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【第44話】吐露


 その日講義を終えた俺たちに、映画館でのアルバイトの予定はなかった。映画研究会の活動もなかったから、俺たちはまた俺の家に行って、アニメや映画を見ようという話になる。ちょうど数年前のテレビアニメを六話まで見終えていて、続きが気になっていたこともある。


 だから、俺たちはそれぞれ四限の講義を終えると、キャンパスの正門の前で落ち合った。


 ここ最近のグエンのことを考えて、俺は空き時間も含めてなるべく多くの時間を、グエンと過ごすようにしている。その甲斐があったのかグエンの表情は、今日は比較的落ち着いているように見える。


 俺たちは少し言葉を交わしてから、キャンパスを出発した。空に徐々に分厚い雲が広がりつつあるなかで。


 俺とグエンは軽く話しながら、いつもの帰り道を歩く。映画や漫画、アニメの話をしてなるべくグエンが楽しい気分でいられるように、俺は心がける。


 間違っても、今の日本で最大の関心事である選挙の話はしない。すると、グエンも穏やかな顔でいてくれる。


 だけれど、そんな中でも俺は少し焦っていた。今日は夕方から、夕立になるという天気予報が出ている。雲行きが怪しいことも、見上げるまでもなく感じられる。


 俺たちは気持ち少し急ぐように、俺の家へと向かう。折りたたみ傘は持っていたけれど、激しく降ることも予想されている夕立の中では、若干心もとなかった。


 だけれど、そんなときに限って車線が広い大きな通りを渡るときになって、俺たちは赤信号に止められてしまう。ここは交通量も多く、信号が変わるまでの時間が長いのだ。


 俺たちは歩行者信号が青になるのを待つしかなく、その間も俺は今にも雨が降り出すのではないかと、気が気でない。それはグエンも同様だったようで、いつもよりも辺りをしきりに見回している。


 早く青になってほしい。そう俺が思っていた矢先だった。その音声が聞こえてきたのは。


「○○○○、○○○○。『日本人ファースト』で日本を守る。参議院選挙はぜひ○○〇〇にご投票ください」


 その音声の正体が、俺には見なくても分かった。紛れもなく投票を呼びかける選挙カーだ。


 そして、その候補者の名前は、以前JRの駅前で選挙演説を行っていた人そのものだった。その候補者がどの政党から出馬しているのかも、俺には同時に分かってしまう。「日本人ファースト」という目にもしたくないスローガンが、その証拠だ。


 その選挙カーは、俺たちの目の前を通り過ぎる。車体は一般的な白いワゴン車だったものの、その上にオレンジ色で名前が記された看板が掲げられている。


 幸いその選挙カーは、交差点だったから停車はしていなかったけれど、それでも俺はその選挙カーを目にしたことを。今すぐ記憶から消し去りたくなる。


 その瞬間、俺は隣から物々しい雰囲気を感じた。見ると、グエンが唇を噛んで険しい表情をしている。「大丈夫か?」と声をかけてみても、何の反応もない。


 それはまるでたった今目の当たりにした光景に、全ての思考と動きが止まってしまったかのようだった。


 それから俺の家に着くまで、俺たちの間で会話は一言も生まれなかった。グエンが発していた重苦しい雰囲気に、俺の口はすっかり閉ざされていたからだ。


 そうしているうちにも雨はぽつりぽつりと降り出して、俺たちがアパートに着いたのを見計らったかのように、その勢いを強める。俺は「何とか助かったな」と声をかけたくなったが、やはり沈んだ表情をしているグエンに、それは憚られた。


 グエンは何も助かってなんかいない。心は今の天気以上に黒い雲で覆われ、激しい雨が降り続いているに違いなかった。


 俺の家に入ると、グエンはよたよたと歩いて、リビングの座布団に座り込んだ。その顔は完全に俯いていて、やはりにわかに声はかけづらい。


 だけれど、それでは俺の心配に思う気持ちは少しも解消されなかったので、俺は思い切って「大丈夫かよ」と声をかける。「まあ、あんなの気にすんなよ」とは軽はずみすぎる気がして、とても言えなかった。


「……どうして」


 俯いたままで、グエンが呟く。俺は何も言えない。


 そして、グエンは溜まりに溜まった思いをぶちまけるかのように、床に向かって吐き捨てた。


「どうして、ボクがこんな嫌な思いしなきゃなんないんだよ!」


 今までにも聞いたことがないほど語気を荒らげたグエンに、俺はこの期に及んでも何の言葉もかけられない。日本人である俺が今のグエンにかけられる言葉なんて、一つもないような気がしてしまう。


 グエンがおもむろに顔を上げる。その目は俺を睨んでいると形容してよかった。


「何なんだよ、『日本人ファースト』って! この国に生まれただけで、マジョリティーであるだけで、そんなに偉いのかよ! ボクたち外国人は二の次なのかよ! そこまでされるほどボクが、ボクたちが何か悪いことをしたって言うのかよ!」


