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【第31話】初日

 制服に着替え終わった俺たちは、一度お互いの姿を見やる。二人とも初めて着る制服に、どこか着られてしまっているのが、少しだけおかしい。


 そうして、着替え終わった俺たちは帽子や筆記用具、ハンコといった必要なものを持って事務室に向かった。


 ノックをしてから入ると、中には島屋さんともう一人、男性が机に向かって仕事をしていた。その男性は島屋さんと同じく、この映画館を運営する会社の社員で、名前を福田(ふくだ)さんといった。


 俺たちは島屋さんに紹介されて福田さんにも簡単に挨拶をする。福田さんは身長は一八〇センチメートルくらいあったけれど、物腰は柔らかで見た目ほどの威圧感は放っていなかった。


 それでも、俺たちはやはり緊張していたので話しかけられても、そこまで会話は続かない。だから、島屋さんはタイミングを見て俺たちを福田さんのもとから離し、面接も行われた奥のスペースへと俺たちを連れていっていた。


 島屋さんに促された俺たちがソファに座ると、島屋さんはさっそく俺たちに手に持っていた書類を配った。それはずばり「雇用契約書」と書かれていて、初めて見る語句に俺たちの背筋は自然と伸びる。給与体系やここで働く上での最低限のルールが記されたそれを、俺たちは端から端まで目を通す。


 そして、内容が理解できると俺たちは雇用契約書の一番下に署名をしてハンコを押した。いよいよ本当にここで働くのかと思うと、俺たちの気は改めて引き締まる。


 グエンは日本でのハンコを持っていないようだったけれど、それでも島屋さんは署名でも良しとしてくれていた。


 そうして雇用契約を交わした俺たちは、次に二種類の資料を配られる。説明はそのうちの「基本マニュアル」から始まった。


 最初のページをめくると、そこにはこの映画館の構造図が載っており、俺たちはまずこの映画館の構造や有事のときの避難経路を説明される。島屋さんは資料を参照にしながら丁寧に説明してくれていて、俺だけでなくまだ日本語を勉強している最中のグエンも、理解するのにそれほど苦労はいらないようだった。


「基本マニュアル」で映画館の構造や働く際のルール、大まかな仕事の流れを教わった俺たちは、次に「コンセッション用マニュアル」に島屋さんと共に目を通す。コンセッションとは飲食物の販売コーナーのことで、俺たちのような新人のアルバイトは、まずそこから仕事を始めていくのだ。


 とはいえ、コンセッションだけでも各メニューの値段や諸々の機器の取り扱い、セルフレジの操作方法や業務に入る前の消毒の徹底など覚えなければならないことは多く、俺は島屋さんの説明を一つも聞き漏らさないように、集中して頭に入れていく。隣で聞くグエンの目も、真剣そのものだ。


 事務室にも引き締まった空気が漂っていて、アルバイト初日を迎えた緊張感は、俺たちの間ではまだ少しも緩んではいなかった。


 そして、島屋さんがマニュアルの最後まで説明を終えたとき、時刻は夕方の六時を回っていた。一言も聞き漏らすまいと集中していたから、まだ実際に映画館の中に出たわけでもないのに、俺はかすかに疲労すら感じてしまう。


 それでも、島屋さんは「では、実際にコンセッションに出てみて、今説明したことを確認してみましょうか」と言う。俺たちも「はい」と返事をする。もしかしたら実際に立って仕事をしていると、かえって疲労は感じなくなるのかもしれない。


 俺たちは制服と同じ色の帽子を被って、島屋さんと事務室を後にしていった。


 バックヤードから映画館の館内に出ると、広いロビーが俺の目に入ってきた。外は少しずつ暗くなり始めていて、それでも今は全てのスクリーンで映画が上映されているからか、館内にいる人はそれほど多くはない。


 それはコンセッションも同様で、並んでいる人が一人もいない状況は、他の従業員に俺たちが軽く挨拶できるだけの余裕を作る。手短に名乗って、「お願いします」とお辞儀をする。従業員の人たちも同じように「お願いします」と小さく頭を下げてくれていたから、俺たちを迎え入れようという意思が俺には窺い知れた。


 そして、簡単に挨拶を済ませると、俺たちは島屋さんから改めて、実際の機器を参照しながら説明を受ける。ポップコーン機やドリンクマシーンの操作方法、他の各フードを電子レンジで温める時間。提供方法などを俺たちは今一度レクチャーされる。どうやら今日のところは接客はせずに、フードやドリンクの提供に専念するようだ。


 そうやって俺たちがレクチャーを受けていると、次の回の上映時間が近づいてきて、館内に徐々に人が増えてくる。コンセッションに並ぶ人も、少しずつ出てくる。


 そして、俺たちは島屋さんにも見守られながら、いよいよ本格的に業務をスタートさせた。


 観客がポップコーンとドリンクのセットを注文してセルフレジで会計を済ませると、俺たちの方に向いたモニターが水色の注文番号を映し出す。島屋さんにも促されながら、まず俺がその番号をタップすると、注文番号はオレンジ色に変わった。オレンジは「提供中」を示す色で、こうすることで複数人で同じ注文を受けることを防ぐことができる。


