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【第39話】異変


 それからも俺たちが家と大学と映画館の三つを行き来する生活を続けていると、日々は目まぐるしく流れ、カレンダーは七月に突入する。今年の梅雨は始まるのが大分遅かったわりには、終わるのも例年より早くて、俺に梅雨明けという実感もあまり持たせないまま、実にスムーズに夏に移行していた。


 七月に入ったその日からいきなりの真夏日となって、俺は東京の夏の洗礼を浴びる。もちろん新潟も暑かったけれど、東京の暑さは他の国に来てしまったのではないかと思うような強烈さがある。


 外に出るだけで汗をかいてしまうような暑さは、俺に無事に乗り切れるのだろうかという心配をも抱かせていた。


 そして、七月に入ってから数日が経ったその日も、俺には二限から大学の講義が入っていた。グエンも含め、俺たち経済学部の学生が全員履修している必修科目だから、強烈に日差しが照りつけてうだるように暑い中でも、俺は家を出て、大学に向かわざるを得ない。


 それでも、到着した一号館はエントランスでも冷房が効いていて、蒸し風呂のような外と比べるとまるで天国だ。


 少し早く着きすぎてしまった俺は、エントランスでグエンがやってくるのを待つ。簡単に「あとどれくらいで着く?」というラインも送ったりする。


 グエンも「あと一〇分くらい」とシンプルなメッセージを返してきていたが、それでもそのときの俺は、その簡潔さの裏にあるグエンの心情には、少しも気づけていなかった。


 グエンが一号館の入り口をくぐって来るのが見えたのは、「あと一〇分くらい」から、さらに数分後のことだった。それでも外は暑いし、途中で買い物をしていたりということも十分に考えられたから、俺は気を悪くすることはない。


 それでも、俺のもとにやってきて「おはよう」と言ったグエンの声色は、どことなく弱々しかった。心なしか表情も少し暗い気がする。連日の暑さが堪えているのだろうか。


 それでも、俺は何気ない調子で「おはよう」と返す。今日は木曜日で映画研究会の活動日だったから、それまでにはグエンの様子もいくらか良くなっているだろうと思いながら。


 だけれど、俺の思いをよそにグエンの調子はなかなか戻ってはいなかった。グエンは講義を受けている間も、何かを思い詰めているような表情をしていたし、それを横目で見ていると俺も、講義の内容がちゃんと頭に入っているのか心配になってしまう。


 昼休みのときも食欲はあるようだったが、それでも目は少し虚ろで、俺は「昨日ちゃんと眠れたのか?」と訊かずにはいられない。グエンも「う、うん。ちゃんと寝れたよ」と答えていたが、それでも俺はその返事を額面通りには受け取れない。


 もしかしたら、俺はグエンに元気がない理由を、単なる睡眠不足として片づけたかったのかもしれなかった。


 木曜日は、俺は昼休み後の三限にも講義を受けるが、グエンは受けない。反対に四限はグエンには講義が入っているが、俺には空き時間だ。だから、俺たちは四限が終わるまでは一緒にいることができず、ここでいったん別れることになる。


 それはもう何週間も繰り返してきたことだったけれど、それでも俺は今だけはいつも以上に心配な気持ちにならざるを得ない。グエンが一人でいるところを想像すると、胃が縮むような感覚にも襲われる。


 だから、俺は講義に間に合うギリギリの時間までグエンと一緒にいた。少なくとも一緒にいれば、不安もそこまで感じずに済む。


 それでも、最後には俺はグエンを信じて、学生食堂を後にするしかない。「じゃあ、また後でな」という言葉に「何事もありませんように」という願いを込める。


「うん」と頷いたグエンの目は、俺にはどことなく頼りなく見えてしまっていた。


 それからの時間は、俺は何をしていてもどこか気が気でなかった。講義を受けている間も、大学の図書館で課題に取り組んでいる間も、常にグエンのことが頭をよぎってしまう。今どんな表情をしていて、何を考えているのか、ラインで本人に直接確かめたい思いにも駆られる。


 だけれど、それはあまりにグエンのことを信じていなさすぎるだろう。俺はどうにか堪えて、時間をやり過ごす。


 それでも、四限が終わるタイミングになると俺はいてもたってもいられなくなって、チャイムが鳴る前に図書館を出て、グエンが講義を受けている五号館に入った。そのままエントランスで少し待っていると、講義を終えたグエンが階段を下りてやってくる。