「そうだな。お前の言う通りだよ。お前も、お前らも何一つ悪いことはしてない。こんなの絶対におかしいよ。間違ってるよ」


「いや、友貴はそう言ってくれるかもしれないけど、でも他の日本人には『日本人ファースト』を掲げるあの政党を支持してる人もいるんでしょ!? そんなのただの排外主義じゃんか! その人たちだって、外国に行けば外国人になるのにさ!」


「ああ。本当に俺もそう思うよ。排外主義は絶対に許しちゃいけない。自分たちとは違う人たちを排除したところで、その先に良いことなんて一つも待ってない。それくらい一八の俺でも分かるのに、もっと年を重ねたいい大人の人たちは、どうしてそのことが分からないんだって思うよ」


「そうでしょ! ていうか、もうこの国はボクたち外国人がいないと成り立たないじゃんか! 仕事でも、観光でも! それで『日本人ファースト』を推し進めたら、日本から外国人はいなくなって、この国はますます衰退していく一方でしょ! 違う!?」


「そうだな。本当にお前の言う通りだと思う。今はグローバル化もあって、ますます外国との結びつきは強くなってるから。その中で『日本人ファースト』なんて排外主義を掲げることは、大げさな言い方をすれば国際社会から白い目で見られることになると思う。そうなったらどうなるかなんて、考えなくても分かることなのにな。本当、お前が言ってることは全てその通りだよ。だからさ、頼むからもうちょっとだけ落ち着いてくれねぇか? そんな怒り狂ってるお前を見るのは、俺にとっても悲しいから」


 そう俺が心から頼み込むと、グエンはようやく少し言葉を引っ込めた。息を吸って吐いて、呼吸を落ち着かせようとしている。


 俺もそんなグエンを黙って見守る。今のグエンには自分を大切に想っている人間の存在を認識してもらうことが、何より重要だろう。


「……あのさ、友貴」


 グエンがいくらか落ち着いた声で口にする。俺も「ああ、何だよ」と、努めて普段通りに答える。


「前にさ、ボクに『日本人ファースト』って聞いたことあるだろ? みたいに尋ねてきたじゃんか」


「ああ。先週のバイト終わりにな」


「そのとき、ボクは『初めて聞いた』みたいなリアクションしたじゃん。でも、それは本当は違ったんだ」


 そう打ち明けたグエンに、今度は俺が言葉を引っ込めてしまう。「どういうことだよ?」とも、グエンが言おうとしていることを想像すると言えない。


 外では雨が本降りになり始め、うるさいほどに聞こえてくる雨音が、室内の重々しい雰囲気に拍車をかけていた。


「ボクさ、本当は友貴に言われる前から、『日本人ファースト』って言葉を知ってたんだ」


 グエンが告白したことは、残念ながら俺の想像とは少しも違っていなかった。というより、そう考えなければ今月の初めに、グエンが少し元気がなさそうにしていたことの説明がつかないだろう。


 俺も「そうなのか……」と相槌を打つので精いっぱいだ。小さく頷くグエンは本当に悲しそうな目をしていて、それが俺の胸をよりいっそう締めつける。


「うん。ボクの家から大学に向かうまでの間に地区の公民館があるんだけど、その前に選挙ポスターを貼る用の掲示板があるんだ。あれは今回の選挙期間が始まった、ちょうどその日だったよ。その掲示板にも、選挙ポスターがずらりと貼られてたんだ」


 その先は聞きたくないと、俺ははっきりと思ってしまう。吐露を続けるグエンの苦々しい表情を見たらなおさらだ。


 だけれど、この場面で「そんな話はいいから、アニメの続き見ようぜ」とは、俺には絶対に言えなかった。グエンが辛い思いまでして話しているからには、それをしっかりと聞き入れることが、今ここで一緒にいる俺の責務だった。


「友貴も知ってるでしょ。その政党がオレンジ色をシンボルカラーにしてることは。だから、そのポスターは他のポスターと比べても、ひときわ目立っていてね。そこには候補者の顔と名前に加えて、『日本人ファースト』って文字が大きくアピールされていたんだ」


 とうとう決定的なことを口にしたグエンに、俺は言葉を失ってしまう。何か言うべきなのは分かっているけれど、それでも何を言えばグエンのためになるのかが、まるで分からない。


 口を閉ざすことが一番グエンのためにはならないと分かっていても、それでも何も言えない俺は、本当に情けない人間だった。


「ねぇ、友貴。その政党はなんで『日本人ファースト』なんて言ってるの? ボクたち外国人がそんなに悪いことをしたの? ねぇ、黙ってないで何か答えてよ」


「……いや、何度でも言うけど、お前らは何も悪いことはしてねぇよ。『日本人ファースト』なんて言ってるその政党が、おかしいだけなんだ。お前が思ってることは、何一つ間違ってない。何の慰めにもならないかもしれないけど、俺が保証するよ」


 俺がそう言うと、グエンはぐっと唇を噛みしめていた。まるで次に口を開いたら、言葉以外のものも溢れてしまうかのように。


 そんな中でもグエンは小さく身体を震わせていて、それが寒気を感じているからではないことは、俺にも分かる。


 俺はそっとグエンの背中に手を置いた。それ以上は何も言わないし、何もしない。


 唇を噛みしめたままのグエン。


 外で降る雨は、ますますその勢いを増していた。



(続く)

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