【第47話】外食
朝礼を終えた俺たちがコンセッションに出ると、時刻はすぐに今日の開館時間である七時半を迎えた。すると、その瞬間から、何十人もの観客が館内に入ってくる。最初の回の上映は八時からだったから、そんなに早く観たいのかと俺は正直思ったけれど、それでもその人たちは館内やコンセッションが混むことも見越して、早めに来ているのかもしれない。
そして、その人たちの予測は今日も当たっていて、開館してから一〇分もしないうちに、コンセッションには二重に折りたたまれるほどの列ができていた。
だから、俺たちも仕事が始まってすぐ、忙しなく動かざるを得ない。ポップコーンを掬って、ドリンクを注ぎ、観客に提供していく。
でも、いくら俺たちが止まらずに動いていても、列は短くなるどころか長くなる一方だ。もともとこの映画館は、上映開始時刻が集中する朝の時間帯が一番混む。でも、それを差し引いても今日の混雑具合もまた尋常ではなく、俺は一昨日から公開されている映画の大人気ぶりを実感する。
それでも、忙しく働いているとそれ以外のことを俺は考えずに済み、それは時折様子を窺っていても、グエンもまた同様のようだった。
それでも、この日は昨日以上の人数がシフトに入っていたから、忙しい中でも休憩の時間は徐々に回ってくる。
そして、一〇時頃になると俺もグエンと一緒に休憩に入っていいと、休憩から戻ってきた先輩に言われる。だから、俺たちもその言葉に甘えて一緒にコンセッションを離れて、映画館のバックヤードにある休憩室へと向かった。
机と椅子がそれぞれ数脚ずつ置かれ、コーヒーなんかの自動販売機も設置されている休憩室に、俺たちは隣り合って腰を下ろす。
そして、俺はまず深く息を吐いた。二時間半以上も立ちっぱなしで働いていると、いくら一八歳の俺でも堪える部分はある。
グエンも同じように呼吸を落ち着かせ、少しでも疲れを取ろうとしている。それでも、その目はやはり下に向いていて、休憩に入ったことであの気がかりなことが再び頭に浮上してきたのだと、俺は感じてしまう。
スマートフォンも見ずに視線を落としてしまっているグエンは、俺にも話しかけてきそうな様子はない。だから会話をするとしたら、俺から話しかけるしかなかった。
「いやー、今日も映画館、凄い人来てるよなぁ」
「う、うん。そうだね……」
そう言うグエンの返事は、どこか歯切れが悪かった。だから、俺はやはりあのこと、具体的には今日の選挙のことを考えているのだと感じざるを得ない。
だけれど、それでも俺はいつも通りに振る舞おうと決めたから、深刻なほどにグエンを心配するようなことはしなかった。
「やっぱり、鬼滅って今もまだ人気続いてるんだな。原作が終わったのも大分前で、『無限列車編』が公開されたのも、確か五年くらい前なのに。本当凄いよな」
「そ、そうだね……」
「いやさ、俺も観たい気持ちはあるんだけど、でもやっぱりこんなに混むんなら、もうちょっと落ち着いてからでもいいかなって思えるよ」
「そ、そうだね……。僕もそう思うよ……」
グエンがなかなか話に乗ってくれなくて、俺たちの会話はあまり弾まなかった。
だけれど、俺はそれをグエンのせいにはしたくない。今、グエンは選挙の結果に怯えて、気が気でない状態なのだろう。ここまで働きっぱなしでいる疲れもあるだろうし、これで会話を盛り上げろという方が難しいだろう。
俺もグエンの負担にならないように、どうでもいいような話は早々に終わりにして、本題に入ることにした。
「ところでさ、グエン。お前、今日のバイトが終わった後とか、夜とか何か予定あったりするのか?」
「い、いや、別にないけど……」
「そっか。じゃあ、よかったらさ、今日の夜また一緒に飯食おうぜ」
俺がそう提案すると、グエンは顔を上げて俺の方を向いてきた。その表情が、どことなく驚いているように感じられる。俺たちが一緒に食事をするのは、もう珍しくもなんともないというのに。
「う、うん。別にいいけど……」
