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【第21話】入学(2)

「ちょっと、友貴(ともたか)。そんなに早く行かないでよ」


 そう言ってくる母さんに、俺は「はいはい」と言いながら、少し歩くスピードを落とした。母さんはまだ五〇になるくらいなのに、もう体力がなくなってきているのだろうか。もしかしたら昨日のうちに新潟から上京してきているから、その疲れもあるのかもしれない。


 冬の寒さもいくらか緩んだ暖かな日。通りがかった公園には、いくつもの桜の木が淡く綺麗な花を咲かせていた。


 先月のうちに上京して住み始めたマンションから歩くこと一〇分。俺たちは、この日の目的地に到着していた。


 道を確かめるためにこのキャンパスには何度も来ていたけれど、それでも人に溢れた今は雰囲気がまるで違う。あちこちでスーツや振り袖を着た人たちが行き交って、構内は晴れやかな空気に満ちている。誰も彼もが緊張している一方で、これから始まる日々に期待で胸を膨らませているようだ。


 母さんも「凄いね。賑やかだね」と言っていて、俺も誇らしいような気持ちになる。


 そして、俺たちは賑やかな構内を通って、入学式が行われる体育館に到着した。その前には大きく「令和七年度 敬朝大学 入学式」と書かれた看板が置かれていて、俺は「今日からこの大学に通うんだ」という思いを新たにする。


 その辺にいた男子学生にスマートフォンを渡して、記念写真を撮ってもらう。看板の両脇に母さんと立つと、俺は自然と背筋が伸びるようだった。


「じゃあ、また後でね」


 体育館の入り口で母さんといったん別れ、俺は前方にある新入生の座席に向かっていく。俺が通っていた高校よりもずっと広い体育館には緑色のシートが敷かれ、その上には何百脚ものパイプ椅子がずらりと並んでいる。


 俺は、その中の一席に詰めて座った。隣には髪を短く切り揃えた男子学生が座っている。スーツを着るのも不慣れなようで、さらに顔を見る限りアジア系の留学生のようにも思える。


 そして、腰を下ろしたところで、俺は自分のスマートフォンを手には取らなかった。体育館の改まった雰囲気の中では、そうすることはためらわれた。


 でも、手持ち無沙汰のまま開式の時間を待つこともしがたくて、俺は自然と隣に座る男子学生に声をかけていた。


「こんにちは」


 俺に話しかけられるとは思っていなかったのだろう。その男子学生は、あからさまに驚いていた。「こ、こんにちは」と応じる声が、少し震えてさえもいる。


 俺はそんなにビビる必要もないというように穏やかな表情を心がけたが、それでもその男子学生には思った通りの効果を発揮していないようだ。


「俺はさ、継本友貴(つぐもとともたか)っていうんだけど、そっちは名前なんていうんだよ」


「は、はい。僕の名前はグエン・ヴァン・カンです」


「そっか。その名前や雰囲気から察するに、グエンは留学生だったりするのか?」


「は、はい。そうです」


「やっぱりか。どこから来たんだよ」


「ベ、ベトナムです」


「なるほど、ベトナムか。あれだよな。フォーや生春巻きが美味しいところだよな」


「そ、そうですね」


 グエンがそう相槌を打ったきり、俺たちの会話はそこでいったん止まってしまう。


 思えば俺はベトナムについてほとんど知識を持っていない。東南アジアだから暑いんだよなとか、雨がよく降るんだよなとか言っても、俺以上に緊張している様子のグエンとは、それ以上会話は弾まないだろう。


 すると、一瞬でも会話が途切れた気まずさに耐えかねたのか、今度はグエンの方から話しかけてくる。


「あ、あの。継本さんは……」


「いや、友貴でいいよ。俺たちタメだろ」


「タ、タメ……?」


「年が同じってこと」


「あっ、はい。そうですね」


「それでなんだよ」


「あ、あの、友貴さんはどの学部なんですか……?」


 そう訊いてきたグエンが、まだ俺に「さん」づけをしているのが、俺には少し引っかかる。別に同い年なんだから呼び捨てでいいのに。


 それでも、ただでさえ慣れない異国の地に、きっとグエンは極度の緊張を抱いているのだろう。それを思うと、俺もいきなり「呼び捨てでいいのに」と言うことは気が引けた。


「俺? 俺は経済学部なんだけど」


 そう答えた瞬間、グエンの表情がパッと明るくなった気が俺にはした。


「本当ですか!? 僕も経済学部です!」


 そういくらか声を弾ませていたグエンに、俺もまた嬉しくなってくる。俺だって新潟から上京してきて、知り合いや友人が誰もいない大学生活を心細く感じていた部分は確かにあった。


「そっか! 俺たち一緒か! じゃあ、講義やオリエンテーションで一緒になることもあるかもしれないな」


「はい! 友貴さん、これからよろしくお願いします!」


 グエンの声にはいくらか力強さが感じられて、同じ学部の学生が見つかった喜びを、心から感じているようだった。それは程度の差こそあれ、俺も同じだ。国の違いはあれど、俺たちは一人でこの大学にやってきた。共通項が見つかって、グエンをぐっと身近に感じられるようだ。


 俺も「ああ、よろしくな」と返す。グエンは微笑むことさえできるようになっていて、俺の緊張もいくらかは解けていた。





 入学式が終わった後も、俺は何人かの俺と同じ新入生に話しかけていた。一人で手持ち無沙汰そうにしている人に声をかけたり、何人かで集まっているところにそれとなくタイミングを見て、割って入ったり。その中の何人かとはラインを交換できて、滑り出しとしては悪くない。