 だけれど、その表情は昼休みのときから劇的な改善を見せているとは言い難かった。相変わらず伏し目がちな目が、何か気がかりなことがあることを言葉よりも先に伝えてきている。


 それでも、それをそのまま訊くほど、俺はデリカシーのない人間ではなかった。グエンが自分から話していないのだから、無理やり聞き出すわけにもいかないだろう。俺たちは映画研究会の活動が始まる時間まで、なんてことのない会話をして過ごす。


 でも、その間も誰も俺たちのことなんて大して気にしていないはずなのに、俺はひりひりと何かが肌に突き刺さってくるような感覚を味わってしまっていた。


 そしてまた今日の映画研究会の活動でも、グエンはまったくいつも通りに振る舞えたとは言い難かった。八月に控える映画の撮影が徐々に迫ってきていることもあって、七号館での教室での活動はそれぞれの役職同士の打ち合わせがメインとなっていたが、それでも俺は基山さんと話しているグエンの口調が歯切れが悪いことを感じてしまう。言葉に詰まる瞬間も何度も見られて、その度に俺は気を揉んでしまう。


 もちろん同じく照明を担当する安井さんや、一緒に撮影を行う撮影部との打ち合わせに集中する必要はあったが、それでも俺は心の片隅でグエンのことが気になり続けていた。





「じゃあ、とりあえず今日もお疲れ様でしたってことで、乾杯」


 そう言った安井さんに合わせるように、俺もジンジャーエールが入ったグラスを持って、安井さんの中ジョッキの生ビールと突き合わせた。夕食時にはまだ少し早い夕方の六時にも、ビールに口をつけた安井さんは心地よさそうな息を吐いている。俺もジンジャーエールを一口飲んで合わせるように少し表情を緩める。


 映画研究会の活動日から、週末を経た月曜日。その日の講義を終えた俺は、安井さんとともに大学の近くにある中華料理チェーンにやってきていた。


「そういえばさ、俺この週末で観たよ。ほら、お前が勧めてた『青春ゲシュタルト崩壊』」


 乾杯をしてまず映画の話題を持ち出していた安井さんに、俺は「どうでしたか?」と訊き返しながら、思わず身を乗り出してしまいそうになる。先月に公開された映画『青春ゲシュタルト崩壊』は、俺にとっては今年観た中でも指折りの好きな映画だったから、なおさら安井さんの感想が気になった。


「ああ、面白かったよ。青年期失顔症だったっけ?  自分を押し込めることで発症する、自分の顔が見られなくなる病気。その架空の病気を通して、学生時代に感じる同調圧力や周囲に期待される自分でいようとする苦しさが、押しつけがましくない程度に描かれていて。俺としても共感する部分があったよ」


 自分が好きだと思った映画を、安井さんも肯定的に評価してくれたから、俺は嬉しいを通り越して、軽く驚いてさえしまう。「本当ですか!?」と思わず訊き返してしまった俺にも、安井さんは穏やかな表情を崩してはいない。


「ああ、本当だよ。主人公が部活で追い詰められていく様子は若干誇張もされてたけど、それでも現実でもいくらでも同じようなことが起こってるように思えた。きっと同じように苦しんでる人も世の中にはいっぱいいるんだろうなって。だからこそ、部活を辞めるときに『逃げるのか?』って言う顧問に、主人公が答えた『これは選択です』っていう言葉はそういった人たちの救いになる言葉だと思ったよ。こういう青春ものの邦画は、俺は自分ではめったに観ないから、今回お前が勧めてくれなかったら観てなかったと思う。ありがとな」


「いえいえ、こちらこそ観てくださってありがとうございますですよ」


「ああ、よかったらまたなんか面白い映画あったら教えてくれよ。俺もできる限り観るようにするからさ」


「はい!」俺は素直に頷く。もちろん一番は映画自体が良いからだが、それでも安井さんにいくらか自分のセンスを認められたようで、俺は例えようがないほど嬉しくなる。人が一人で観られる映画にはやはり限度があるから、こうしてお互いに良かった映画の情報を伝え合っていると、俺も明確に楽しいと思える。


 思えば中高のときはこうして映画の話ができるような人もほとんどいなかったから、俺は上京して大学の映画研究会に入って本当によかったと、心から思えていた。



(続く)

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