【第43話】空気
「ところでさ、友貴、今日どうかした?」
こっちが尋ねるどころか、逆にグエンに尋ねられてしまって、俺は少しドキッとしてしまう。確かにグエンのことは気がかりだったけれど、それでもできるだけ普段通りに振る舞っていたつもりだったのに。
「いや、別にどうもしてねぇけど」という返事が、かすかに震える。
「いや、何かいつもよりもボクのことを気にしてるように思えたんだけど。講義の間も、そうでなくても。何かボクのことで気になることがあったの?」
あったよ。そりゃあったよ。そんな返事が、俺には喉の辺りまで出かかる。
だけれど、それを素直に認めたら、グエンはどんな顔をするだろうか。もしかしたら、あまりいい顔はしないかもしれない。
それが俺には少し怖く感じられて、そう返事をすることを妨げる。それでも、「いや、そんなことねぇよ」と否定することもできなかったので、俺は慎重にグエンに訊き返した。
「いやさ、もし違ってたら悪いんだけど、お前こそ最近何かあったんじゃないか……?」
「何かって?」
「いや、例えばショックな言葉を耳にしたりとか、目を逸らしたい光景を目の当たりにしたりとかさ」
そう訊いた俺に、グエンは分かりやすく固まっていた。それは一瞬とも呼べないほどの間で、俺は図星を指してしまったことを察する。
やはりグエンには、最近で何か気がかりなことがあったのだろう。そして、それがあの候補者が口にしていたスローガンではないことを、俺は願う。もっと家の電気の替え方が分からないとか、そういう些細なものであってほしいと。
「い、いや、別に何もないよ」
「……そっか。じゃあ、俺の思い過ごしだったってことかな」
「そうだよ。友貴が何を考えてるのか知らないけど、ボクには本当に何もないんだって」
そう重ねて「何もない」ことを強調するグエンは、もはや誰がどう見ても怪しかった。これでは「本当に何もないんだな」と、納得する人の方が少数派だろう。
それでも、俺はやはり「……そっか」としか返事ができない。ここで根掘り葉掘り訊いたら、グエンが嫌な思いをすることは容易に想像できたからだ。
グエンも黙ってしまって、車内にはモノレールの走行音しかしなくなる。お互いにスマートフォンを見ていても、気まずさは少しも解消されない。
「……ち、ちなみにさ、友貴は今何を言おうとしたんだよ」
次に口を開いたのは、意外にもグエンの方だった。ほとんど乗客がいない車内の気まずさに耐えかねたのかもしれない。
「何でもない」とごまかすこともできなくて、俺も正直に答える。
「い、いやさ、何かお前が最近居づらさを感じてるんじゃねぇかなって」
「別にそんなことはないけどね。そりゃ大学に入学した頃は友貴ぐらいしか友達がいなかったけど、それでも映画研究会に入って安井さんとか基山さんとか話せる人も増えてきたし、それにバイト先の人たちだってみんな良い人たちじゃんか。別に居づらさなんて、ボクは感じてないよ」
「いや、そういうことじゃなくて、俺が言いたいのはもっと大きなことで……」
「どういうこと?」
そう訊き返してきたグエンに、俺はこの期に及んでためらってしまう。こんなことを言ったら、グエンが傷つくのではないかと。
だけれど、JRの駅を通過したばかりのモノレールは最寄り駅に着くまではまだ遠い。そこまでの時間は、このままごまかすには俺にはあまりに長すぎた。
「いや、俺が言いたいのはそういう小さいことじゃなくて、何つうかもっと大きな、この国を取り巻きつつある空気みたいなことで……」
そこまで言いかけた俺に、グエンからの反応はなかった。もしかしたら本当に思い当たる節があるのかもしれない。
ここまで言って言葉を引っ込めるのは、あまりにバツが悪すぎる。俺は思い切って、その続きを口にした。
「あのさ、昨日俺新宿の映画館に行ったんだけど、その途中で立川で乗り換えるときに、とある候補者が選挙演説をしているところに出くわしたんだよ。ほら、今ってもうすぐ選挙が行われるじゃんか」
