる。気になるのも当然といったような質問に、ボクも「それはですね……」と答えようとする。
だけれど、ボクが答えようとしたタイミングで、町屋さんが「ちょっと待って。当てるから」と言葉を被せてきた。雰囲気はクイズのようになっていたけれど、それでも軽く前のめりになっている二人を見ると、無視して答えるわけにはいかない。
「分かった。アレだ。グエン、日本の漫画やアニメが好きで日本にやってきたんだろ」
我が意を得たかのように言っている町屋さんに、ボクは目を丸くしてしまいそうになる。
町屋さんが言ったことは、そのままボクが日本を留学先に選んだ大きな理由の一つだった。というか日本に親近感を抱いたきっかけは、間違いなく漫画やアニメだ。
町屋さんが「どうだ? グエン。合ってるか?」と訊いてくる。でも、ボクが「はい、その通りです」と返事をするよりも、木更津さんが口を開く方が早かった。
「ちょっと、町屋くん。そんなベタな理由なわけないでしょ。それはいくらなんでもありがちすぎるよ」
そう木更津さんが言うと、ボクの「はい、その通りです」という返事は、途端に封じられた。
そりゃ日本に興味を持ったきっかけが漫画やアニメである人は、ボクの他にも多いとは分かっていたけれど、でも「ありがち」という言葉で掃いて捨てられるのは、さすがに少し堪えるものがある。木更津さんに間接的にでも「ありがち」と言われて、恥ずかしくさえなってくるようだ。こんな状況では、本当のことを言えるはずはない。
木更津さんが「で、グエンくん。本当のところはどうなの?」と尋ねてくる。それは、漫画やアニメの影響を最初から考えていないようで、遠回しにでも自分の好きなものを否定されたことに、ボクは内心で落胆してしまう。
だからこそ、二人にそれを悟られないようにボクは短い間に頭を回して、嘘の理由を作り出す。
「あ、あの、実はボクのおばあちゃんは、もともと日本に住んでいたんです」
「そうなんだ。じゃあ、グエンくんのおばあちゃんは日本人なの?」
「い、いえ、ベトナム人です。でも、日本に住んでいた期間も長くて。ボクはおばあちゃんから日本の話をたくさん聞きました」
「なるほどな。それがグエンが留学先に日本を選んだ理由ってわけか」
二人は納得したように頷いている。でも、ボクはこれでよかったのだと思う一方で、二人に嘘をついたことに罪悪感も抱いていた。
本当はおばあちゃんをはじめとして、ボクの家族は誰一人、旅行でさえ日本に行ったことがない。もともと外国に興味がある家族ではないのだ。
だから、話のなりゆきとはいえ、二人に嘘をついたことをボクは申し訳なく思う。でも、二人は腑に落ちたのかそれ以上はボクのことは訊いてこず、話題は海外のサッカーのことに移っていた。ボクも少しは知っているが、二人の口からはボクが知らない選手の名前が次々と出てきて、ついていくことができない。
ただ相槌を打つように頷くことしかできず、ボクは自分がここにいる理由はなんだろうとも思うようになっていた。
(続く)