 そうして俺は、ドリンクマシーンに紙コップを置き、ドリンクを注ぐ傍ら(当然一度ボタンを押したら指定の量が出てくる仕組みだ)、ポップコーン機の窓を開けて、既に出来上がっていたポップコーンを容器によそう。


 Mサイズの容器いっぱいにポップコーンをよそった俺は、注ぎ終わったドリンクとともに提供口において、今一度オレンジ色の注文番号をタップした。


 今度は注文番号は「提供済」を示す黄色に変わり、同時に機械からは「注文番号○○番でお待ちのお客様」というアナウンスが流れる。


 これで一連の仕事は完了だ。観客がフードやドリンクを持っていくときに「ありがとうございました」とお辞儀はしなくてもいい。混雑する時間帯には、そんなことをしている余裕はないからだ。


 とりあえず最初の仕事をマニュアル通りに終えられた俺は、心の中で一つ息を吐く。それでもコンセッションにまだ観客が並んでいる今は、束の間でも休んではいられない。グエンも他の注文への対応で、止まることなく動き回っている。


 俺も軽く島屋さんの様子を窺ってから、次の注文番号をタップした。


 始めたばかりの頃は比較的落ち着いていたコンセッションも、夜の七時を回る頃には次の回の上映時間も迫ってきて、だんだんと混雑していく。気がつけば、仕事が終わったのかスーツ姿の人をはじめとして、二〇人三〇人がコンセッションに並んでいる。


 俺たちも、誰一人として止まっている暇はない。レジの向こうは広いとは言えなかったから、お互いにぶつからないように気を配りつつも、俺もグエンも休むことなく動き続ける。フードやドリンクの中には、チュロスやフライドポテト、アルコール類など表に出ているポップコーン機やドリンクマシーンでは対応しきれないものもあって、そのたびに俺たちは何度もバックヤードとロビーを往復した。


 映画の開始時間は決まっているからか、観客の中には少し急いでいるような雰囲気を発している人もいたけれど、それでも俺たちは心の中で自分に落ち着くように言い聞かせながら、業務を続けていく。


 幸いコンセッションの仕事はすべてマニュアル化されていたから、一度要領を掴めたならば、俺たちはさほど混乱せずに業務をこなすことができていた。


 七時付近の上映回に伴った混雑は、七時四五分にもなるとかなり落ち着いてきて、従業員の間には大分余裕ができてくる。交代で一五分ほどだけれど、休憩を取ることもできる。


 一時間ほどコンセッションは落ち着いた状態が続き、夜の九時付近のレイトショーの時間帯になると、また全員で当たらなければならないほどの混み具合になったが、それでも一つ前のピークのときと比べたら、いくらか来る人も少ない。


 そうして、レイトショー付近の時間帯も乗り越えた俺とグエンは、夜の一〇時を迎える少し前に島屋さんから「とりあえず初日はこれくらいにしておきましょうか」と声をかけられた。俺もグエンも立ちっぱなしでいる時間も長く少し疲れてきていたから、素直に頷く。


 自分たちの後にも仕事をする先輩従業員の人たちには少し気が引けたものの、それでも「お先に失礼します」と言うと、穏やかな表情で「お疲れさまでした」と答えてくれて、俺も少しだけれど達成感が感じられるようだ。


 島屋さんに連れられて、二人で事務室に戻る。島屋さんはまず「今日はお疲れさまでした」と俺たちを簡単に労ってから、「どうでしたか? アルバイト初日は?」と訊いてきた。その質問も当然初めてされたから、どう答えていいかはイマイチ分からず、俺はバカ正直に「疲れました」と答えてしまう。もっと「楽しかったです」などと言えばよかったのにとは思ったが、一度口にしてしまった言葉はなかったことにはできない。グエンも俺と同じようなことを答えていて、きっとそれは島屋さんにとってみれば言われて嬉しいような言葉ではないだろう。


 それでも、島屋さんは軽く微笑みながら「そうですよね。働き始めたときには誰だって疲れますよね。今日は家に帰ってゆっくり休んでください」と言ってくれた。暖かい言葉に、俺たちも「はい」と素直に首を縦に振る。


 業務も慣れてしまえばシンプルだったし、島屋さんをはじめとして同僚の人たちも、良い人たちかどうかはまだ分からないが、少なくとも俺たちを邪険に扱うことはなさそうだ。だから、俺には次もまたここで働くことができそうだと感じられる。


 それはグエンも同様だったようで、どこか充実感すら覚えていることが、隣にいる俺にも雰囲気で感じられた。



(続く)

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