「……うん」
「もちろん俺も立ち止まって聞いたわけじゃねぇよ。でもさ、その候補者が『日本人ファースト』って言ったのが、俺の耳には聞こえてきちまったんだよな。その瞬間、俺は『はぁ?』って思って。何の正当性があって、生まれた国が違うだけで序列をつけてるんだよって、正直に言えばちょっとムカついたんだ」
「……うん、それで?」
「い、いやさ、ベトナムから来たお前には、その『日本人ファースト』って言葉が、俺以上にずっと怖く思えたんじゃないかって。だから、最近少し調子が悪かったんじゃないかって、俺は思ったんだけど……」
グエンはまたしても、何も返事をしない。でも、その目はかすかにでも伏せられていて、それが俺には何よりの答えになっているように思われる。口を閉ざしているのも、恐怖がぶり返してきているからなのかもしれない。
言わなければよかったのかもしれないと、俺は思う。気がかりなことを尋ねてみても、心は少しもすっきりとはしていなかった。
「な、何それ。そんな言葉、今初めて聞いたんだけど」
少しして、グエンが意外そうに返事をする。それが俺には本心で言っているようにも、取り繕った演技をしているようにも感じられた。
でも、もしも前者ならば、それは俺が言うべきではないことを言ってしまったということだ。分かりやすくインパクトのあるその言葉は、グエンからすればより簡単に忘れられるものではないだろう。
俺は「そ、そっか。悪ぃな」と言うしかない。「聞かなかったことにしてくれ」と言っても、それはもう無理な話だ。
グエンも「う、うん」としか相槌を打てていない。グエンの頭に考えなくてもいいことを植えつけてしまったようで、俺が感じる思いはバツが悪いなんて言葉ではとても足りない。
モノレールが俺たちの最寄り駅に到着するまでは、まだ一〇分以上もあって、その間も俺たちはまたぽつぽつと喋り始めていたけれど、車内の雰囲気は乗り始めた頃には決して戻らなかった。
それからも俺たちが講義への出席と、映画館でのアルバイトと、映画研究会の活動を繰り返していると、日々は一日一日着実に流れ、七月も中旬に突入していた。となると、当然のようにうだるように暑い日は続き、それはたった一日や二日雨が降っただけでは、とても和らがない。容赦なく照りつける日差しのあまりのきつさに、俺も生まれて初めて日焼け止めを使ってしまったほどだ。
そして、この災害級の暑さを大変に感じているのはグエンも同じようで、二限の前に顔を合わせたときでさえ、毎日少しぐったりしている様子が、俺には見受けられる。ベトナムだって相当に暑いはずなのだが、それでも日本の蒸したような暑さは、グエンの身にも堪えているらしい。
でも、グエンの表情にどこか覇気がないのは、俺にはこの暑さだけが原因だとは思えない。カレンダーの日付が進んでいくということは、当然二〇日に控えている参議院選挙の投票日が近付いてきているということだ。
そうなると、各地での選挙運動はますます活発になってくる。テレビをつければワイドショーでは、今回の選挙の話題を扱う時間は日に日に増えていっていたし、SNSでも選挙や政治に関連したワードは、一日も欠かすことなくトレンド入りするようになってきた。それは俺でさえ、この国で暮らしていれば選挙のことを意識しないでいる方が難しいと思えてしまう。
そして、それは「日本人ファースト」を掲げていたあの政党も例外ではなかった。いや、その政党はむしろ今回の選挙で最も注目されているとさえ言ってよくて、連日良くも悪くも何かしらが話題になっている。
とある新聞社が行った社会調査では、その政党は今回の選挙で大きく議席数を伸ばすとさえ予測されていて、俺でさえも気分が塞がってしまう。多様性、SDGsが叫ばれている現代で、こんなにも自分とは違う他者に不寛容な人がいることが、辛く感じられる。
そして、それは当事者であるグエンならより辛く、身を切るような痛みさえ感じているかもしれないとは、俺には簡単に想像できた。
(続く)