「そっか。じゃあ、決まりだな。あっ、よかったらトゥーも呼ぼうぜ。それでまた三人でさ、前行ったベトナム料理の店行こう」
「えっ、トゥーも……?」
「そうだよ。二人で食うより三人で食った方が、余計楽しいじゃんか」
「た、確かにそれはそうかもしれないけど……」
「だろ? じゃあ、俺の方からトゥーにも連絡してみるわ。トゥーも来てくれるといいよな」
「う、うん……」そう曖昧な相槌を打っていたグエンは、まだ俺の提案を受け入れられていないようだったが、それでも俺は構わなかった。きっと今日グエンは、いやもしかしたらトゥーも、日本にやってきてから一番不安な夜を過ごすのだろう。だったら、俺にできることは一緒にいて少しでも不安を和らげること以外にはない。そう俺は心から思う。まだ分からないが、トゥーもきっと来てくれることだろう。
俺は疲れや眠気なんて少しも感じていないかのような穏やかな表情を、グエンに向ける。それでも、グエンはまだどこか煮えきらないような表情をしていた。
「あ、あのさ、友貴……」
グエンがおそるおそるといった様子で、俺に尋ねてくる。俺もぶっきらぼうな感じにならないように、落ち着いた表情のまま「何だよ」と相槌を打つ。
すると、グエンは少し言葉を選ぶように、慎重に続けた。
「きょ、今日はさ、選挙の投票日でしょ……? 投票に行かなくていいの……?」
ぎこちないながらもそう尋ねてくるあたり、グエンも今回の参院選をきわめて大事だと捉えている様子が、俺には伝わってくる。
俺はそんなグエンも安心させられるように、さらに穏やかな声と表情で答えた。
「ああ、それなら大丈夫だ。もう昨日のうちに投票は済ませてきたから」
「えっ、そうなの……?」
「ああ、そうだよ。大丈夫。ちゃんとお前らも大事にしてくれそうな候補者や政党に投票したから」
「そ、そうなんだ……」
「ああ。それにさ、この国では投票に行ったら、外食に行ってもいいことになってるんだ。だからさ、またあの店でトゥーも交えて、三人でベトナム料理食おうぜ。確か他にもメニューはあったはずから、俺も他のベトナム料理を食べてみたいしな」
「う、うん……。友貴、ありがとう」
「いいよ、礼なんて。それよりさ、残りの時間もまたバイト頑張ってこうぜ。精いっぱい働いた方が、その後に食う飯も美味くなるだろ」
「うん、そうだね」そう返事をするグエンの表情はまだ完全に明るくはなっていなかったけれど、それでも話す前よりかはいくらかすっきりしていて、グエンを食事に誘う試みは成功したようだった。きっとあの店は他のメニューも美味しいだろうし、それはグエンやトゥーと一緒ならなおさらそう感じられるだろう。
そう思うと、俺には残りのアルバイトも何とか乗り切れそうなモチベーションが湧いてくる。選挙の結果は相変わらず気がかりだったけれど、それもなるようになると思えた。
そうして俺は休憩から上がる間際に、トゥーに「今夜一緒に飯食おうぜ」といったラインを送ってから、グエンとともにコンセッションに戻った。コンセッションの混み具合は、俺たちが休憩に入ったときとも少しも変わっていなくて、俺は思わず苦笑を漏らしてしまいそうになる。
それでも、俺たちはどうにか気持ちを切り替えて、再び仕事を始めた。休まず忙しなく働いている間も、俺の頭には選挙のことよりも、これが終わったらグエンやトゥーとの夕食が待っていることが思い浮かんで、それはなかなかコンセッションに並ぶ人が途切れない中でも、確かに俺を励ましてくれていた。
そうして俺たちが止まることなく働き続けていると、時刻は午後三時半を迎え、俺やグエンをはじめとした開館時から働いている人は、退勤の時間を迎える。合間にもう一度二〇分ほどの休憩を挟んだとはいえ、長い間立ちっぱなしだったから、俺たちが感じる疲労は小さくない。
でも、明日はシフトが入っていないし、今日で忙しさのピークも過ぎたという清々しさが俺にはある。グエンの顔にもやりきった感じが浮かんでいる。
それはさっきトゥーから、俺に「OK」という連絡が来ていたことも、間違いなく大きかった。
(続く)