 でも、一緒にご飯を食べたり軽くお茶をしたりということは誰ともできずに一人で家に帰ることになり、俺は少し焦ってしまう。高校までは普通に友達はいたのだが、それでも上京して大学に通うとなると、初めて会う人たちとは何を話せばいいのかが、すぐには分からなくなるようだ。


 結局、俺は母さんと近くのファミレスで昼食を食べて、大学の最寄り駅で別れると、一人で家路に就いた。


 丸々空いた午後の時間をどう過ごせばいいのか、俺はイマイチ分からない。電子書籍で漫画を読んだり、サブスクリプションサービスでアニメを見たりしていても、時間は大いに余ってしまいそうだった。


 そして、翌日。俺は午前一〇時半から始まる新入生オリエンテーションのために、再び大学に向かっていた。入学式のときは体育館に入っただけだったから、初めて教室棟に足を踏み入れるだけでも、俺はドキドキしてしまう。


 オリエンテーションは学部別に行われることになっており、俺が所属している経済学部の会場は、三号棟の三〇一教室だ。


 オリエンテーションが始まる一〇分ほど前に足を踏み入れると、教室の広さはやはり高校とは段違いだった。二〇〇人は入りそうな広さに、この規模の教室が他にもいくつもあると思うと、俺はカルチャーショックを感じてしまう。


 それでも、ひとまず真ん中あたりの空いている席に腰を下ろす。二人掛けのその席には、まだ隣に誰も座っていない。


 他の席では大学に入る前からの知り合いなのか、それとも昨日一日で知り合ったのか、会話をしている新入生も何人も見られ、俺の心はにわかに焦りだすようだ。


 オリエンテーションの開始時間が近づくにつれて、教室には続々と新入生たちが入ってきて、席も次々と埋まっていく。


 それでも、俺の隣の席はなかなか埋まらなかった。そりゃ俺だって一人で座るなら、誰かの隣より空いている席の方がいいが、それでもまるで避けられているようで、少し釈然としない気持ちはある。


 それでもスマートフォンを見ながらなんてことない様子を装っていると、ふと頭上から「あの、隣に座ってもいいですか?」という声がした。日本語を母国語としていない人特有のイントネーションとたどたどしさに、俺は思わず顔を上げる。


 すると、俺の隣には昨日入学式で隣に座った留学生が立っていた。


「ああ、確かお前は……」


「はい。グエン・ヴァン・カンです。ベトナムから来ました。あの、隣に座ってもいいですか?」


 もう一度そう訊いてきたグエンに、俺は「ああ、いいぜ」と頷いていた。俺だって周りの人間にぼっちだと思われるのは嫌だったし、それ以上にグエンは慣れない異国の地で不安なことだろう。


 だから、たとえ昨日たった一時間ほど隣にいただけの俺の隣に座りたいと思うことも、自然なことのように思えた。


 グエンが俺の隣に腰を下ろす。でも、俺たちの間に会話はすぐには生まれなかった。俺はベトナムから来たグエンに何を話せばいいか分からなかったし、それはグエンも同様のようだ。俺たちの間には沈黙が流れ、グエンも耐えかねたように自分のスマートフォンを取り出している。


 俺もスマートフォンを見ながら、それでも落ち着かない感じは消えない。ここはまだ大学に慣れていないとはいえ、日本人である俺から切り出すべきではないのか。


 でも、何から話し出せばいいのだろう。


 少し迷った挙句、俺はオリエンテーションが始まる二分ほど前になって、慌てて声をかけていた。


「あのさ、グエンさ」


「何でしょう?」グエンはいきなり話しかけてきた俺に、少し不思議そうな目を向けていた。それを見ると俺は少し怯みそうにもなったが、それでも意を決して続ける。


「よかったらさ、ライン交換しねぇか?」


 俺の提案が、本当に唐突に感じられたのだろう。グエンはあからさまに目を丸くして、「えっ、いいんですか?」と言う。心底意外そうな表情は、持ちかけた俺ですら「そこまで驚くようなことか?」と思ってしまうほどだ。


 それでも、俺は「いや、いいに決まってんだろ。入学式でも隣の席になって、しかも学部も同じっていうのは、きっと何かの縁なんだろうし」と返す。実際、俺も大学に入学してからまだ誰ともラインを交換できていなかったから、焦りや心細さは確かに感じていた。


 グエンも「そ、そうですね」と頷き、俺たちはスマートフォンでラインのアプリを表示させる。グエンがQRコードを出し、俺が読み込む形だ。


 そうすると「グエン・ヴァン・カン」という名前は、すぐに俺の友だちリストに追加された。初めて大学に入ってから誰かとラインを交換できて、俺はささやかに安堵する。


 そして、グエンは俺以上に心細かったようで、安堵が大きなため息となって表れていた。その様子を見ていると、俺もグエンが大学に馴染むための一助になれたようで悪い気はしない。


 グエンが「友貴さん、改めてよろしくお願いします」と言う。俺も「ああ、よろしくな」と返したところで、オリエンテーションの開始を告げるチャイムが鳴った。


 さっそく学生課の職員が簡単に挨拶をし、俺たちにはオリエンテーションの内容をまとめたプリントが配られる。前の人から二人分を受け取ってグエンに渡すと「ありがとうございます」と爽やかな笑顔で言われ、俺は少し照れるようだった。



(続く)

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