【第20話】決行
どうにか歩き続けて、コンビニエンスストアに辿り着く。今はシフトが始まる十数分前。まだ堺谷さんが来ていませんようにと願いながら、ボクは従業員通用口から店内に入る。
すると、ロッカールームに堺谷さんの姿はなかった。まだ出勤してきていないらしいことに、ボクは束の間安堵するも、すぐに「でもいずれ来るんだよな」と思って、また気が重くなる。
制服に着替え、リュックサックと一緒にスマートフォンをロッカーに入れる。その間も堺谷さんはまだ出勤して来なかったけれど、それでもボクは堺谷さんと一緒の空間にはいたくなかったので、着替え終わるとすぐにロッカールームから出て、シフトに入るまでの時間をバックヤードの廊下で過ごした。
その間も心臓はやかましく跳ねて、少しも落ち着くことはなかった。
シフトに入る五分前に、ボクは店内に出る。一つ前のシフトだった橋詰さんから、レジ業務の合間に引き継ぎを受ける。その途中に堺谷さんも店内に出てきて、その姿を見た瞬間、ボクの身体は思わず固まってしまうようだった。
堺谷さんは何食わぬ顔をしていたけれど、でもボクはその表情にも「この人はもう、選挙でもあの政党から出馬した候補者に投票してきたんだろうか」と思ってしまう。いや、選挙運動にも参加していた堺谷さんのことだ。絶対に投票は済ませていることだろう。
それを思うと、店内に効いている冷房以上に身体の奥から寒気がしてくるようだった。
そうして、ボクたちのシフトはこの日も夕方の五時から始まった。同じシフトには入江さんも入っているけれど、昼間のシフトと連続だから、今は休憩に入っている。
だから、店内にはしばらくボクと堺谷さんしかいなかった。堺谷さんと一緒にレジに立っているだけで、ボクは息が詰まるような思いがする。目眩さえ覚えてきそうで、レジ打ちや接客にもいつにもなく難儀してしまったほどだ。
ボクが立つレジの前にやってくる日本人のお客さんの、何とも思っていないような顔もそれに拍車をかける。心の底では外国人のボクを嫌だとか疎ましいとか思っていて、ただ単にそれを表に出していないのではないかとさえ思えてしまう。
そう疑ってしまうくらい今のボクの心は不安で占められていて、笑顔を浮かべる余裕はなかった。きっと堺谷さんもうだつの上がらないボクを不満に思ったり、腹を立てていることだろう。
ボクは堺谷さんの方を見ることができない。話しかけることもまたしかりだ。
だけれど、隣に立つ堺谷さんの存在をボクは絶えず意識してしまう。雰囲気がいつもより刺々しいのは、ボクの気のせいではないように思えた。
そうしていると時刻は七時を回り、堺谷さんは最初の休憩に入った。
堺谷さんがバックヤードに入っていくと、ボクは本当に申し訳ないけれど、心から安堵の息を吐いてしまう。入江さんとレジに立っている間は少しだけ心が落ち着き、このままシフトが終わるまで堺谷さんが戻ってこなければいいのにとさえ考えてしまう。
でも、それは当然叶うはずもなく、三〇分ほどして出てきた堺谷さんに、ボクは「グエン、八時まで休憩入れよ」と言われてしまう。当然、また堺谷さんと一緒にレジに立つことは辛かったので、ボクも「はい」と頷いて、バックヤードへ入った。
飲料の補充をしている入江さんに軽く挨拶をしながら、ロッカールームに向かう。そして、自分のロッカーを開けるとリュックサックの中からスマートフォンを取り出して、ボクはそのままエックスを開いた。
まずベトナムのトレンドを見てみると、そこにはこの日行われるサッカーの試合や、発売されるアイドルの新曲といった話題が並んでいた。それは同じ地球にあるとは思えないほど、今の日本の状況からはかけ離れていて、その平穏さがボクには涙が出そうなほど懐かしく思える。
本当ならボクだってこのまま何も知らずにアルバイトを、今日を終えてしまいたい。でも、それを少しも意識しないことはボクにとっては無理な話で、ボクは思わず日本のトレンドに表示を切り替えてしまう。
すると、そこには思った通り今行われている選挙の話題がずらりと並んでいた。もうすぐ投票も締め切られるとあって、なおさら注目が高まっているのだろう。出口調査の結果や、いくつもの政党・候補者の名前が挙がっている。
どうやら今の与党は苦戦しているようだ。それをボクは喜んでいいのかどうか分からない。
いや、与党が苦戦する一方で、あの政党が議席数を大きく伸ばしそうだという予測が出ていることがボクには辛く、苦しく、また悲しく感じられる。
分かっている。今日は日本の行く末が決まる大事な日だ。その政党が躍進しそうなのも、きっとこの国の人たちの決断なのだろう。
でも、「日本人ファースト」を掲げるその政党が描く未来に、外国人であるボクは含まれているのだろうか。いや、未来なんてぼんやりとしたものよりも前に、ここにある今が危機的な状況に陥っている。
そう考えると、ボクには怯えが止まらない。このままではいられないと、はっきり思う。
だから、ボクは同じリュックサックからプラスチックのケースを取り出していた。とにかく現状をどうにかしたい。その方法は、今のボクには一つしかないと思える。
プラスチックケースを両手に抱えながら、ボクは店内に戻っていく。そして、レジに戻ったときにはまだ店内にお客さんはいなかった。
「どうした、グエン? 休憩入っていいって言ってるんだけど」
堺谷さんが心底不思議そうな顔をして言う。どうやら本当に心当たりがないらしい。それが、ボクの「そうするしかない」という思いをより強固にする。
ボクはプラスチックケースのファスナーを開けて、中身を取り出した。すると、堺谷さんの視線もボクの手元に向く。
ボクは今、紛れもなく自分の意志で包丁を握っていた。
「おいおい、どうしたんだよ。グエン、そんな物騒なもん持って」
そう言う堺谷さんの声からは、危機感は感じられなかった。まさかボクが本気なのだとは思っていないのだろう。この期に及んでも事態を把握できていない堺谷さんが、ボクには本当に救いようもないように思える。
ボクはおそるおそる尋ねた。
「……堺谷さん」
「何だよ」
堺谷さんはこの状況でも、何が何だか分からないという表情をしている。自分がしたことをまるで分かっていない様子の堺谷さんに、ボクは意を決して尋ねた。
「ボクは、二の次、なんですね……?」
(続く)




